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宗教とは |
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宗教はいつの時代でもいかなる場所でも、人々から求められてきた。
その答えは多々存在し、その答えは異なるが、それでも宗教は人類の
共通の問いの為に存在し、この世界に生きる人々を励まし続けてきた。
● 人類の真剣な問い
何のためにこの世界を生きるのか!?
何故、この世界で生きているのか!?
どうやってこの世界を生きるべきか!
いつの時代であれ、人々は上記のことを考える。
宗教は、いつの時代であれ、いかなる国であれ、その時代の人々に支持される。
というのも宗教は、我々人類の真剣な問いであるからだ。
いつの時代であれ、表面的にはその時代時代で大切なことがある。
富であったり、名誉であったり、権勢であったり、名声であったりする。
しかし、それは生きる上では確かに重要ではあるが一番重要だとはいえない。
大多数の人々は、一番大事なことがそれではないと気付いている。
だから悩むのだ。いつの時代も人は悩む。何が一番重要なのかがわからない。
だが、目の前のことが一番重要だとも思えない。
宗教は人類の真剣な問いにより生まれ、支えられている。
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● 宗教は民衆のもの
賢者が正しく認識したこの世界の真の姿=真理を多くの人々にわかるように
噛み砕いた言葉で伝えるのが宗教の役目となる。
多くの民衆に伝える為に、その内容は時に大幅に簡易的になる。
また子供や無学な者にも伝わるように内容は物語風にもなる。
確かに、宗教は民衆に分け隔てなく伝える重要な役割を帯びている。
宗教はその性質上、民衆のものなのである。
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● 哲学は貴族的
それに引き換え、哲学は貴族的である。
真の哲学には民衆は愚か大多数の学者もまったく手が出せない。
真の哲学とは時代ごとに生まれる天才たちが構築する。
哲学は、時代時代の学者が受け継いでいるように見える。
だが、実際は時代時代の天才達によって点と点で結ばれていると
というのが真実の姿である。そこに学者が介在する余地などはないのだ。
民衆が介在する余地がないことは、いわずもがなである。
学者が哲学に対して行える唯一の貢献は、この天才達の作品を後世に正確に
述べ伝えるという伝達部分にしかない。
哲学は、それにふさわしい頭脳をもった者だけを受け入れる。
そのレベルに達しない現在の哲学科の大学教授がどれだけ哲学のことを
述べようが、哲学はそれをまったく無視して、次の天才達の訪れをじっと
静かに待っているものなのだ。
哲学とは貴族的であり、時代ごとの天才達に見いだされる。
天才を介してのみ真に結ばれる哲学。
哲学は時代を超えた天才達に、真に意味が伝わり、肉付けされるものなのだ。
もう一度述べる。真の哲学とは、あくまで天才達によって点と点で結ばれる。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の未来の哲学者へ
』
『 稲穂黄金の未来の天才へ
』
『 稲穂黄金の未来の学者へ
』
● 賢者と宗教
いつの時代も真理を探究する者の数は少数である。
この世界を正しく認識する賢者には、宗教が格別に必要というわけではない。
宗教が目指すところの最上の姿を賢者は理解しているからだ。
天才は、その姿を無邪気に体現しているものである。
だから本来、ゲーテのような愛すべき天才には、宗教などは必要ない。
彼が書く文章こそが神の寵愛を受けており、彼の眺める風景こそが
神がこの世界を眺める風景なのである。
ゲーテの眺める風景は、世界の誰よりも輝きを伴っている。
ゲーテに対して、キリスト教の宣教師が神について熱心に布教している姿を
見たならば、なんと滑稽な姿であろうか!
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● 天才と宗教@
一般に天才には宗教が必要である。
先ほど天才ゲーテには宗教が必要ではないと述べたのに、なぜここでは
天才には宗教が必要だと、異なることを言うのだろうか?
確かに天才は、宗教が目指すべき神の姿を体現している。
されど無邪気に体現しているものなのである。無邪気さは幼稚さも含みやすく
社会を生き抜く思慮が足りない場合が多々ある為だ。
天才には、現実に対応すべき社会性に欠けることがままあるのだ。
その為に、天才がこの世界では苦悩を伴っていきやすい。
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● 天才と宗教A
ゲーテのように天才でありながら、同時に博学で、さらに政治家としての
実務能力に長けた天才中の天才ならば、宗教の必要性はまったくない。
天才の刻印を持つものは、明瞭な直覚的表象を宿している。
その直覚的表象の鮮やかさが天才の天才たる所以である。
天才の作品はそれゆえ、際立っている。
がしかしこの直覚的表象の明瞭さゆえに、天才はこの世界を生きる上での
慎重さ/思慮深さを身に付けることを忘れてしまう。鮮烈な感動を感じた直後に
細やかな事務作業に誰が関わりたいと思うだろうか?
天才の中には、あまりに直覚的表象が強すぎる為に、実務能力が
まったく欠けてしまい、この世をうまく生きることができずに、多くの
苦労を伴って、生涯を送りやすいのだ。
この為、天才にとって宗教は他の人々と同様に心の慰めになるものなのだ。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の未来の天才へ 』
『 稲穂黄金の未来の学者へ 』
● 宗教は論理的に説明できない部分を含む
宗教の中には、何でも論理的に説明しようとして、科学的根拠を持ち出して
説明しようするのだが、本来、宗教は、すべてを論理的に説明することなど
できない。論理的に説明できないものを必ず含む。
仮に宗教がすべてを論理的に説明できたとしたら、その宗教はなんと
つまらないものであろうか!?
論理的に説明し得ることができないから、信仰というのだ。
この点が宗教の対極にある科学との大きい違いの1つである。
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● 宗教は科学とは大きく異なる
また宗教と科学は決して融合することはない。
巷の宗教家の中には未来では宗教と科学は融合するなどと安易に言う人が
後を絶たないが、決してそんなことはあり得ない。
なぜなら宗教と科学を支える土台がまるで違うからだ。
科学はいつ(時間)でも、どこ(空間)でも条件が整えば現象が発動する。
また誰であっても下準備があれば、現象を再現させることが可能である。
科学は女、子供であっても誰でも同様に成り立つのだ。
だから法則というのだ。ある人だけに成り立つ法則などは決してない。
それに引き換え宗教は大きく異なる。
神の奇跡が、特定の時間と特定の場所に起きるわけではない。
また誰もが神を認識できるわけでなく、神と交流できるわけでないのだ。
誰もが神に取り次げるわけでもない。
こんなに土台が異なる宗教と科学が融合することなどは決してない。
道を求めれば求めるほど、いずれ宗教か科学のどちらかの道を選ばなくては
ならなくなる。
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● 宗教の根幹は啓示であり、信仰である
宗教の根幹は啓示にある。
始めに神の言葉あり。
始めに神の活動あり。
始めに仏の慈悲あり。
すべての宗教は神からの一方的な言葉、一方的な宣誓にある。
それを信じるか信じないかの問題であり、それが信仰である。
あとの説明はどれほど論理的に作られて優れた説明であっても啓示以上に
その宗教を正当化するものはない。
キリスト教の正当性は教義体系にあるのではなく、啓示の書にある。
逆にこれだけで充分である。キリスト教徒がキリスト教の正当性、根拠を他人に
示す場合は啓示の書を提示すればよい。
神の存在を論理的に証明することは不可能であること
は既に200年以上前に示された。 天才カントによって示された。
宗教の根幹は、誰がどういおうが信仰なのである。
説明を尽くし、人々にその教えを理解させることはもちろん必要ではあるが
最終的に論理的な説明で人々が完全には、納得できない。
論理的に事実だと信じてしまうのは妄信であり、学問が足りないのだ。
神を信じるとは、そういうレベルの話ではない。
論理的に説明することはできない神をそれでも信じることにある。
神の存在を説明できるとか?できないとか? そういうのを越えて
信じることにある。それを承知の上で信じるかどうかである。
それが信仰に至るということだ。
最後は、心の奥底から信じるか信じないかの問題に帰着する。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金のカント 』
● 哲学が宗教に待ったをかける時@
宗教が宗教的にどう主張しようが、それは自由である。
宗教は信仰であるからだ。
されど、宗教関係者が以下のことを述べる時、哲学は宗教に待ったをかける。
神の存在を理論的に導いた!
神の存在は、科学的に証明されている!
この世界には神の意図があり、それは科学的な事実である!
神の存在は、世界中の科学者が認めている。
神を認識することは先天的なア・プリオリな認識ではありえない。
つまり我々に生まれながらに備わる認識などでは決してない。
先天的な認識ならば、すべては同一に帰すはずだが、世界中では異なる神を
祭っているからだ。
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● 哲学が宗教に待ったをかける時A
また神の存在は確実なア・ポステリオリ(経験的)でもない。
実験によって条件が整えば、現象を再現し確認することが可能な物理学とは
異なり、神の奇跡は再現ができないからだ。
自然法則はある決まった場所(空間)、ある決まった時(時間)に現れる。
だから法則なのだ。
奇跡(=神の力)は、いつ(時間)どの場所に現れるかは予想できない。
奇跡は自然法則とは異なる。
神の存在は、経験的に備わる認識の内にもない。
先天的(ア・プリオリ)な認識の内にも経験的(ア・ポステリオリ)の認識の内にも
神の存在を根拠にできるものなどはない。
神の存在を論理的に証明することなど決してありえない。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の未来の哲学者へ 』
● 定まった救いの道などあるのか?
そもそも定まった救いの道は本当にあるだろうか?
そのような完全な教えなど本当にあるのだろうか?
なんらか定まった教えで人は救われるものなのだろうか?
このような問いを一度もすることなく、宗教を盲信できる宗教信者は幸せだ。
このような問いこそ、各宗教を開いた創始者達の切実なる問いであった。
宗教の教祖の生涯をかけた問いであり、戦いであった。
宗教の教祖、宗祖こそが生前、何度も何度も疑問・疑念をもち何度も何度も
神仏に問いかけた結果、多くの教えが天から降ってきた。
なれど、その教えで満足できる状態をこの地に完全に生み出すことはなかった。
突然、人々の前に苦しみが訪れたりもした。自然は無慈悲である。
その度に、さらに神仏に問い続けた。
そうやって何度も神仏に問い、学問を積み上げて、何度も自分の殻を破り
段階を超え、多くの人々を救う教えを提供できるところまできたのだ。
このような問いを1度とすることなく、救いの道を得ようと神仏に問いかけること
も1度もなく、神を盲信できる宗教信者は幸せだ。 ・・・・だが楽観的すぎる。
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● ユートピア論者の無邪気さ@
人類には救われたい想いが存在する。
だからこそいつの時代にも、何度となくユートピア論が出てくる。
確かにユートピア論者の気持ちもわからないではない。
だが、この世界はユートピア論者が考える世界とは大きく異なる
この世界には実際に多くの悩みと苦が溢れている。
この世界の性質、自然の性質がユートピアと程遠いことは、ある程度の知性が
芽生えれば理解できるようになる。
ユートピア論は、多くの人々の希望としていつの時代もさまざまな形で出され
時に声高に叫ばれもした。だが決まって現実はそう甘くはなかった。
もう一度いう。この世界の本質はそういうものとはかけ離れた世界である。
自ら学ばず、その真奥に到達しない民衆が教えを理解するだけで
救われる程、この世界は決して単純ではない。
この世界は救われ難い性質を持つからこそ、いつの時代も宗教が求められる。
何らかの解決が既に与えてられるならば、誰も宗教を強く求めたりはしない。
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● ユートピア論者の無邪気さA
神への問いが始まってから何千年、何万年の時が経過しただろうか?
人々は宗教をつくり、神へのアプローチ、神への接近を試みた。
この世界で楽しいことも悲しいことも、つらいことも大変なことも人類は経験した。
いつの時代も人々は救われることを強く求める。
だが、いまだに民衆が完全に救われたことなど、ついぞ聞かない。
ユートピア論で未来に希望を持つことは民衆には許される。
だが宗教家には許されない。
この世界に生きる人々の苦しみ、生の声に答える必要が宗教家にはある。
この世界に生きる人々の生の声にこたえるには、この世界に対する真摯な
探求が要求される。この世界の中で生きる人間。この世界の性質も真に
知悉せずに人々が幸せに至る道を知ることも、教え導くこともできない。
学ぶべきことはたくさんあるのだ。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の浅はかなる者達 』
『 稲穂黄金の深遠なる者達 』
● ユートピア論者の決定的な誤り@
ユートピア論者の決定的な誤りは以下の認識が欠如している為である。
@ 時間と物質に対する認識
A 因果の世界に対する認識
ユートピア論者の決定的な誤りの第一は、時間の認識を見誤っている点だ。
ユートピア論者は、時間の経過がこの世界(の物質)に、何らかの変化を与えられ
ると考えていることだ。
物質の本質は、時間と空間の影響をまったく受けない。
物質に時間と空間の形式を適用するのは我々の脳である。
物質は我々の表象上でそのように現れているということだ。
物質にとって、時間が100年経過しようが1万年経過しようが
その本質にはなんらの影響もない。
ユートピア論者は上記のことがわからない。 彼らには10年よりは100年が
100年よりは1000年が、何らかの効果があると考える。
この現象界に展開される物質は、億万年の時間の経過でさえ何の影響も
受けることはない。直接、時間が物質に影響を与えることなどない。
物質が変化するのは、あくまで原因によってである。
原因(=作用)がなければ、物質はそのままの姿を保つ。
物質は決して、減少も増加もしない。物質はただ作用によって変形・変化
するのみである。
物質はたえずそこにあり、因果によって形態を変化させる。
何らかの作用がなければ、物質はそのままの形を維持して億万年もの時間
の経過をビクともせずに、そのままの姿であり続ける。
物質は因果律に支配されている。これを否定すれば科学など成り立たない。
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* 数万年前の植物の種であっても、うまく保存されたならば(酸化もされず、
冷凍に保存され続けられ、その他の作用を起こす要因がなければ)、
現代にあっても、条件が整えば、実をつけ花を咲かすことだろう。
この点からも時間は直接に物質に影響を与えないことがわかるだろう。
● ユートピア論者の決定的な誤りA
ユートピア論者の第二の誤りは、この世界がどこまでも因果の世界であることが
把握できていないことである。
この世界は因果の世界である。必ず原因があり結果がある。
原因と結果。 どこまでも因果の世界である。
だから仮にユートピアが訪れるならば、それに見合う原因が必要なのである。
ユートピア論者は、その原因がまるっきり抜け落ちているのだ。
多くのユートピア論者の頭にある考えは、長い時間を経れば、神(=絶対者)が
この人間社会に楽園をもたらしてくれると考えていることだ。
降って湧いたように結果のみがもたらされると考える。あまりにも幼稚である。
何度もいうがこの世界は因果の世界である。
結果があるならば原因が必要なのだ。
さらに、あやふやな原因を抱くユートピア論者が次に起こす誤りは、その原因を
安易に神に求めることだ。 この世界はどこまでも因果の世界である。
もし仮に神が動いた結果があるならば、その神を動かした原因も必要であること
を考えないのだ。
一神教徒は、神はこの世界を創り、つまり例外であり、この世界を超越して
いるから、神の働きに原因など必要ないと述べる。
もしこれが本当ならば、だいぶおかしいことになる。
神はこの世界をどこまでも因果の世界に創っておきながら、
自分自身でそのルールを破っていることになる。
宗教指導者の中には、そういうことを考える基礎がまるで欠けている人が
多数存在するのだ。
動画 テキスト
● 自然力と神の力@
もちろん、自然力のように神の力も存在するという考えなら、まだわかる。
自然力は根源力であり、原因を求めることはできない。
自然力は重力であり、電磁力であり、化学的結合力もこの範疇にある。
重力に真に原因を求めることはできない。
現代の科学もこの点を理解するまでに発展している。
重力の発生には原因がない。そこに物質があるように、そこに自然力がある。
自然力は常にあり続け、その力は常に一定の力を発している。
重力は常に働き、我々がその影響を知るのは、宇宙船で巨大な惑星などに
近づいたときである。接近した時に重力の影響を受ける。
重力においては距離の遠近が重要になる。
動画 テキスト
● 自然力と神の力A
上記の自然力と同じように、神がある一定の力を常に発していていて、その
神の力を知るには何らかの切っ掛けが必要だというなら、わからないでもない。
重力を知るには、惑星への距離の接近がポイントであったように、神の力に
触れるには何らかの接近(例えば人間の愛、真心、慈悲)が
必要であり、さらに多くの人々の愛の力の結集によって、その神の力が最大限
に発動されるというなら、わからないでもないのだ。
人類が生れてから、あらゆる時代、あらゆる場所で、人々は祈り、神に感謝し、
自然に感謝を示してきた歴史が確かに存在するからだ。
歴史上の偉大なる宗教家、神霊家も皆、その愛の方向へ確かに進んでいた。
動画 テキスト
(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の未来の神霊家へ 』
● 神の力と自然力
仮に、神の力が重力などと同じ自然力なのだとしたら、
条件が整いさえすればその力に触れることができる。
惑星に接近することで重力の影響範囲に入るように、神の力を感じるには
ある条件を満たしさえすれば、必ず感じることができるということになる。
このことは次のことを暗示させる。
条件さえ整えばその力に触れられるということは、
神の力に、誰もが触れれる可能性を有していると。
もちろん全人類が宇宙飛行士のように宇宙船にのって、他の惑星まで到達
できるわけではない。現代科学で宇宙に行くことは可能でも、それを全人類が
享受するにはだいぶ先のことであり、現代では事実上不可能である。
誰もが宇宙船にのって他の惑星の重力を感じられるわけではない。
同じように神の力を感じることは、全人類には事実上不可能なのかもしれない。
だが神の力が自然力と同様ならば、誰でも神の力に触れれる可能性があると
いうことは、大きな希望である。
自分は救われないかも知れないが救いの道が存在しているのと、
もともと救いの道が無いのでは天と地ほどの差があるように感じるものだ。
この点について釈尊やイエスがどのレベルまで認識して、真にどのように解釈
していたかは知らない。
なれど、偉大なる宗教家は皆、あきらめていなかった。
実際に釈尊・イエス・孔子・老子・最澄・空海・出口王仁三郎などの
偉大なる宗教家は人類、全てを救わん勢いで積極的に活動したのだ。
まさにこの点が偉大なる者達の信仰心だと見て取れる。
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● ユートピア論と神の力
この世界に奇跡にない!などと断定することはできない。
因果に縛られた世界といっても、人間の目が捉えられる因果の範囲にも限界
はあるだろうし、人間の目から見れば、因果関係がないように見える程、
複雑に因果関係が絡まっていることもあるだろう。
人間の目では捉えきれない、しかし確実にある因果関係により、この世界に
何かがもたらされないという保証は確かにどこにも存在しない。
確かに奇跡は否定できないが、それでも奇跡は簡単に起こらないだろう。
また奇跡を起こすことも、決して安易にできることでもないだろう。
人類が生れてこの方、ユートピア論者が述べる楽園などきたことはない。
これからも来ることはない。
以下のことは何でも述べる必要がある。
仮にユートピアが訪れるならば、それに見合う要因がなくてはならない。
その力の発動が何らかの自然力(=神の力)の発動だとしても
その力を引き起こす要因は、この世界に求められなければならない。
そしてその力はたぶん人間の内に発見されるだろう。
その力を見出すのは決して容易ではなく安易でもない。
反対に多くの困難が伴うだろう。
そうでなければ、人類が生んだ偉大なる宗教家、神霊家が何ゆえ、一生涯を
懸けて、命を懸けて取り組むことがあろうか!?
当代随一の見識を誇る人々、釈尊や空海、イエスや出口王仁三郎などは
生涯を通して命がけで進んだ。その道のりは決して平坦ではなく、多くの困難と
迫害、苦悩に満ちていた。
彼らの生涯は、学問により知を高め、その心は愛に帰一した生涯であった。
再度言う。
この世界はユートピア論者が語るような、楽観的な世界などはない。
奇跡は決して安易な解釈で解明されるものでもないし、また奇跡を起こすことも
決して容易なことではない。
そんな次元の話などでは決してないのだ。
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● この世の深刻さ
この世の深刻さは釈尊やイエスが生まれたことによっても推し量られる。
そもそも、この世が楽園ならば、神は釈尊もイエスもこの地上に使わしたりなど
しない。その必要がまったくないからである。
しかし事実は、いつの時代にも人々を勇気づける生き方をする人が生れる。
釈尊、イエス、老子、孔子、最澄、空海、法然、親鸞、日蓮、出口王仁三郎が
この世に生まれ出ている。
この世が人間にとって救われがたい面を有するからこそ、いつの時代も
使命をもった人々が生まれて、くじけそうになる人類を励ます。
この世界は救われがたい深刻さを持つ。
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* ユートピア論の萌芽は、迷妄頑固のユダヤ的世界観の中にある。
この世界はユダヤの教が述べる短絡的な、楽園的な世界などではない。
(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の浅はかなる者達 』
『 稲穂黄金の深遠なる者達 』
『 稲穂黄金のユダヤVS賢者 』
● 救われない人々と共にある宗教@
宗教の要素には、救われる見込みのほとんどない民衆に対して、それでも
そういう民衆と共にこの世界を生きるという思いが存在する。
特に仏教においてその想いが顕著になる。
釈尊は、己の通ってきた道が、誰でも歩ける道でないことを知っていた。
というよりも釈尊だけが真に通れる道であることを誰よりも知っていた。
ましてや安易さと娯楽を求める衆生が通れる道なのでは決してない。
一部の仏教層には通れる道でも、衆生の多くは決して通れぬ道なのだと
いうことを釈尊は知っていた。
だからこそ、釈尊は誰でもわかるように教えをトコトンまで解りやすいように
工夫したのだ。そこにどこまでも衆生を思う釈尊の深い深い慈悲を感じる。
また同様にイエスは、どんな下層の人にさえ分け隔てなく愛の心を向けた。
隣人を愛せよ!というイエスの教えは、現代の多くの神父さんやシスターに
受け継がれている。現代の敬虔なる神父さんやシスターはイエスの子である。
決して救われることのない人々と共に生きる使命が宗教にはある。
動画 テキスト
(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金のイエス・キリスト 』
● 救われない人々と共にある宗教A
宗教は人々を救う使命と同時に、救われがたい多くの民衆とともに
この世を生きるという使命をもつ。修行を続ける名僧が、現代の新宿駅を
歩いたならばどう思うだろうか? 心の中で涙を流すだろう!
そこには決して救われることがない多数の人々を見て取るからだ。
携帯電話を片手に大声で話す人。数人のグループが声高らかにはしゃいで
いる姿。感情を全開にひけらかすことに何のためらいも持たない人々の声が
駅にこだまする。
救われる見込みがまったくないことを名僧は瞬時に見抜く。
あの世にはあの世のルールがあることを知る名僧。
だが多くの衆生は、死ねば全てが終わりだと考える。
名僧は、天地の法則には決して曲げられないルールが存在することを知る。
だからこそ名僧は、救いがたい衆生に同情し理解する。
あの世に行っても苦しみ続け、改心の意味を悟らない人々、そんな多くの衆生
のことを想うと涙が自然に溢れてくる。
『 仏様! 彼らに慈悲と情けを 』 と嘆願せずにはいられぬほど。
真理から遠く隔たる大勢の衆生を見て、どうしたらこの人達にあの世のことを
理解させることができるのだろうか?と名僧は何度も何度も悩んだことだろう。
その救いの道はわからぬとも、仏僧は衆生を見捨てない。
彼らは、釈尊の弟子であるのだ。
動画 テキスト
(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の釈尊(=仏陀) 』
● 特別扱い@
世界にあまた存在する宗教団体において共通なことがある。
それは以下を必ず主張していることである。
『 この宗教を信仰すれば
あなたはあの世で特別扱いされる。』
色々と言葉を変えて以下のように表現されている。
この宗教を信仰すればあなたは救われる。
この宗教を信仰すれば神の民として選ばれる。
この宗教を信仰することで大きな徳を積むことができる。
この宗教を支えたあなたは神の国の指導者層になる。
この宗教を信仰すればあなたはあの世で安らかに過ごせる。
この特別扱いは世界中の宗教の共通の特徴である。
色々な言い方はあるが、結果的にいわんとすることは以下を主張している点だ。
この宗教を信仰することで、あなたはあの世で特別待遇を受けれる。
これは世界中のあらゆる宗教の共通項である。
この世界に生きる人間は、この世界から救われたい想いがある。またこの欲求
があること自体、この世界が救いがたい世界であることを暗に示している。
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● 特別扱いA
以下のように発言した瞬間から、あっという間、その宗教団体からはたくさんの
信者は去り、最終的に雲散霧消することになってしまう。
『 あなたがこの宗教を信じても信じなくても
神様はあなたに何の特別扱いをしてくれません。 』
『 あなたが人の為に施した行為は確かに素晴らしいものです。
素晴らしい善行は神も喜ばれます。
だからと言ってあなたがあの世で特別扱いされることはありません。』
こんなことを述べる宗教団体は世界中どこにも存在しない。
宗教団体が現実に維持される為には、どうしても神仏からの特別扱いは
必要なのである。そうでない宗教団体は、信者を獲得できない。
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* もちろん神仏の特別扱いが、宗教の根幹などと言うつもりはない。
だが宗教が、多くの衆生と共に生きるならば、この特別扱いは宗教団体
を維持する上では決して無視できるものではない。
● 大衆の関心ごと
多くの宗教信者はあの世での特別扱いに関心がある。
だからこそ、宗教団体が信者を集める際の最強のノウハウも、
この特別扱いの中にある。
どの宗教もこの特別扱いについて詳細に説明を加えている。
多くの宗教信者の関心ごとは、あの世に行ったときに平均以上の場所に
進めることへの安心感である。多くは天国に行くことを望むのではなく、地獄に
堕ちることを恐れる。
動画 テキスト
● 無信仰者と社会
逆説的な言い方になるが、宗教をまったく信仰しない、ある一定数の人々の
存在は、人間が社会を維持する上では重要な役目を果たしてきた。
宗教信者が時に熱狂的なまでに宗教に力を与えてきのたは、あの世での
特別扱いがあればこそ!である。その強い想いがなければ、どうしてあれ程、
中世のヨーロッパで免罪符が普及することがあろうか!?
無信仰者は、この特別扱いに反応しない人々の集まりである。
この一定数の人々の存在と、人間社会の関わり、人間社会の変化、移行に
ついては考察に値する。この分野の学問が、社会学の領域となる。
動画 テキスト
* 神と対峙することが一切なく、無信仰なのは、この世界に生れた人間と
しては、だいぶ寂しいものである。もちろん学問を徹底的に積み重ねて
その上で無信仰という結論に達したならば、それはそれでも良いだろう。
つまり神も許すだろう・・・・。
(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の未来の社会学者へ 』
● 日常と永遠性を求める心の狭間で@
宗教家の使命は、この世界の認識とこの世界で生きる人々の救済である。
宗教家はこの世界で進むべき道を見失い、戸惑う民衆に進むべき方向を
指し示す。生きるとはこの世界と対峙することである。
人は生きる為には食事をし、服を着て、家を建てる。
つまり衣食住が必要になる。それだけではない。
その時代の平均的な生活が常に求められ、さらに名誉や社会的地位、誇りや
時に権力や名声を求める心が生れる。
確かに、これらは大事なことではあるが、もっとも大事というわけでもない。
だが軽視できないものでもある。
人々がこの世界でもっとも大事なものを見つけようと、日々生き続ける中では、
こなさなければいけない雑務や仕事がある。
また、その必要性から組織が作られ、会社になり、それが集まり社会となり
社会を支える為に、都合の良い考え方が人々に普及し、それが価値観に
すり替わり、次の若者の社会へ受け継がれていく。
もっとも大事なもの求めたい気持ちと、されど日常の雑務があり、仕事があり
そういう魂の理想と、実際に生きるための現実との2つの狭間に発生した溝
をなんとか埋められるように応援する役目が宗教にはある。
宗教の使命は、2つの狭間で悩む人々を励ますことにある。
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● 日常と永遠性を求める心の狭間でA
毎日の日々に社会的に多くのことが求められる。
それでも人間として生まれたからには、もっと大事な事があるのだという静かな
想いと、その思いを人々が想い続けられるようにと、応援する役目がある。
日常 大事なもの=永遠なるもの
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仕事、業務、雑務 宗教、芸術
社会的習慣 ⇔ 学問、芸事
近所付き合い
永遠なるものを求める過程で、それができない社会的環境や、境遇が
愛や努力や根性を生み出し、また時に嫉妬を怒りを呼び覚まし、
その思いが一定数を越えると大きなうねりとなって、時に地方自治を揺るがせ、
時に国家までも動かして、新しい時代がもたらされてきた。
上記に述べた2つのギャップによって、人々の心底に生まれた深層心理が、
じわりと静かに、しかし確実に社会に影響を与えていることもあるのだ。
もちろん、その因果関係を掴むことは非常に困難であり不可能に近い。
到底、コントロールできる種類のものではない。
国や時代を超え、その2つの狭間で揺れ動く人々を宗教は常に慰め、
励ましてきた。宗教は確かに永遠なるものへの誘いである。
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*上記で述べた2つの間で生まれたギャップが、人間社会にどのような影響を
及ぼしてきたかを調べるのが社会学の仕事である。
人類の動向に決定的な影響を与えるのも上記で述べたギャップにある。
社会学も歴史学もこの点を見逃してはならない。
● 永遠なるものを求める@
宗教でも科学でも学問でも、共通に存在するのは、いずれも永遠なるものを
求めることである。この世の世界だけではない、この世界を越えた永遠なるもの
がこの世にはあり、そこに価値を見出し、その永遠なる何ものかの見つめ、
追い求めることにある。
その永遠なるものを、人類はもっとも大事に考えてきたのである。
古代の遺跡が示す痕跡が、そのことを物語る。
エジプト、ギリシャ、ローマを始め、偉大なる文明が起こった国の残した遺跡、
建造物、芸術品にはその当時の人々が、日常において、いかに永遠なるものを
感じて過ごしていたのが見て取れる。
その永遠なるものに古代の賢者は堂々と対峙した。
ギリシャ、ローマの哲学者を始め、その後のカントやゲーテ、ショーペンハウアー
といった天才達も常にその永遠なるものを意識していた。
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* 2400年前のプラトンはこの世界の奥に形相の世界(イデア)を見た。
カントは、この世界の奥に、物自体の世界を見た。
ショーペンハウアーは、この表象の世界の奥に盲目なる意志の世界を見た。
● 永遠なるものを求めるA
宗教とて同じである。 宗教がどれほど、民衆のものであろうと、その教えが
簡易になり、大衆に届きやすいものとなっていようが、宗教が最終的に導くのは
この永遠なるものへの道である。
これを我々は心の奥底で知っている。 だからこそ現代の我々が古代の遺跡
を見ると、多くの人々は感嘆の声を上げる。 その時代に生きていた人々が、
日常の中で永遠性を感じていたことを現代の我々が感じ取るのだ。
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日常に翻弄され、それでも永遠性を求めた人々の痕跡を
書物から、風習から、遺跡から汲み取るのが歴史学
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日常に翻弄され、それでも永遠性を求めた人々の内から発生した葛藤が
人間社会に与えた影響を考察するのが社会学
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日常に翻弄され、それでも永遠性を求め続ける人々を常に励まし、
その葛藤を癒し、永遠なるものへ導くのが宗教
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宗教はその意味で、歴史学よりも社会学よりも大きな役割を持つ。
宗教・科学・学問・芸術・芸事、どれもその役割も、性質も、探求する時に使用
するアプローチも異なる。
だが、永遠なるものを求める点では一致しているのだ。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の未来の歴史家へ 』
『 稲穂黄金の未来の社会学者へ 』
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