大地と生命
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大地と生命
生きとし生けるものは、すべて自然から生まれし子供である。
我々は、また大地に生かされている。


 ● 大地と生命@

 大地の上で生きる生命。
 植物は、大地から芽をだし、動物は大地の上を駆け巡る。
 人間は大地を踏みしめ、明日へとその一歩を進める。

 生きとし生けるものは、すべて自然から生まれし子供である。
 我々は、また大地に生かされている。
 
 動物達の世界、弱肉強食の世界。
 明日へと生きる為には、他の命を奪わなければ生きて生けない世界。
 なれども動物達の目は自信に満ち溢れている。
 彼らは
大地に根ざしている
 その死が訪れるその時まで彼らは、彼らで有り続ける。

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 ● 大地と生命A

 彼ら動物は
正直である。
 獅子が馬のごとくにはならない。馬がまた獅子のごとくにもならない。
 彼らは彼らであり、この大地を生きる。

 また彼らは服を着ることはしない。
 
生まれたままの姿でこの大地を生きている。
 彼らはなんと正直であろうか。

 古代のギリシャ人、古代のローマ人も人間のそのままの姿の中にこそ
 美しさを見出そうとしたし、実際に見いだした。
 
古代人は人間の真の美しさに気づいていた
 それゆえに、古代人の着る服は、裸体に布を被せた簡易のものであり、
 人間の肉体のなめらかな形を隠さずに、その美しさを表現した。

    
       
古代人は、人間そのものの美しさに気づいていた。

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● 生命と欠乏の世界@

 この世界は確かに
欠乏の世界である。
 至るところに、欠乏が垣間見られる。

 明日を生きる為に、動物と昆虫は今この時に、他の命を奪うことを強いられる。
 もし仮に動物達に人間と同程度の知性が与えられていたならば、彼らを
 取り巻く現実に、彼らは愕然として耐えることはできずに死を選ぶだろう。

 それゆえ動物達には人間と同程度の知性を与えられることはなかった。
 知性が増せば、それだけ苦悩も増す。

 もちろん人間とてその知性といっても、動物とそれほど大差はない。
 人間もまた動物である。
 自然から離れすぎれば、その内面から多くの不安が生じる。
 我々人間もまた自然に生かされている。

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● 生命と欠乏の世界A

 食料を計画的に生産し、製品をもたらす人間。
 欠乏を埋めようと多くの食べ物や商品を手にいれようが我々人間もまた欠乏を
 基調とする。
 欠乏を追い出そうとして快適な生活や多くの商品を手にいれても、今度は
 
人間の内面から飢餓の心が発生し、さらになる商品
 を求めるようになる。

 名声を得たものは、さらなる名声を欲するより
 富を得たものはさらなる富を欲するようになり
 権力を得たものは、さらなる権力を欲することになる。

 人間は、どこまでも貪欲になることもできる。
 確かに人間には救いがたい面を有している。

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● 世界と自然

 自然とは、
生きんとする意志である。
 
盲目なる意志である。

 いきとし生けるものの奥に生きんとする意志がある。
 この世界において、盲目なる意志が現象として展開する場合には、
 時間、空間、因果律の適用を受ける。

 生きんとする意志の衝動からもたらされる、様々な諸力(自然力)がこの世界の
 因果の系に入り込む時に課せられるルールが、つまりは自然法則である。

 自然力はその力を飽きずに弛まずに発し続ける。
 それらの自然力の影響下に物質が入ると自然力は物質に影響を及ぼす。
 つまり作用する。その時に自然力と物質との間の関係が自然法則である。

 自然の意志が、この世界で何かに影響を及ぼすとき、、つまりはこの世界の
 物質に作用するとき、時間と空間と因果律の適用を受ける。
 これが為に科学が成り立つ。
 あるものに何らかの変化が起きたときに、科学者はそこに何らかの作用を見る。
 それを否定しては科学など成り立たない。

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● 盲目なる意志と知性

 自然の奥にある盲目なる意志。
 その意志は、無機物の奥にも、有機物の植物の奥にも存在する。
 昆虫の奥にも、動物の奥にも存在する。
 もちろん人間の奥にも存在する。

 盲目なる意志がどのように現われるかは、知的に理解することはできない。
 なぜなら、我々の知性は、時間と空間の適用を受けた表象、根拠率を有する
 表象上で捉えられたものだけが対象であり、それらの表象を越え出る意志
 を完璧に捉えることなどはできない。

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● 世界と生命

 世界と意志を分かつ境目。
 その境目を人間は捉えられない。

 この世界の中で、盲目なる意志をその内に内包した生命がこの空間の中に
 おいてあちこちに存在する。点々として存在する。
 なれども点々と存在しているように見えて、それは1つである。

 空間に広がりを与えるのは我々の知性である。
 点々とした広がりを見せるのは、あくまで我々1人1人の脳の表象の上の話に
 過ぎない。確かにそこにはそれがある。
 なれども、それらの意志は、点々とあるように見えて1つである。
 
一にして他、他にして一

 この世界の中で、盲目なる意志をその内に内包した生命がこの時間の流れ
 にのって順々に存在する。時代、時代ごとに点々と存在する。
 なれども点々と存在しているように見えて、それは同時に1つである。
 それらの意志は、順番ごとに振舞うように見えて同時に存在する。
 
前にして後、後にして前

 我々は、この世界ととにかく眼前に見ることが可能になり、それを描く。
 我々は、自分の頭の中に描いた世界の中の大地を踏みしめる。

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● イデアと現象@

 あらゆるものは欲求を有している。
 宇宙の星々は、愛する惑星と常に引き合いながら主導権争いを続ける。

 植物は、さらに
刺激を有する。
 光が与える刺激は植物を動揺させ、興奮させる。
 彼らは光に向かって手を伸ばすのだ。

 昆虫と植物は親近性を有する。
 昆虫が生きる舞台こそは、植物の世界の上においてである。
 その住まいは、植物の中や木々の中である。
 あるものは、植物のごとき擬態を装い、植物の茂みの中に潜む。

 植物が刺激されて光に向かって手を伸ばすように、昆虫も光の刺激を無視
 する事は難しい。彼らは、
燃える炎の誘惑を遠ざけれない。
 まさに
飛んで火にいる夏の虫である。
 昆虫は植物と異なり、この世界を移動することが可能である。

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● イデアと現象A

 動物は、この世界を脳(=表象上)に描いて、その上を自由に行ききできる。
 
動く物と書いて、まさに動物である。
 動物が脳の表象上で描く世界と、この世界に万一少しでも差異があれば、
 動物は、まっすぐ歩くこともできない。
                            『大自然の動物ファミリー』シリーズより
   

 人間はさらに
記憶を与えられた。
 他の動物を圧倒する記憶が過去と未来を比較することが可能となった。
 記憶の発達こそが比較を可能にして、つまりは人間のみが大学(学問)を
 打ち立てることができた。

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● 意志の客体化@

 生きんとする意志の上に以下のような性質が現われる。
 これを意志の客体化という。

 無機物 
惑星   欲求
 有機物 
植物  欲求 + 刺激
      
昆虫  欲求 + 刺激  + 本能
      
動物  欲求 + 刺激  + 本能 + 行動(選択)
      
人間  欲求 + 刺激  + 本能 + 行動(選択) + 記憶

 有機物、無機物含めて愛する欲求を持つ。
 それゆえに天空の星々は、引き合う。
 植物が光の刺激によって伸びていくように、また植物と親近性を有する昆虫も
 光の誘惑に抗し難い。動物も本能の誘惑に抗し難い。
 時に人間も例外ではない。人間も動物であるからだ。

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 ● 意志の客体化A

 どれほど調教された猛獣も、時に
野生の本能が目覚め、
 人間を襲うことがある。動物は人間にはなれない。

 なれどまた人間も動物の領域からは逃れられない。
 人間も動物の面を多分にもつ。
 
人間が動物であることを忘れると、とんでもないことが起こる。

 理(ことわり)によって杓子定規に人間を治める事ばかりに勤めれば、
 いずれ
思わぬ形で人間社会は痛い目にあう

 どれほど調教された猛獣であっても時に人を襲うように、人間も怒りで我を
 忘れて、いままで築き上げてきた人間社会、地域社会を破壊する事にもなる。
 ささいな事が誘発剤となって、国家が倒れることだってある。
 歴史にはそれらの事が、多々見られる。

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 ● 人間と学問

 人間はまた動物であるが、また人間は動物とは異なる面を有する。
 人間は、他の動物とは比較ならない程の記憶力が与えられた。
 記憶によって、人間は過去と現在を比較することが可能となった。

 
比較することから論理が生まれる
 そうして人間から学問が生まれ、人間は大学を作った。

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● 物質とイデア

 この世界にはあらゆる
諸段階イデアが存在する。
 自然力も、その諸段階のイデアの一つにも属する。

 物質の奥に存在する何物か。それをカントは
物自体と呼んだ。
 その個体の存在を、それと際立たせる性質、それをプラトンはイデアと呼んだ。

 水は様々な姿を我々に見せる。
 深い森に奥に佇む湖は、鏡の姿を我々に見せる。
 緩やかな流れの小川は、やわらかい流体の姿を見せる。
 滝から落ちる水はしぶきの姿を我々に見せる。
 海に流れ着いた水は、大きな波となって荒々しい姿を我々に展示する。
 どれもこれも同じ水であり、その性質を見せる。

 諸段階のイデアは、その性質を物質の上で表現しようと努める。
 もちろん、物質の上で適用された姿の外側を眺めているにすぎない。
              
左(プラトン) 右(アリストテレス)
             
      
アリストテレスはこの大地の探求こそを優先すべきだと考え
       プラトンは、この大地を
越えた世界の探究を試みた。

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● 空間と時間とイデア@

 あらゆる現象は、
物質を拠り所にして、この世界で表現される。
 その為、この世界は欠乏の世界とならざる得ない。

 この世界に時間、空間、因果律のルールが適用されているのも、この世界の
 欠乏と切っても切り離せない為である。

 仮にあらゆる現象が、
どこの場所でも一斉に発現可能であるならば
 物質は、あらゆる所に無限に偏在していなければならない。

 仮にあらゆる現象が、
いつでも同時に発生可能であるならば、物質は
 同一の場所に、あらゆる物質が詰まっていなければならない。


 しかし、現実にはそうではない。

 この世界は、そうではないからこそ、現象の拠り所である限られた物質を
 求めて殺到し、それゆえルールがもたらされた。
 このルールの1つが、つまりは
自然法則である。
 こうして、このルールに従って、ある場所で、ある時間に現象が登場して
 様々な現象が表現される。
 それゆえ、この世界はあらゆるところから
欠乏が見え隠れするのだ。

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● 空間と時間とイデアA

 この世界に時間の流れがあるのは、物質は限られているからだ。
 現象を表現しようとするときに、順番に現われる出ることが必要になった。

 この世界に広がりがあるのは、物質が場所(空間)を必要とするからだ。
 様々な現象が1つの場所(=1つの物質の上)で発現が可能ではないゆえに
 この世界に広がりがあり、物質は点在して、表象上に現われる。

 この世界は欠乏の世界である。
 時間と空間、そしてイデアがその中で
物質を分け合う
 
物質は、それゆえに時間と空間を結合して、この世界に現われる。

 イデアがその性質をこの世界で表現するときに、物質を占有する必要に
 迫られる。物質を媒介にして、イデアはこの世界でその有り様を表現する。

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 * この世界とは、我々の脳の表象上の世界で、という意味である。
    時間と空間、因果律に規定された我々の脳の表象上で、それらのルール
    に従って、現象が発現される。 しかし、仮にこの脳の表象上の世界で
    はない場合には上記の話は、該当しない。


 
● 因果律と自然法則

 イデアの一段階として現われる自然力。
 その
自然力と、時間と空間が、物質の所有を分け合うさい
 
限界を規定するのが、つまりは因果律である。

 イデアが物質を占有し、因果律の規則に従いながらも、イデアが表そうと
 する有り様、それこそが自然法則である。
 自然法則は、現われた現象と、イデアとの中間に存在している。

 これらを明確に述べたのが、
人類史上最高の頭脳を持つ天才である。
 その名は、
ショーペンハウアー
             
    アルトゥル・ショーペンハウアー
                
    
             こと知性に関する限り、彼に適う人間など存在しない。
                 まさに
知の化け物

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● イデアと物質

 諸段階に現われるイデア。
 物質の質の型を提供するイデアの段階。
 自然力として、力を表れとして出てきたイデアの段階。
 イデアは、その諸段階ごとにおいて、その性質を表すことに努める。

 イデアの表現する舞台こそが物質である。
 イデアは物質を占有、または作用することで、その姿を現象として表現する。

 自然力は、物質を時間と空間とで所有しあう。
 そのときの限界を規定する因果律。
 
 我々人間は、そのような世界を、ほんの
小さなゼリー状の塊(脳)
 上に描き、また我々は、そのような世界の上に立っている。
 
 我々の住む世界は、欠乏を基本とする。
 あらゆる時に、イデアが物質を占有できるならば、そもそも空間などという広がり
 など不要であったに違いない。

 あらゆる場所で、イデアが物質を占有できるならば、そもそも時間などという
 時系列の順番など不要であったに違いない。

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● 淡き光、なれど忘れぬ光@

 いきとし生けるものは、この大地の上に生きている。
 この世界の上に我々は生きている。
 いまにも崩れ落ちそうな世界の上に我々は立っている。
 今のこの時に立っている。

 100年後の世界においても、その今に、人間はきっと立っている。 
 個々の肉体は滅びても、そこにはきっと新たな人間が立っている。

 幾万光年の果てにも星々が飛び交う宇宙。
 小さいな惑星の周りを回っていたさらに小さな小惑星もいつの日か、悠久の時
 を経て母惑星に近づいてその生涯を終える。

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 ● 淡き光、なれど忘れぬ光A

 その刹那、小惑星は流れ星となってその惑星に住む生ける者達の心を捉える。
 
光は、ほんの一瞬のみ輝く
 夏のわずかな間だけ闇夜にほのかに光る蛍のごとく。

 神仏からすれば、人間の一生も蛍のごとく
一瞬のほんの淡い光であろう。
 しかし、そこにたくさんの蛍が集まれば、淡い光もそこに集う人々の目を愛でる。
 同様に、人間のたくさんの淡い光も、そこに集う神々の目を愛でる事になる。

 あの年の夏に、蛍は確かにそこに存在した。
 そうして来年の夏も蛍はきっと光り輝くだろう。
 人々はそれを楽しみに心待ちにしている。

 我々人間の発する光は確かにか弱い。
 なれど、その光は神仏の心に残りうる何かになる可能性がある。

 
人間がその生涯の中で輝き放つ光を天上の
 神々もきっと心待ちにしている。
 その力を人間は有している。それを信じる力を人間は有している。

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