社会学とは。人間がこの地上で生きる為に営む行為と、それを越えて人間の可能性を発揮する行為の調整を行うのが社会学。
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社会学とは
 社会学とは、人間がのもつ可能性を最大限に発揮することと、この世界の中
 で人間が生きる為に必要不可欠な行為との2つの行為を行う上で発生する
 矛盾や軋轢について洞察することにある。
 その2つの行為のバランスを調整して人間社会を安定させるのだ。


 
● 人類の2つの行為

 人類は、いかなる時代であっても、以下の2つの行為を行ってきた。

   この世界で人間が生きる為に行う現実的行為
   人間が有する可能性の最大限の展開


 この世界で生きる人間は確かに、ご飯を食べる必要がある。
 衣服を着て、住まいを整えて快適な環境で雨風を凌ぐ。
 この世界で生きる上で、それらのことは軽視できない。
 この世界で生きる為に、人間には行うべき必要不可欠な行為があるのだ。

 同時に、人間は人間のもつ可能性を最大限に展開することを望んでいる。
 
探究心、芸術心、慈悲心、神心などの発揮である。

 その現われが、学問や芸術や宗教の形となった。
 社会奉仕や公的な役割、使命感なども時に、この範疇に属する。
 これらの心を発揮して生きることを、人間は多かれ少なかれ望んでいる。

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      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来の芸術家へ



 ● 欠乏の世界と現実的な対応

 人類は、いつの時代も人間の可能性を展開すること望んだが、人類はそれだけ
 に集中して取り組めるわけではない。

 人間の可能性を発揮する以前に、多くの困難が大地に降り注いでくる。
 我々はこの大地を生きている。
 我々の生きるこの世界は
欠乏の世界である。

 毎日、食事をとることが必要になる。
 その為に、魚や動物の命を奪わなければならない。
 油断をすれば、すぐに各地で飢饉が発生し、飢餓が蔓延することもある。

 誰もが快適な場所で過ごしたいと望む。
 なれど突発的に地震や、洪水、火災などの災害が発生し、快適な住まいが
 失われることもある。

 誰もが健康で様々な活動に迫られる。
 なれど疫病が人々を襲い、病気になり衰弱することもある。

 多くの人が多彩な商品やサービスを得たいと望む。
 なれど人々の虚栄心や嫉妬心が、時に差別を生むことがある。

 多くの人が、社会の中で頼られて認められたいと望む。
 なれど人々の自己顕示欲や権力欲が争いを生み犠牲をもたらすことがある。

 米や麦などの穀物を得るには、多大な重労働が必要となる。
 食料だけに限らず雨風をしのげる家が必要となる。
 衣服も最低限必要となる。
 この
世界で生きる為には現実的な対応が必要なのである。

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 ● 2つの行為のギャップと社会学

 人類は、この2つの行為を同時に行ってきた。
 時に2つ行為は互いに相反して作用し、マイナスの結果をもたらすこともあった。
 時代によって片方に比重が置かれすぎることも多々存在した。
 片方に比重を置きすぎれば、大概、その反動が人類を襲った。

 
飲み食いするだけの生活は、人間社会をすさませる。
 人間の内から倦怠感、虚無感、不誠実が生まれる。
 それが騒乱と天災を呼び寄せて、挙句の果てに飢餓が人々を襲い、暴力が
 世にはびこり、戦争を引き寄せた。
 人間の可能性の展開を忘れると、見える形でしっぺ返しがくるのだ。

 反対に
人間の可能性の展開ばかりに心を配る生活は、現実的な対応力
 に欠ける時があり、現実的な対応に力を注いできた国家に飲み込まれる危険性
 を常にはらんでいた。

 社会学とは、この大地を生きる我々人類が、この2つの行為を行う上で
 抱えた矛盾や葛藤、そこから発生した
ギャップの影響をどのように
 抑えるか、その為に人間社会が、いかように変化して対処してきたのかを
 冷静に把握することにある。

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● 社会学者の必要不可欠の知識


 人類がこの大地で2つの行為を同時に実践してきて生まれた矛盾とギャップを
 詳細に理解する為には、まず以下の理解が必要となる。

     人間についての理解
      この世界についての理解
      この世界で人間が生きることについての理解


 社会学とは、この世界で生きる人間の定めを理解することにある。
 その為には、まずこの世界の真実の姿を見つめなければならない。
 そして、人間の本質を理解する必要がある。
 その上で、人間がこの世界で生きる意味を理解することが可能となる。

 人間はこの世界の中で、翻弄されながらも、それでも人間らしく生きてきた。
 そう試みてきた。その人間の生き様と、その結末を知ることである。
 時に人間社会がまったく立ち行かなくなることもある。

 人類がこの2つの行為を同時に行った場合に発生した
矛盾を社会学者は
 見過ごしてはいけない。その矛盾を埋めるべく人間社会は変化し、バランスを
 整えようとするものであるからだ。
 人間の目には捉えられてなくても、バランスを取るかのように社会の形態は
 動きは始める。 人々が無意識に選んだ行為の中に、そのギャップを埋める行為
 が含まれることが往々にあるのだ。

 それらの行為の中に、人間の美点である勇気や愛情も含まれているものだ。
 人々がそのギャップを埋めるべく、いかに勇敢に対処してきたかを心に留めて
 おくことがは大切である。社会学者はその点の洞察力を必要する。

 深い洞察力を必要とする社会学者は
幅広い知識が要求される。
 社会学は、歴史学・経済学・心理学もそのフィールドにする。
 時に、哲学に手を伸ばし学ぶ必要も出てくるのだ。

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● この大地に生きる人間

 この自然は種を守る為に慎重に慎重を重ねるが、個体(個々の生命)の生き死
 については興味を示さない。自然はここの命についてはまるで無関心である。
 自然はただ傍観するのみだ。

 この世界で生きとし生ける命は、日々に成長し、姿を変化し続ける。
 生あるものにはやがて死が訪れ、また再び生がもたらされ、そして死が訪れる。
 この世界は諸行無常である。

 
この世界は諸行無常千変万化。常に変わり続ける世界であることが知られた。
  
 
2500年以上前に、天才釈尊によってこの世界の真理が大衆に明らかにされた。

 流れ行くこの世界の中にあるからこそ、人間は永遠なるものを感じようと
 人間の内に秘めたる可能性を最大限に発揮しようと望む。

 だが思い通りに行く事は少ない。
 この世界の現実はそう甘くないからだ。


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      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の釈尊



 ● 生への欲求と死

 活動がなければ生も死もない。
 活動することは生きることである。と同時に死に向かうことである。
 生きることは、一歩一歩と死に着実に向かうことでもある。

 食べ物を食べて満腹感を得ても、すぐにお腹は減り始める。
 満腹感を得れば、今度はたくさんの洋服が欲しくなる。
 洋服が得られて満足かといえば、今度はもっと多くの洋服が欲しくなる。

 貪欲さがまし、執着心が心を独占し始める。
 肉体が満足したかと思えば、今度は心の中から飢餓の心が生まれてくる。

 この世界は欠乏と苦に満ちている。
 この世界と同様に、また
人間も真に救いがたい。

 この世界は欠乏の世界であり、また我々の足元にも欠乏が忍び寄ってくる。
 満たされたと思っていたら、今度は違う箇所から欠乏が訪れてくるのだ。
 我々は、確かにそういう世界に生きている。
 そしてまた、我々自身がそのような存在でもある。

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 ● 社会学者の仕事

 人類はいつの時代も2つの行為を実践してきた。
 人間がこの世界で生きる為に必要な現実的な行為と、 人間がこの世界に
 内ゆえに生まれてきたか、それを問いながら生きることである。

 この2つの行為は、いかなる時代、国家においても試みられたきた。
 もちろんその
2つの行為のバランスは時代により地域により異なった。

 人々を取り巻く環境によって、2つの行為のいずれかに比重がかけられた。
 2つの行為の比重の割合が、一定期間変化せずに続くと、それが人々の
 価値観となっていった。

 この2つの行為を同時に行う時に、人間と社会の間から生じた矛盾やギャップ
 を把握することが社会学者の仕事である。
 そのギャップをなるべく見逃さず、時に調整することが社会学者に求められる。

 人間社会で人々が当たり前に考える価値観ですら、この2つの行為のバランス
 計る為の物であったりする。
 社会制度や政治制度とて、これらの2つの行為の人類が実践してきた中から
 生まれた子供に過ぎないのである。
 偶然に出来た子供であるともいえる。

 これらの裏側にあるものを洞察し、そのギャップが生み出す表面上の変化を
 把握する者が社会学者である。

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 * もちろんバランスを調整することを安易に行うと、必ずしっぺ返しを食らう。
   深い洞察力と、長い歴史の中での人々の失敗を知るこが必要となる。


 
● 古代人の英明さ

 真に優れた社会学者になる為には以下の理解が必要であることは述べた。

     人間についての理解
      この世界についての理解
      この世界で人間が生きることについての理解


 社会学とは、この世界で生きる人間の定めを理解することにある。
 その為には、まずこの世界の真実の姿を見つめなければならない。
 そして人間の本質を理解する必要がある。
 その上で、人間がこの世界で生きる意味を理解することが可能となる。

 これらを真に理解しなければ、なにゆえ、社会がこのように変化するのか
 その理由はなんであるのか
最初の糸口も掴めないことになる。
 第一級の社会学者になるのであれば、幅広い知識を得る必要があり、
 その為の地道な努力は必要不可欠である。

 もちろん、これらを理解したとしても
未来を予測することは困難である。
 様々な因果が絡み合って未来が決定する。
 未来を予測することは人智では不可能である。

 この意味で社会学者の
大半の仕事も過去に投げかけられている。
 だが社会学は現在、未来に対して無力かといえばそんなことは決してない。

 偉大な文明の背後には
超一流の洞察が必ず存在している。
 社会学者の洞察が深ければ深いほど、またその意味を人々に展開して、人々
 と共有すればするほど、優れた文化が生まれ、それが最高潮に達して偉大な
 文明を導くことに貢献することにもなるのだ。

 古代の文明の偉大さは、その時代の人々の偉大さを物語る。
 人間そのものに力があった。
 古代の人々の洞察力はあらゆる分野に向かって広がっていた。

 古代人の洞察力は、現代の我々では足元にも及べないのだ。
 偉大な文明のあらゆる分野に人間の鋭い洞察力が潜んでいる。
 古代ローマがあれだけの栄耀栄華を極め、長期に続いたのも偶然ではない。
 古代人が保有して洞察力こそが現代の社会学者が目指す最高地点と言える。

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      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の歴史家へ
        稲穂黄金の古代人と現代人



 ● 社会学者の見本

 社会学者のより良い見本といえば、近代ではマックス・ヴェーバーである。

 彼は、資本主義が生まれた背景を
偶然の産物と見た。
 資本主義は人間が意図したものではなく、資本主義を生み出す原動力に
 なった人々の意図は、資本主義とは正反対の意図を持つ人達だと述べた。
 正反対の意図を持つ人達のエネルギーが資本主義を支える原動力が偶然
 にも資本主義の原動力に転換されていく様をマックスヴェーバーは述べた。

 彼の洞察力は確かに優れている。
 もし、あなたが社会学者として縦横無尽に活躍したいならばヴェーバーの
 領域まで駆け上っていく必要がある。
   社会学者として未来に対して何か真に意義ある対応を提案したいと本気
 で望むならば、彼と同等、またはそれ以上の洞察力である。

 マックス・ウェーバーは社会学の
学者としては最高レベルに到達した。
 この点は否定しない。だがあくまでも学者としてだ。
 この上には真の探求者がいて、その頂点には天才達がそびえている。

 マックスヴェーバーは社会学者として最高レベルに到達した。
 アインシュタイン、ニールスボーアは物理学者として最高レベルに到達した。
 トルストイ、ドストエフスキーは文学の世界で最高レベルに到達した。
 これらの者達は真に優れているが、天才ではないのだ。

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      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来の学者へ
        稲穂黄金の未来の天才へ



 
● 学者の最高レベルと天才との差

 マックスヴェーバもアインシュタインもニールスボーアも皆、優れた一流の学者
 である。なれど天才ではない。
 アインシュタインなどは地道な愛すべき努力家である。

 天才とは明らかに違う。
 天才とはその生み出す作品の質がまるで違うのである。
 真の天才だけが人間の奥に潜む本質を見抜く。
 真の天才だけがこの世界の本質を見抜くのだ。
 
 真の天才をあげよと言われれば
 哲学であればカントでありショーペンハウアーであり、プラトンである。
 文学であればシェークスピアでありゲーテである。

 マックス・ヴェーバーの業績も、ニールス・ボーアの業績も大変立派である。
 もちろんアインシュタインの業績も非常に立派である。
 なれど、それはあくまで人智のレベルなのだ。

 もし仮に彼らがそれを行わなかったとしても、年月は要しようが100年後に
 他の誰かが彼らに類似した業績を見出す可能性は高い。
 とっかえ可能なのである。時代がそれらの人々をもたらすことが多くあるのだ。

 だが天才となると話は異なる。
 ゲーテの色彩論はゲーテ以外に書くことは不可能である。
 カントの純粋理性批判は、カントが書かなければ1000年経とうが生まれるもの
 では決してない。
 天才の作品は天才以外にもたらすことは不可能なのである。

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      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金のゲーテ
        稲穂黄金のカント

        稲穂黄金のショーペンハウアー
        稲穂黄金のプラトン


 
● 古代の人々の洞察力と予言

 この世界と、この世界で生きる人間が引き起こす摩擦、矛盾を敏感にキャッチ
 するものは、優れた社会学者になれる。

 これらの矛盾に、ほとんどの学者はまるで気づかない。
 優れた学者が、それを察知して、あるものは文学で表現する。
 あるものは詩で表現し、そしてまたあるものはその意味を語る。

 古代の賢者が述べたことが、その後、予言のごとく適中することが多いのも
 賢者はその矛盾に気づくからである。
 人間の奥に潜む本質を知り、その本質とその時代の取り巻く環境が差異に
 よって社会がどの方向に動くかを見抜いた結果である。

 反対に、これらの矛盾にまるで気づかない者、予感のない者は、これらの矛盾
 が生じた影響の波を受けやすいのだ。盲目的に導かれるように行動して
 時代のうねりの中で翻弄されたりする。

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● 社会学と未来予測

 洞察を極めた社会学者がいるならば未来に対しても対策を講じることは
 可能ではある。だがそれで万全となることなど決してない。

 確かに、洞察力豊かな社会学者ならば、人々の動機を知り、満たされない
 欲求のはけ口がどの方向に進むかも伺い知るだろう。
 動機などの原因とそこから派生する影響の範囲もある程度、予測することは
 できるだろう。
 だが、最終的にもたらされた結果は、予想を裏切ることも多いのだ。
 それだけ
未来を予測することは困難を極める。

 なぜなら、人々の動機や欲求が同じであっても、それらの人間を取り巻く環境
 は時代ごとに大きく異なるからだ。
 仮に、取り巻く環境が同じであったとしてももたらされた結果は、正反対に
 なることさえある。

 この世界には
様々な因果の系が存在している。
 そしてそれらの因果の系が互いに
影響し合っているのだ。
 1つの小さいな出来事が、異なった大きな結果を生むことがあるのだ。

 人間が意図したものが結果としてもたらされることは少ない。
 反対に人間の目からは、まるで偶然のごとくに見えることがもたらされる。
 歴史上には、そのようなことが多々存在する。

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● 歴史家と社会学者@

 歴史家の多くは、歴史の中で現在に似た状況を見つけ、その共通点を注視して
 現代に生かせるものはないかと考える。
  だが現代の問題に対する答えは過去にあるのではなく、今、現在の中から
 見つけ出す以外にないのだ。

 歴史を眺めれば、この地上には過去、多くの国々が存在した。
 これらの国々は
歴史に学ばなかったから滅んだのでは決してない。
 反対に、答えを見つけ出そうとして熱心に歴史から学んだのだ。
 国が滅んだのは歴史を学ばなかったからというわけではない。
 歴史から学んでいても滅ぶのだ。

 現代に生きる我々に降りかかる
問題の答えは、現在の中に潜んでいる。
 歴史を学ぶとは、そのことを理解することにある。

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      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来の歴史学者へ



 
● 歴史家と社会学者A

 もちろん歴史を学ばない国は、すぐに滅びる。

 歴史の意義は、時代ごとに環境は異なるがそこで人間がどのように生きたのか
 を現代の人々に伝えることにある。過去に生きた人間は我々である。

 我々がその時代、その環境に生きた姿を見せてくれているのだ。
 どのような時代にあっても、人間が価値を見出し、その価値を貫いて生きた
 生涯は現代に生きる我々を励ます。
 歴史は現在を生きる人々への励ましである。
 今を生きる我々の生き様は、また未来の子孫の励ましとなる。

  矛盾がひしめくこの世界において、過去の人々がどのように生きたのかを
 知らない人々は、この世界でたった1人で不安を抱えて生きるようなものだ。
 だから
歴史から学ばない国は、いずれ、この不安に耐え切れなくなる。
 そして国家は、空中分解することになる。
 だが
歴史を学んでいても国は滅びる。
 様々な因果によって偶然のごとくに国家が消え去っていく。

 社会学者は、この地点をスタートラインにして考える必要がある。

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 ● 社会学者の仕事

 
宗教家は、この世界で人間が何を成すべきかを問いかける。
 なれどこの大地は甘くない。現実は甘くない。
 打ちのめされ、そうやって人々は勇気を失うこともある。

 その時、過去にこの世界を勇敢に生きた人間がいたこと人々に知らせ励ます
 のが
歴史家の役割である。

 そうやって、ゆっくりと進む人々の前に立ちはだかる問題や障害などを
 先回りして取り除くのが
社会学者の役割となる。
 人々がその障害を乗り越えられるように対処するのだ。

 その為、社会学者は多くを学ぶ必要がある。
 歴史学・心理学・宗教、時に哲学を学ぶ必要さえ出てくる。

 そして社会学者の目は、今、現在に向いていなければならない。
 現在に起こっている問題の解決は、また現在の中に潜んでいるものである。

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● 社会学者が忘れてならないこと

 以下のことを社会学者は決して忘れてならない。
 人類にとってどれだけ素晴らしい環境が整おうが、だからといって
 それによって人間が完全に救われることなどない。反対にその環境
 の充実が、人間の内部に潜む問題を噴出することさえある。


 過剰な環境の充実は、反対に人を苦しめることさえある。
 お金に縁のない、極貧の中で暮らしていた人間が、宝くじに当たると、まともな
 暮らしに満足を見出すかと思いきや、生活は散漫になり、家族がお金のことで
 仲たがいし、最終的には自己破産することになるのだ。

 問題は人間の側にある。
人間の中に愚かさが潜んでいる。

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 ● 社会制度と社会学者

 人間が長い歴史の中で、形成してきた社会制度や政治制度は、人間が社会
 を形成して生きる上で重要な役割を示してきた。
  これらの社会制度には、必ず、あの2つの行為の調整をする面が潜んでいる。

 また社会制度には、重要な大きな役割がある。
 人間のもつ愚かな面を抑えることである。
 我々人間の中に愚かさが潜んでいる。

 我々人間が集団で生きる為には、各個人の欲求や怠惰を抑えるルールが
 必要となった。
 これは世界中に存在した国々が必ずには、様々に異なりはするが、政治制度、
 社会制度などのルールが存在していたのでも明らかである。
 多くには経験的な考慮により法律は形成されていった。

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  ● 楽園は地獄を引き寄せかねない

 仮に人間のもつ愚かさや救いがたさが解消されずに、楽園が訪れたならば
 その楽園の中で、人間は真に苦しむことになる。

 楽園論者が夢見る楽園が、人間の努力もなしに降って湧いてきたならば
 人々は楽園で苦しむことになり、やがて地上は地獄と化すことになる。

 楽園論者は、
環境が満たされれば全てが解決すると考える。
 あまりにも幼稚である。
 環境が満たされるだけで、人間が完全に救われることなど決してない。
 環境が満たされれば満たされるほど、反対に苦しみは増大することさえある。
 人間の愚かさが取り除かれないからだ。

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  * その証拠に、もともと計画的に働いて富を得ることを考えない人々が
    宝くじでも当たろうものなら、そのお金の使い道と取り分をめぐって夫婦が
    喧嘩し離婚することもある。お金が底をついても浪費する生活が抜けず、
    借金を重ねて、あげくに自己破産することになるのだ。


 
● 再度、社会学者が忘れてならないこと

 もう一度述べる。
 どれだけ素晴らしい環境が整おうが、だからといってそれによって人間が
 完全に救われることなどない。
人間の中に愚かさが含む。

 人間は外的な環境に一時は満足するかも知れぬ。されどその時間は短く
 すぐに本来の性質が全面にでてきてそれが不満と不安に変わる。

 確かに外的な環境の整備は人間の生活を潤す。
 外的な環境の充実は決して軽く扱うべきものではない。
 外的な環境の充実によって多くの困難も一時、見えないようにできる。

 なれど人間は外的な環境によって真に救われることはない。
 人間の内に問題があるからだ。
 外的な問題に取り組んでいるときには表に出て来る暇もなかった問題が
 外的な問題が解決するにつれて、突如、人間の内部から噴出してくる。

 現代は1000年前よりも遥かに科学が発達している。
 なれど人類が抱える問題の数はまるで減ってないのだ。
 便利になったがゆえに、多くの問題が止めどもなく現代に現れる。

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 ● 人間が忘れてはいけないこと@

 人間を真に救うものは
人間の外に発見されるものではない。
 人間を真に救うものは
人間の内に発見されるものなのである。

 いかなる時代であっても人々は人間の内面を見つめる芸術、学問、芸事、宗教
 に対して真剣に持って向き合ってきた。

 特に宗教は多数の人々のもっとも大きな関心を集めた。
 特定の宗教の信者であることは、学問や芸術の道を進むことに比べて
 自助努力の負担が少なく優しい。
 だからいつの時代も多くの人々はお手軽な宗教を選択する。

 芸術の道に進むことで内面を見つめることができる。
 だが、ある一定のレベルに到達する必要がある。学問でも同様である。
 いずれの分野でも到達できるが、それなりの修練がいる。

 宗教は信者の力量を問わずに人間の内面を見つめることを教えてくれる。
 芸術や学問、芸事を通じて己で体感する意味を宗教は直接教えるのだ。
 宗教はその点で特化している。
 それらをどこまで理解するかは個々の信者によってまちまちであるが、信者の
 の内面に上なる(神なる)者の存在を見出せるように導いている。

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 * 宗教は、学問を通して体感する必要することを要求せず、絵や彫刻で美
   を表現する芸術を通して体感することも要求していない。
   宗教は、信者に少しの努力しか要求しない。
   これゆえ宗教は多くの人々から支持されている。


 ● 人間が忘れてはいけないことA

 もちろん宗教にも深遠な教えは存在する。
 しかし宗教の本質は深遠な内容を語ることではない。
 宗教の本質は、この世界を生きる
大衆を救うことにある。
 無学な者にも年配の女にも分かってもらうのが宗教の意義である。

 大衆を相手にするからこそ、深遠な内容でも誰でも理解しやすいように
 簡易な説明が施され、概要を理解させることができる。

 この世界を生きる意味を宗教は語る。
 快適な生活を得る以上のものがあるのだということを語るのだ。
 
 いかなる時代の人々も、そのことを感じているものだ。
 だからこそ宗教はいつの時代も人々の心を捉えて離さない。

 もう一度述べる。
 人間を真に救うものは
人間の外に発見されるものではない。
 人間を真に救うものは
人間の内に発見されるものなのである。
 社会学者に限らずに、この世界を生きる人々はこの点を忘れてはいけない。

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      (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来の宗教家へ



 
● 宗教と科学、そして社会学

 社会学にとって切っても切れないもののが2つ存在する。
 
宗教科学である。

 宗教とはまさに、この世界で人間が何を成すために生きるかを問うている。
 人間の可能性の展開の重要な1つである。

 科学は、人類が日々生きる為に必要不可欠な労働や行動に救いの手を
 差し伸べ、その負担を軽減してきたのだ。
 人間がこの大地で行う必要がある行為をサポートする重要な1つである。

       
宗教         科学
      -------      -------
         |           |
          --------------
              ↑   ← 2つが引き起こすギャップを調整する
            
社会学

 人間の可能性の展開と、現実的な対応との矛盾に焦点を当てる社会学で
 あるからこそ、宗教と科学との普及具合、人々の関心の度合いなどは
 社会学にとっても重要な項目の1つである。
  社会学は、宗教と科学の発展具合における調整機能の役割も兼ねてきた。

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● 宗教と社会学

 一流の社会学者ならば人々が宗教を求める意味を安易に見ることはない。
 2つの行為のうちの1つ行為を代表する宗教の存在を安易に見ることはない。
 この点の良い見本がマックスヴェーバーである。
 マックス・ヴェーバは、日常に神を感じながら過ごす人々の価値観を
 伝統的価値観と述べた。
 またそれが資本主義以前は多くの人々の当然の日常であったと述べた。
 そしてこの神を感じながら日常を過ごす人々の強い欲求が、偶然にも
 資本主義をもたらしたと述べたのだ。

 ここでいいたいのは、それらの人々の想いはそれほどまで大きかったと
 いうことである。
  現代にどれだけ無神論者が増えようが、その人間の奥では、誰にも知られず
 本質を求めようとする欲求が渦巻いている可能性があるのだ。
 無神論者が表面的にどう振舞おうが、その行動の1つ1つに、宗教信者のごとく
 に強烈に突き動かす力が宿っていないなどとは決して言えないのだ。

 宗教と科学を比較することが社会学者の仕事ではない。
 宗教の正当性を調べることが社会学者の仕事ではない。

 宗教が語る教義よりも、何ゆえに人々が宗教を真剣に求めているのかを
 把握することが必要となる。

 いつの時代でも多くの人々が宗教を求めること、その行為の存在そのものが、
 この世界を生きる我々にとって、人間の救いは人間の外的な環境の中にある
 のではなく、最終的に我々の内部にあることを教えてくれる。
 この見えざる強い欲求を社会学者は見逃してはならない。

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 ● 科学と社会学

 この世界で人間が生きる上で必要不可欠な行為の科学が代わりに行って
 くれるようになった。科学の発展が人類の負担を軽くしている。
 便利さの反面、問題も起こってくる。
 人間の欲望や慢心などは人間の抜きがたい性質であり、科学の発展には
 無関係であるからだ。

 知識の積み重ねである科学は、少しづつではあっても進歩していく。
 それに引き換え、人間自身はまったく進歩しない。
 1000年前の人間も、1000年後の人間もまったく同じである。

 これからの未来、人間がこの世界を生きる上での必要不可欠な行為の多くは
 軽減されるが、その反面にこの人間の強欲、ねたみ、怠慢などは、その軽減に
 反比例するかのごとく増えていきかねない。


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 ● 2つの行為と社会制度の変遷

 人間がこの世界で2つの行為を実践し続けてきたことは述べてきた。

  この世界を生き抜く現実的な対応
   ・・・ 衣食住、性的欲求、優越感、慢心などの人間の欲望の抑制

      する為の政治制度や法律の整備

  人間の持つ可能性の展開
   ・・・ 芸術、学問、宗教、芸事など永遠なる者(=神なる)への接近

 どちらか1つだけを優先して実行することは人類には許されなかった。
 仮に人間の持つ可能性を発揮するばかり取り組めば、人類は早い時期に
 滅んでいただろうし、反対にこの世界を生き抜く現実的な対応ばかりに
 取り組んでいたならば、欲求が留まることを知らずにこの世界に地獄が
 もたらされたことだろう。

 2つの行為を並列して実践してきた人類が、その環境の中でもっとも
 適合したルールが様々な社会体制や政治体制を生んだのである。

   世界を生き抜く現実の対応  ⇔  人間の持つ可能性の展開
                      ↑
              文明、国家における社会制度、政治制度、などの法律

 色々な制度が時代時代に作れてきた。
 国々が直面する環境の変化に合わせて政治制度も社会制度も様々に
 変化してきた。そして今後も環境に合わせて変化し続ける。

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● 古代の人々に笑われる近代人@

 
社会の為に人間があるのではない。
 人間の為に社会が構築されたのである。


 なんでわざわざ、こんなことを当たり前のことを述べたかというと、
 社会学者の中には人間社会の形態が必然であると見なす輩がいるからである。
 さらには、その社会形態に至ったのは計画通りだと述べる輩がいる為である。
 こんなことを述べる輩の頭には
ユダヤ的世界観が宿っている。

 この世界には
神の意図があって、その意図通りに進むと考えるのだ。
 そして意図があるなら目的があることになる。
 さらには目的があるならば最終目的が想定されるようになるのだ。

 資本主義と民主主義をもって人類は社会形態の終末にたどり着いた と
 述べる学者が近年に現れた。つくづく愚かである。
 また始まった!という感じだ。

 こういう連中は、まるで人類がより良い社会制度や政治制度を生み出すこと
 を目的に、この世界を生きていると述べているようなものである。
 
 これを聞いたならば古代エジプト人や古代ローマ人、古代ギリシャなどの
 古代の人々は、皆、腹を抱えて払うことだろう。

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 * ミツバチは女王蜂とその卵の為に蜂の巣を作るのであって
   より良い巣を作る為に、一生懸命、巣を作っているのではない。
   だからこそ、巣にいる女王蜂を命がけで守るのだ。
   このことが分からない学者が、近代には多数存在しているのだ。



 
● 古代の人々に笑われる近代人A

 我々人類は、確かにより良く生きる為に、より適した政治制度や社会制度を
 求めてはきたが、だからといって政治制度や社会制度を得る為に生きている
 のでは決してない。
  
  もっと大切なことは他にあるのだ。
 だからどれだけ適した政治制度や社会制度であれ、我々の取り巻く環境が
 異なれば、簡単にそれらも変更され、時に捨てられるのだ。
 人類の長い歴史の中で経済体制や政治体制は様々に変化してきた。

 人間の可能性を最大限に発揮することと、人間が現実に生きる上で必要な
 行為とのバランスが崩れれば、政治制度や社会制度もすぐに変化をするのだ。

 上記の2つの行為の一方に大きな障害が発生し、手詰まり状態になれば、
 人々は新たな社会体制を構築しようと模索し始めるだろう。
 それが決してその通りに意識されていなくても、そのように動き始めるのだ。

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  ● 民主主義や資本主義も簡単に雲散霧消する

 これには例外はない。
 現在、先進国の間では当然のごとく存在している民主主義や資本主義とて
 まったく例外ではない。
  仮に民主主義が、人間の可能性を発揮することの障害になれば
 簡単に民主主義ですら、捨てされられることになる。

 また資本主義であるが、資本主義は21世紀の後半から
衰退し始める。
 そして
資本主義は、22世紀中には完全にその姿を消すことになる。

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 ● 社会学の限界と挑戦

 人間がもつ可能性を最大限に発揮する行為と、この世界を生きる為に
 必要不可欠な行為の2つを人類は並行して行う。
 この2つの比重は、時代によって異なる。

   人間の可能性の発揮 ⇔ 必要不可欠な行為

  この2つの行為は常にバランスを取る形で妥協し合ってきた。
 妥協が難しい場合、その2つのバランスは大きく崩れる。
 2つの間から生まれた歪みはついに許容範囲を越えて人間社会に
 深刻な影響を与えることになる。

 社会は不安定さを増していき、多くの人々が強い不安を感じたとき、人々は
 安定を求めて殺到するのだ。
 それがある量を超えると、まるで堰を切った川のようにある方向へ流れだす。
 氾濫した川の流れは予測しにくく、当初想定していた影響の範囲を超えて
 正反対の方向へ進んでしまうこともある。

 人々は安定する方向へと願い、向かってはいるが、その結果はますます
 不安定になることがある。
 
 2つの行為のバランスが大きく崩れた時に、社会は怒涛のごとくに動き、
 その結果は、必ずしも人々が当初望んだものでもないし、社会は以前より
 なお一層、不安定になりもするのだ。


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● 絶妙なバランスと洞察@

 真の社会学者ならば、目には見えないが多くの人々を動かす隠れた力、
 欲求を洞察することが必要となる。
 それらの要因が働いていること、そしてそれらが複雑に絡みあっていることを
 洞察することにある。つまり人間そのものを知ることが大切なる。
 それが人間社会を動かしていくからだ。

 人間は努力、勤勉、などの性質を持つと同時に、怠り、侮りなどの面を持つ。
 勇敢に、明るく生きる性質と同時に、臆病で暗い面も有する。
 人間の中に善の心もあれば悪の心もあるものである。

 人間の内に潜む善なるものも悪なるものも決してなくすことはできない。
 これとうまく付き合う必要がある。
  悪を無理にでも追い払えば、足元から悪が忍びよってくるのだ。

 上なるものへと近づくと欲することもあれば、迷妄と愚鈍の中に引きずり込まれる
 ことも多々ある。善も悪も人間の根深い所に繋がっている。

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● 絶妙なバランスと洞察A

 この点について人類史上最高の天才・ショーペンハウアーはこう述べている。

 『 
内部からうまいこと不和の女神エリスを追い出したとしても
   あげくのはては、それは
から民族の間の戦争となって戻ってくる。

   これまで懸命に個々に予防を講じて犠牲をさけてきたのに、いまや
   
累積した負債として、大規模に、一斉に流血の犠牲を要求すること
   になるのだ。 』


 
人類史上、最高の頭脳をもつ人物。その名はショーペンハウアー
   
 
圧倒的知性圧倒的洞察力。彼の前に人はなく彼の後にも人はいない。

 社会学者たらんと欲するものは、この点を忘れてはいけない。
 迷妄や愚鈍は、我々の人間の根本に離れがたく結びついているものである。

 我々の内にある迷妄と愚鈍さ、さらには悪さえも我々の一部である。
 人類が培ってきた法律や社会制度などの知恵により悪を遠ざけることは賢明で
 あるが悪を完全に消滅させることはできない。
 強引に悪を完全消滅させようなどと考え実践などすれば、反対にその反動が
 一気に大規模に押し寄せることになるのだ。

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● 良い手本 =マックス・ヴェーバー

 この人間社会は、我々がはっきりと意識したものによって動くのではなく
 それとは反対に、まったく目に見えずに強く語られもしないことから動くこと
 があることを知ることは大切である。
   この良い手本がマックスヴェーバーである。
 マックスヴェーバーは言う。
 資本主義が生まれたのは、決して経済第一、利益第一を考える人々の間から
 生まれたのではないと。
  それとは正反対に、経済的な富をどちらかといえば取るに足らぬものであると
 さえ考えていた人々から生まれたのだと述べている。
 
 神を第一に掲げ信仰に生きる人々、プラテスタント系の人々が資本主義を
 生み出す萌芽となり、また彼らの熱心さが資本主義を結果的に推し進めること
 になったと述べたのだ。

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● 再び、社会学とは@

 この世界に生きる我々人類は、真の目的を欲し進みながら、それでもこの
 世界で生きる上で押し寄せてくる現実的な課題に直面し、対応していく。

 人間に備わる肉体は、この世界に属する。
 我々の
肉体は大地を恋している。
 大地に結びついたいくつかの欲求をもつ。
 それらの欲求は、とめどもなく湧き上がってくる。
 食欲、性欲、我欲、自己顕示欲などである。
 これらは、地上である程度は満たすことが必要となる。

 食欲を満たせないならば、その人は命を落とすことになる。
 性欲を満たせないならば、人類は滅びることになる。
 決して軽視できないことである。

 なれど人間は食欲を満たす為に生れたのではない。
 性欲を満たす為に生れたのでもない。
 自己顕示欲を満たす為に生れたのでもない。

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 ● 再び、社会学とはA

 自分が生まれた意義を食欲を満たす為だと考える者はおるまい。
 人間はそのことを充分に知っている。
 社会学者はその点を充分に理解することが必要である。

  人間の奥底に、肉体を越えて成し遂げたい理想も生まれる。
 なれど我々の肉体は大地に結びついている。
 我々の知性もその肉体を土台にしている。

 その理想と現実の狭間で、さまざまな矛盾が生まれ、それが人間社会に
 影響を与えていく。

 社会学を学ぶということは、人間自身を見つめることであると言える。
 人間の弱さ、愚かさを知悉し、その存在を無視しないことが必要である。
  また人間の奥底にうごめく人間のあるべき理想像も無視しないことである。

 そして我々の人間社会が、人間の弱さや欠点ではなく、長所や美点が表に
 出るように導くことが必要である。
 人間の弱さが前面にでないように、時代に沿って社会体制を構築していく役割
 を社会学者は、になっている。

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