神と宗教。 その宗教が神を同見ているかは、世界、自然に対する神の立ち位置を見ればよい。
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神と宗教

  この世界に対する神の立ち位置をどこにするかで宗教は枝分かれしていく。
 この若干の差が時代を経ると、隔たりとなるほど大きな違いを生み出す。

 ● 宗教の特徴付け

 世界中に幾万もの宗教が存在する。細かい部分は異なるが、それでも
 幾万もの宗教がその特徴を大きく分けることができる。
 以下についてどのように考えているかで宗教の性格を特徴付けられる。

  @ 神の立ち位置をどこに持ってきているか?
  
A この世界をどのように認識しているか?

 宗教が掲げる神が、どの立ち位置にいるかでその宗教の大凡の特徴を判断
 することができる。宗教の特徴を見る場合は、この神の立ち位置が重要である。
 いずれの位置に立っているかを知ることがもっとも重要なのである。

 宗教が神の立ち位置をどのように考えるかで、その宗教が世界をどのような
 認識に至ったかを、ある程度まで規定する。

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● 神の立ち位置

 神の立ち位置とあるが、何における立ち位置かといえば
 以下の
つに対してである。

     
世界、 自然、 人間(知性)

 上記の3つがどのような位置関係にあるかが重要である。
 さらに上記の3つに対して
がどこの位置に入るかが重要である。

 この位置関係が似ている宗教同士は、異なる宗教であっても相通じる所がある。
 キリスト教であっても仏教であっても、その他の新興宗教でも互いに信者が
 似た考え方、似た習慣を持つようになる。

  反対に上記の位置関係が異なる場合は、同じキリスト教であっても、信者が
 保有する世界観が異なる為に、長い時を経て、まるで別の宗教の信者ごとく、
 考え方も生活形態も大きく異なることになる。
 元は同じ1つの宗教から発生したのに、この世界観の微妙なずれが、長い時間
 を経て、まるで別物の宗教とみなす程までに、大きな違いをもたらすことになる。

 世界、自然、人間(知性)の3つの関係と、そこに神がどの位置に属するかで
 宗教を大まかに特徴ごとに分けることができる。


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 * だからこそカトリックとプロテスタントがあれほど憎しあい戦争をしたのだ。
   変えがたい異なる世界観がぶつかりあったのだ。



 ● この世界に対する認識@

 世界、自然、知性(人間)の3つの関係と神(または仏)の立ち位置は各宗教に
 おいて概ね、以下のようになる。

  仏教     世界= 仏  > 自然      > 人間(知性)
  
ヒンデュー  世界=親神 > 自然 = 神々 > 人間(知性)
  
神道     世界=親神 > 自然 = 神々 > 人間(知性)
 ------------------------------------------------
 
ユダヤ教   絶対神    > 世界 = 自然 = 人間(知性)
  イスラム教  絶対神    > 世界 = 自然 = 人間(知性)

 ------------------------------------------------
 キリスト教   絶対神     > 世界 = 自然 = 人間(知性)
  (ユダヤ的
  キリスト教
  世界=親神  > 自然       > 人間(知性)
  (仏教的

 同じキリスト教であってもたくさんの宗派が枝分かれして各団体ごとに教義も
 異なりひとくくりにできないように、上記についても宗教家や宗教学者により
 意見は別れるだろう。上記は大まかな傾向について述べた。

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* 小さい頃(就学前)、近所にキリスト教の教会に住んでいる同級生がいた。
   その子は、この世界は全て、神様が創ったんだと自信満々に話していた。
   私は、その話を初めて聞いた時、非常に違和感を感じたのを覚えている。
    就学前の何の思想も持たない幼子でさえ、その考えには違和感を持った。
   教育以外にどうしてそういう価値観が植えつけられよう!
   神が本当に存在するならば、こう言うのではないか!
   そんなことは重要ではない!私が世界を作ったとか作らないとか!
   そんなことは重要ではないのだ!と。


 
● 2つの断絶

 世界の宗教には
2つの大きな断絶がある。
 唯一無二の絶対神の系統と自然崇拝などの多神教の系統である。

  
  唯一無二の絶対神  ⇔  自然崇拝的な神々
   ------------------------------------------
        一神教      ⇔      多神教
    ユダヤ的世界観    ⇔    ヒンデュー的世界観

   ユダヤ教、イスラム教  ⇔   ヒンデュー教、神道、仏教
   キリスト教(ユダヤ的)  ⇔   キリスト教(仏教的)
    
 
簡単に言えば一神教と多神教との対立であるが、一神教であってもその内部
 にあっては、絶対神の系統と自然崇拝的な多神教の系統が存在する。
 ユダヤ的な系統と仏教的な系統といっても差し支えない。

 一神教の中においても、上記の2つの系統に大きく別けれる。
 同じキリスト教の中にあっても上記のユダヤ的な絶対神の信仰するキリスト教と
 自然崇拝的な多神教的な面を残すキリスト教が存在する。

 多神教もまた、2つに別れて考えることができる。
 仏様は出てくるが、この世界を創造した絶対神などを想定しない仏教。
 仏教では、世界を創造したという絶対神の思想は邪教ですらある。

 世界を
形成した親神(決して創造ではない)が出てくるヒンデュー教と神道。
 神道のイザナギとイザナミの神は、既に存在する世界に対して、その混沌を
 矛でかき混ぜて国を産み、神を産み、人を産んだ。
 両神が人を産み育て、この日本を治めたという意味がそこにはある。
 神道の神世七代の神も、この世界が生まれた後に生まれている。
 つまりこの
世界が生まれると同時に、また生まれた後に神が生まれる。
 既にこの世界を前提に語られている。
 ユダヤのように、この世界そのものを創造した創造神などではない。

 ヒンデュー教にでてくる親神=ブラフマンも世界霊として描かれている。
 ユダヤのように、この世界そのものを創造した創造神などではない。
 仏教、ヒンデュー教、神道には、世界そのものを創造した神などはでてこない。

 唯一無二の絶対神の思想の産みの親はユダヤである。
 ユダヤの流れから、キリスト教とイスラム教が生まれた。

 自然崇拝は、ヒンデュー教と神道が引き継いでいる。仏教もこの範疇にある。
 古代の偉大な国は、皆自然崇拝的である。

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* 古代ローマ人も、古代ギリシャ人も自然崇拝、先祖崇拝の国である。
  神道をベースする現代の日本人の感覚に非常に近い。
  神道をベースにする日本人は、古代のローマ人とすぐに打ち解けるだろう。
  反対に現代のアメリカ人やユダヤ人の感覚を古代人はすぐには理解できまい。
  その意味でも、神道には興味が尽きない。


 ● 有神論と無神論@

 
有神論か無神論かは、さして重要ではない
 なぜなら、どういう神の捉え方をするかで、ある人から有神論者だとも
 無神論者だとも、判別されうるからだ。
 ある人が有神論者だと自分では思っていても、神の姿を別に捉える宗教団体の
 信者から見れば、その人は無神論者と判断されるだろう。
 ユダヤ人からすれば、全ての仏教徒が無神論者に見えることだろう。
 人類が生んだ天才・釈尊ですら無神論者だと、ユダヤ人は言いかねない。

 西洋社会に生まれた多くの探求者の不幸は、中世ヨーロッパではユダヤ的
 キリスト教が掲げる神のみが神なのであり、それを信じなければ、すべて
 無神論者と見なされてきた点だ。
  中世ヨーロッパにおいては、この世界を創り、自然を作り、人間を作ったという
 唯一無二の絶対神こそが神なのであり、その神の捉え方に異議を唱える者は
 すべて無神論者の烙印が押されたのだ。
 それゆえ有神論者か無神論者かの話は、さして重要ではないのだ。

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 ● 有神論と無神論A

 いつの時代でも国でも安易なものはユダヤ的な一神教に飛びつく。
 それで説明されるとわかった気になれて、それで満足なのだろう。

 有神論か無神論かを話す場合、本来、そういうレベルの低い話ではない。

 有神論か無神論かは、この世界を知る為に、どこまでも学問に努めて努めて
 研鑽して研鑽してそこを突き抜けて、、その奥に
永遠性を発見し、
 そこに至り 
全ての現れの中に確かな神の存在を見るか、それとも
 わからぬものはわからぬままに、見えるものは見えるままに、
 思えるものは思えるままにしておきそこに留まるか
の話となるのだ。

 
ここに至り、真の信仰と呼ばれるようになる。

  これは古今東西の賢者、宗教家、皆そうである。
 安易に神はこうだと決め付けるようなレベルの話では決してない。
 わかったつまりになって安堵する日々などでは決してない。
 釈尊であれ、イエス・キリストであれ、日々に研鑽し、日々に学び進んだのだ。

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    (*) 詳細は以下のサイトを参照。
         『 稲穂黄金の有神論と無神論



 ● 自然 = 神々

 ヒンデュー教においても、神道においても自然=神々の面を持つ。
 世界が始めにあり、その世界を親神が整え、さらにその親神から多数の
 神々が生まれた。その神の多くは働きの神とされる。つまりそれが自然の力
 と重なり、神々は自然の奥にいると考えられるようになった。

 その神の子から、さらにその子と進んでいくと、いつしか人に繋がると考える。
 先祖は神に繋がるという想いが神道にはある。
 ここには、人は自然に繋がるという想いが存在する。
 多神教において、自然の奥に永遠を感じることには何のためらいもない。

 しかし一神教では自然の奥に神の要素を求めることは避けるべきこととなる。
 一神教においては、この世界を創造した絶対神のみが唯一の神であり、
 絶対神が世界、自然、人間(知性)も創造したに過ぎないとなる。
 この隔たりは大きい。
 
一神教と多神教の自然観は大きく異なる。

 中世ヨーロッパにおいて、キリスト教が常に科学者の邪魔ばかりしてきたのは
 自然の奥に、人間が感知しえない力があることを多くの人々に悟られては
 困る為である。

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 * この点について心理学者ユングはこう述べた。
 『キリスト教は人智で把握できない霊的作用に対して潜在的な恐れをもつ 』



 
● 自然とは己自身で生まれてきた

 自然とは、絶対神が創造して生み出したものではない。
 自然は、何かしらの存在によって、生み出されたものでも決してない。

 
自然は、己自身で生まれてきたのだ。

 その言葉が差し示す通り
ずからとするだ。(みずからぜんとする)

 これは、古今東西の賢者が常に認めてきた。
 孔子・老子・プラトン・カント・ゲーテ・ショーペンハウアー皆そうだ。

 自然を、他の誰かからの創造物と考えること自体、大きな間違いを犯している。
 自然の本質を見る点では、仏教はあらゆる宗教の中で真に自然の本質を
 見抜いている。これは仏教が天才・釈尊から生まれていることと関係する。

 これに引き換え、ユダヤ教の影響下にあるヨーロッパ諸国の人々の自然観は
 大きな誤信に満ちている。自然の本質を見誤っているのだ。
 西洋でも、ようやく近代に至り、優れた科学者が自然の深遠さを認め始めた。
 それにより現代の西洋社会にも、その考えが広がりつつある。

 自然が知性の形式で完全に理解できないと表明する優れた科学者には
 ハイゼンベルグ、ニールス・ボーア、シュレーディンガーなどがいる。
 ユダヤ的世界観が中々抜けなかったユダヤ人のアインシュタインも晩年には
 人間の形式では理解できないものが自然にあることを素直に認めている。
 これらの探求者は、皆、天才・ショーペンハウアーの教え子である。

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* もちろんいつの時代でも少数の例外がいる。
  西洋であっても、ゲーテやショーペンハウアーの天才などは自然の本質を
  誰よりも的確に捉えていたし、シャークスピアを始めとする優れた芸術家の
  多くも自然の奥に違う世界を見ていた。


    (*) 詳細は以下のサイトを参照。
         『 稲穂黄金の深遠なる者達

         『 稲穂黄金の科学の基礎
         『 稲穂黄金のこの世界この自然この知性


 ● 自然の本質

 確かに自然は、我々を殺さない。我々の命を奪ったりはしない。
 だが
自然は無慈悲である。
 自然はその営みに全てを委ねて、その中で生きる生命の歓喜や悲しみ、また
 生や死のひきこもごもについて決して、救いの手など差し伸べない。
 自然は傍観するのみだ。

  自然は、種を保つことには慎重に慎重を重ねる。
  だが自然は簡単に個体(個々の生命)を見殺しにする。
  自然は
たくさんの個体を生み出すことに何の苦労もない
  時に、雑種すら生み出すほどに、その力は旺盛であり、決して衰えない。

 
自然は大芸術家である。
 自然は、どんな小さな生き物、細かい器官までも決して手をぬかずに詳細に
 精巧に作り上げる。多数の作品を苦も無く、幾万と生み出す。
 なれど、その作り上げた幾万の精巧な芸術品が惜しげもなく壊されるのを
 黙って見ている。

 自然は植物・動物・人間をその懐に抱く。 自然の意志から若干、分離した知性
 を有する人間の目には常に、不安の影が浮かぶ。

 動物にあっては、知性が自然の意志に完全に組み込まれている。
 彼らのその目は常に自信と安心に満ちている。彼らは大地に根ざしているのだ。

 人間は寝ているときは、植物である。
 人間は寝ぼけて歩き回る時、寝起きにおぼろげに行動する時、動物である。
 人間は、起きてからある一定の時間を経て、完全に目が覚めて人間となる。

 中国が生んだ
天才・孔子はこの自然についてこう述べた。
 『 
自然に思惟がないって、そんな馬鹿なことはない。
   自然にも思惟がある。だがそれは我々の思惟とは異なる。 


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    (*) 詳細は以下のサイトを参照。
         『 稲穂黄金の未来の生物学者へ



 
● 西洋の芸術家と自然

 西洋の宗教信者には、自然はただの物にしか、見えないのだろうか?
 神だけが対象で、自然の中に神に通じる永遠性を見ないのであろうか?
 西洋の宗教信者は、自然の息吹を感じないのだろうか?
 ユダヤ的色彩に染まった一部のキリスト教徒には感じぬのかも知れぬ。

 西洋において、自然に対する迷妄さが、世に広がれば広がる程、多くの人々は
 自然の奥に潜む永遠性を強く求めた。
 その為に
西洋では、自然の本質を見る芸術家に惹きつけられた。

 西洋に迷妄の教えが広がったからこそ、西洋では芸術が強く求められた。
 人々は真に自然の姿を忘れぬ為に芸術家にそれを求めた。
 確かに、西洋には優れた芸術家が多数、輩出した。

 東洋において人々は自然の中で生きることに違和感がない。無理がない。
 東洋において自然とは、そのままあるがままに受け入れられることであった。

 長きに続いた中世ヨーロッパの暗黒時代。その迷妄を打ち破ったのも
 古代ギリシャ・古代ローマの人々の芸術作品、その美の再発見であった。
 美はごまかせない。
 いつの時代であれ、愚鈍のものは自然がただの物に見えるようだ。
 愚鈍なものは自然の奥に永遠性を感じないのだ。

 古今東西の優れた宗教家、哲学者、芸術家、賢者、それらの人々は必ずと
 言って良い程
自然の奥に永遠性を感じ、違った世界を見る。

 ユダヤ的世界観が、ヨーロッパの民を愚鈍・迷妄の極地へ引きずり込んでいる。
 ユダヤにあっては、この世界こそがすべてだ。
 彼らの教えは唯物論の産みの親であり、また共産主義、ユートピア論、
 絶対精神(絶対理性)論など、愚劣な思想の産みの親である。

 これらの者達は、真の芸術家の自然を見る真剣な眼差しについて、
 何か、思い至ることはないのであろうか?

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    (*) 詳細は以下のサイトを参照。
         『 稲穂黄金の未来の芸術家へ




 
● 賢者の認識

 古今東西の賢者は世界、自然、人間(知性)の関係を正確に把握してきた。
 以下のように認識した。

     
世界 > 自然 > 人間(知性)

 まずこの世界があり、そして次に自然があり、その次に知性が生まれた。
 
世界があって自然がないことは考えられる。
 しかし自然があってこの世界がないことは考えられない。

 自然の上で展開される因果の営みは空間と時間の形式を必要する。
 つまりこの世界を必要とするのだ。

 
自然があって人間(知性)がないことは考えられる。
 しかし人間(知性)があってこの自然がないことは考えられない。

 我々(人間)は自然の上で生まれ、そして自然の上で死ぬ。
 我々(人間)は自然の上で栄養を得て育ち、そして死んで土へと返る。

 世界があって自然がある。自然があって人間(知性)があるのだ。
 自然の上で個体(知性)が生命活動を維持できる。
  知性は自然のだいぶ後に生まれたに過ぎないのだ。

 世界が存在して、初めて知性が存在できる。
 我々の知性の形式は既に世界を前提にしている。
 我々の知性は表象上の物質に空間と時間と因果性のルールを適用する。
 
我々の知性の形式は既にこの世界を前提としているのだ。

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● 迷妄のユダヤ

 ユダヤにあっては唯一の絶対神のみが圧倒的であり全てである。
 それゆえに世界も、自然も、人間も、神の創造物の1つに落とされる。
 さらに悪いことには、世界も自然も人間も同列に考えることに至る。

 
神> 世界=自然=知性(=神の1つの創造物)

 絶対神のみが突出する。
 その絶対神から選ばれた民(=選民)が聖書を受け取り、聖書は絶対神が
 もたらしたものだから、その聖書でこの世界が全て説明できるとなる。

 迷妄のユダヤには、古今東西の賢者の声は届かない。
 賢者が 世界 > 自然 > 知性(人間) と何度も丁寧に説明しても
 ユダヤは、その真理を理解しようとしない。

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 ● 傲慢なキリスト教徒とユダヤ的世界観

 中世ヨーロッパのキリスト教の指導者層ほど傲慢なものはなかった。
 聖書がこの世界を全て説明できると考えていた彼らは聖書以外の解説を
 許せなかったし、許さなかった。
  彼らの単純な頭脳、低劣な頭脳が権威を持った時代。
 馬鹿に力を与えればどういうことが起こるかの一番の参考例。
 これらの単純で、愚鈍で、低劣な頭脳を持つ者達の為に、優れた頭脳は
 どれほどの被害を被ったか!いくら言ってもいいたりない。

 ガリレオ・ガリレイ、コペルニクス、ジョルダーノ・ブルーノ、バニーニ。
 当代随一の探求者、ジョルダーノ・ブルーノは火刑により殺された。
 粗野で馬鹿なキリスト教の指導者層が1000人集まろうが、超一流の探求者
 ジョルダーノ・ブルーノの足元にすら近づけない。
 そのブルーノを火炙りで殺したのだ。なんとひどいことを!

 同じく誠実な探求者バニーニは舌を抜かれた上に火刑により殺された。
 真摯な探求者バニーニを火炙りで殺したのだ。なんと酷いことを!!

 これらを実行したその当時のキリスト教の指導者層の愚鈍さと残酷な性質。
 馬鹿に、付ける薬はないというが、まさにその通りである。

 こういう輩の頭の奥には、
ユダヤ的世界観が潜んでいる。
 始めにこの世を創造した絶対者がいる考えである。
 その印籠をもって、何ものも恐れず、愚劣さが自由に飛び回り、あげくの果て
 に残酷へと変化するのだ。

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    (*) 詳細は以下のサイトを参照。
         『 稲穂黄金のユダヤVS賢者

         『 稲穂黄金の賢者と愚者
         『 稲穂黄金のユダヤと日本


 
● 迷妄と狂気

 ユダヤによって、すべてが迷妄に堕ちる。 この世を創造した絶対神から始まり、
 この世界、自然、人間の知性までが絶対者が作ったとなり
 
自然の奥に永遠性を見ることを否定する。
 永遠なのは神のみなのだと言ってくる。

 迷妄な人々の増加は、真理を愛する人々には恐怖である。
 ユダヤ的世界観が流れ込んだ国の人々は、真理がユダヤの悪臭によって
 駆逐され始めるのを知る。
 国のもっとも下層な知性の人々が、最初にユダヤ的世界観に取り込まれる。
 いつの時代も愚鈍なものは、学ばずに盲信するからだ。

 徐々にそれが大衆に広がるに従って、学問を愛し・真理を愛する人々は
 悲鳴に似た声を上げる。その声が中世ヨーロッパのガリレオ・ガリレイであり
 ジョルダーノ・ブルーノであり、バニーニであり、コペルニクスらの声である。

  ユダヤ的世界観が流れ込めば、その地には騒乱が起きる。
 人々の良識と、真理を求める探求心が悲鳴の声がこだまする。

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* ユダヤ人がユダヤの教えを信じようが信じまいと自由である。
   それは信仰だからだ。 そして宗教は信仰で留まるべきなのだ。
  一神教の教え、特にユダヤの教えは人々の信仰に留まらずに他の人々の
  思考、生活を強制して、果てはその強制を国家にまで広げようとする。
  もう一度いう。宗教を信じようが信じまいが自由だ。それは信仰だからだ。
  だからこそ宗教は信仰の内に留まるべきなのだ。



 
● ユダヤの教えと騒乱@

 いつの時代であれ、ユダヤ人は騒動の渦中にいた。
 多くのユダヤ人は騒動を引き起こし、またその騒動の犠牲者にもなった。
 ユダヤ人は、いつの時代も迫害にあってきた。そのことは世界中の人々も
 良く知っている歴史的事実である。 近代のヒトラーの虐殺の例をいうまでもなく
 多くのユダヤ人が迫害にあってきた。
 その点ついて世界中がユダヤ人に真に同情する。

 どの民族であれ同じ人間であり、人間として同じ権利を有する。
 民族間の優劣など目くそ鼻くその差もありはしない。
 もう一度述べる。誰もが同じ権利を有する。
 ユダヤ人の迫害については、誰もが真に同情する。

 なれどその騒動の真の原因は、誰に求められるものなのだろうか?
 ユダヤ人を迫害する人を悪魔だと、簡単に断定すればそれが解決するのか?
 
である!断じてである!

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 ● ユダヤの教えと騒乱A

 ユダヤ人が信じている信仰、ユダヤ的世界観の中に、騒動を引き起こす要因
 が含まれていないとどうして言えようか!どうして断定できよう!

 ユダヤ人を迫害する人々を悪魔だと言って結論付けるのは簡単であるが
 それは、いかにも安易である。 
 
ユダヤ的世界観の中に真理を駆逐する思想が含んで
 いないと誰がいえよう。そのことを強く言及する人は少ない。
 それほどまでにヒトラーのユダヤ人虐殺が残酷すぎたからだ。
 世界中の人々は真にユダヤ人に同情している。

 だからいって、21世紀になってもユダヤの教えの本質を人々が理解しなければ
 ユダヤ人にとっても、ユダヤ人でなくても多くの悲劇が訪れないとも言えない。

 歴史を見れば、
ユダヤあるところ騒乱がある。
 ユダヤ的世界観が入り込んだ地域の混乱は、その地域に本来、住んでいた人々
 の悲痛の声である。ユダヤの迷妄の教えが真理に蓋をして真理を駆逐するの
 を感じ取った人々の声である。うまく口に出して表現できないが、それでも
 妙な胸騒ぎに駆られた人々の悲痛な叫びがこだまする。

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 * ユダヤ人の中でも、少数の者は上記について薄々気付いている。
  もし仮にユダヤ人の大多数が、彼らユダヤ人を迫害する人々を単に
  悪魔の使いなのだと認識しているとしたら、またいつの日か、同じ悲劇が
  繰り返されない保証もないのだ。このユダヤの迷妄の教えの悪影響について
  真剣に真摯に考察するのが、未来の社会学者の重要な仕事の1つでもある。

    (*) 詳細は以下のサイトを参照。
         『 稲穂黄金の未来のユダヤへ

         『 稲穂黄金の未来の社会学者へ


 
● 愚劣な物の産みの親=ユダヤ的世界観@

 ユダヤ的世界観は、多くの愚劣な物の産みの親である。
 以下はユダヤ的世界観が生み出した子供である。

    宗教裁判異端尋問、魔女狩り)
    
科学者への迫害探究心の抑制
    
唯物論観念論の否定
    
ユートピア論者楽園論者、神の意図
    
共産主義楽園論者、神の意図
    
知性絶対主義(神の意図、絶対精神(理性)を掲げる馬鹿者達)

 確かにこれらの粗野で無知な考えがこの地上を覆ったこともあった。
 現代において、その霧も徐々に取り払われようとしている。
 そこには
近代の科学者達の頑張りがある。

 だからといって決して油断できない。人類はいつの時代も易きに流れやすい。
 優れるよりも、無知で馬鹿で粗野な低きに流れる方が遥かに簡単である為だ。


 無知で、粗野な考えを受け継ぐ馬鹿共もまだまだ、たくさん存在する。
 特に、日本の大学哲学がそうである。馬鹿な輩が多く存在する。 
 哲学科の教授の中にも救いがたい者が多数存在する。 
 いまだに絶対精神とか、この世界は理性が支配しているとか、世界は意識の
 発展過程であるとか、そんなアホなことをいう輩が後を絶たない。
 これら輩はフィヒテやヘーゲルなど無能者を好んで学ぶ。
 馬鹿は考えない。思い込みが全てだ。
 それらの安易な考えで、この世界が把握できているのだと考えるのだ。

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 ● 愚劣な物の産みの親=ユダヤ的世界観A

 古代から神の意図を述べる者は、多かれ少なかれユダヤ的世界観に
 つながっている。スコラ哲学もその1つだ。哲学というよりも神学に近い。
  スコラ哲学は神の意図を擁護する為にもたらされた。
 理性(精神)の絶対化は、いつの時代も、これらの一神教を擁護する馬鹿共が
 大声で述べて広げてきた。
 こういう輩は、神がこの世界を作ったという物語で、この世界の全てを
 理解できたと考える。そうなるとそれ以上、学ぶことはなくなる。

  これらの輩を見ると、真摯に探求してきた物理学者、圧倒的な脳の練磨を
 必要とする数学者達の努力と苦労は、いったい何なのか?と思いたくなる。
 偉大なる真の哲学者の偉業、優れた科学者の真剣な探求を、いったいこれら
 の輩はどう見ているのか?

 
日本の大学哲学の現状は、ことに酷い
 この世界は絶対精神(絶対理性)が存在して、世界は絶対者の意図の方向へ
 進んでいるなどとアホな事を言う輩が日本の大学哲学には、いまだに存在する。
 それも決して少なくなく結構な数がいるのだ。
 日本の大学哲学において、哲学が文科系で占められる現実。 
 数学や物理など、科学に対する基礎的な知識が欠ける者が多数である。
 こういう学ばない輩にとって、始めに神の意図ありきで始まるユダヤ的世界観
 はだいぶ都合が良いのだろう。数学、物理、科学を学ばなくて済むからだ。
 現代のまともな科学者で、日本の大学哲学を相手にする者などおるまい。

  優れた科学者の多くは、この世界の理解しがたさを感じている。
 量子世界の探求にも突入した。21世紀の科学の立ちはだかる壁は高い。
 科学がこれから容易ならざる道に入ることを、
 皆ひしひしと感じている。
 一流の科学者なら自然の奥には人間が理解しがたいものが存在することを
 認めているものなのだ。

           動画           テキスト

    (*) 詳細は以下のサイトを参照。
         『 稲穂黄金の未来の哲学者へ
 
        『 稲穂黄金の未来のユダヤへ

         『 稲穂黄金のユダヤVS賢者
         『 稲穂黄金のユダヤと日本


 ● ユダヤ的世界観と探求者@

 哲学者ジャンジャック・ルソーは、知性ですべてがうまくいくという考えを抱き、
 彼から影響された多くの人々により、フランスやその他のヨーロッパに革命が
 吹き荒れたが、結局、市民革命後にフランスにもたらされたものはナポレオンの
 帝政であり、頭で想定していたものと雲泥の差があった。
  ルソーの知性万能論がヨーロッパに激動をもたらしたのだと、この点について
 
渡部昇一先生が的確に述べている。
 確かにルソーはそれだけ鋭い頭脳を有していた。彼の影響力は大きい。

 さらに広い視点から述べるならば
 
ルソー自身がユダヤ的世界観にとらわれていた1人ということである。

 ルソーの頭脳は既に、ユダヤ的世界観に占領されていた。
 確かにルソーは非常に優れた頭脳を有していた。だからこそ却って彼から
 ユダヤ的世界観がヨーロッパ中に広がったといえる。
 ルソーの頭脳を持ってしてもユダヤ的世界観を払拭することはできなかった。

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 * ショーペンハウアーはルソーについて、こう評している。
 『 私が鋭敏なルソーを、それでもヴォルテールの下に置くのは
  ルソーはこの世界をユダヤ的楽園と捉えていたことにある。
  その点ヴォルテールはその著書『カンディード』でこの世界を真に現した。』



 ● ユダヤ的世界観と探求者A

  同様にユダヤ人である
マルクスは、ユダヤ的世界観を払拭しようと
 ユダヤ的世界観を強く否定し非難した。
 だが、そう非難する
マルクスこそもっともユダヤ的世界観に染まっていた。
 マルクスの頭の中にはユダヤ的世界観が根をはり、抜きがたかったのだ。
 彼が述べた共産主義こそがユダヤ的世界観から生れ落ちた子供なのであり、
 彼がもっとも嫌悪したものユダヤ的世界がそこには宿っていた。

 マルクスは歴史上の偉大なる探求者と比べると、その頭脳は遥か下層にある。
 彼は確かに頭は良くなかった。どちらかといえば頭は悪い。

 しかし彼の頭脳としては良くやった。
  マルクスはユダヤの教えを否定したが、どうしても自分自身の中からその
 ユダヤ的世界観が取り除けなかった。ユダヤを否定すればするほどユダヤ的
 世界観にとらわれている自分がいた。彼のそのもがき、怒りの念がのまま、
 怨念のごとくになって共産主義論に宿っている。

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 * マルクスの精神状態を同じユダヤ人である精神分析の父、フロイトが
    分析したならば、中々、面白いものとなっていただろう。
    もちろんマルクスは真剣であったが・・・・・・。



 ● ユダヤ的世界観と探求者B

 ユダヤ的悪影響は2000年以上前にも既に存在した。
 プラトンは、その著書の中で考えが少しあやふやになる箇所が見られる。
 そういう時は決まってユダヤ的世界観が邪魔をしている。
 その当時の人々の間で流布していたユダヤ的世界観が、偉大な人々の耳にも
 届き、
あの神のごときプラトンにも悪影響を与えているのだ。

 これは、当時の古代ギリシャにおいても、その庶民の間でユダヤ的世界観が
 少なからず入り込んでいたことを証明するものだ。
  じわりとじわりと人間の迷妄に入り込んでくる迷妄なユダヤの教え。
 ヨーロッパにおいて、なぜこれほどユダヤ人が嫌われ続けたのかは、
 この迷妄なユダヤの教えの影響を抜きにしては考えることはできない。

 ユダヤ的世界観が満ち満ちる世界で生まれたユダヤ人にとってもユダヤの教え
 は大きな枷となっていた。
 しかしそんなユダヤの教えが満ち満ちるユダヤ世界にあって、ユダヤ的世界観
 から離れた者達には賞賛の拍手を送らずにはいられない。
 哲学者スピノザ、物理学者アインシュタインなどはその好例である。
 ユダヤ人でその名を知られる者の多くは、多かれ少なかれユダヤの教えから
 距離を取っている者達である。

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 ● ユダヤの教えに免疫をもつユダヤ民族


 迷妄のユダヤの教えであるが、ユダヤ人以外の者がユダヤ的世界観に
 とらわれると大きな災いが起こる。
 その地が乱れる。良識・探究心が壊され、強烈な悲鳴の声をあげるのだ。

 だが当のユダヤ人にとってユダヤ的世界観は、それほど大きな脅威ではない。
 
ユダヤ人はユダヤの教えについて免疫を持つ。

 ユダヤ人でない人々が、そのままユダヤの教えを聞けば、その通りに反応し
 ユートピア論者や唯物論者につながる。実際に中世のヨーロッパがそうで
 あったし、近代の唯物論、絶対精神、共産主義など愚劣な物はすべてユダヤ
 の教えに対して免疫を持たない人々が掛かったウィルス性の病気のような
 ものである。

 されどユダヤ人に、ユダヤの教え(ユダヤ的世界観)が入り込んでも、かれらの
 受け取り方は異なる。彼らはそのままとして受け取らない。
 2つの理由がある。
   
@ 歴史が彼らを用心深くさせる
   
A ユダヤ人は霊的に優れている


 数千年の年月において、多くの迫害にユダヤ人は見舞われた。
 その度に、ユダヤ的世界観を安易に実践することの危険性をユダヤ人は
 真に知ったのだ。
 その歴史の積み重ねがユダヤ人を用心深く、内気な人々にもしている。

 またもう1点は、ユダヤ人は霊的な面に優れた民族でもある。
 これについては、このサイトで述べるのは本意でないので先に進もう。

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 *ヨーロッパなどの非ユダヤ人の国家がユダヤ的世界観にかぶれて、中世の
  宗教裁判や魔女狩り、近代の唯物論、共産主義などに走り、大きな残虐行為
  をもたらしたのと同様に、ユダヤの教えの初期(=モーゼの時代)には、
  ユダヤ人も、ユダヤ的世界観にかぶれて残虐な行為に走った。
  当のユダヤ人も、ユダヤ的世界観の免疫が少なかったからだ。
  その当時のユダヤ人は神の言葉なら全てを聞き入れ、寛容の精神を失い、
  他の民族に非情なまでの虐殺行為を行った。
  その点は聖書に詳細に記載されている。



 
● 旧約聖書と新約聖書
 
 キリスト教の世界と自然と人間(知性)と神との関係を述べた。
 2つ存在するのは、最初が旧約聖書であり、2番目が新約聖書になる。

 【キリスト教】
  旧約聖書       >  世界 =  自然  = 人間(知性)
  
新約聖書   世界  >  自然=神   >   人間(知性)


 旧約聖書と新約聖書はその内容が大きく異なる。
 旧約聖書はユダヤ的であり、新約聖書は仏教的である。

    旧約聖書 = ユダヤ的な教え
    新約聖書 = 仏教的な教え
 
 キリスト教がユダヤ的色彩に染まった時期にイエス・キリストが生まれた。
 その当時のイエスが、常に何に抵抗していたかといえば、それはユダヤ的
 世界観である。
 イエスは、そのユダヤ的世界観に
No!を突きつけたのだ。

 イエス・キリストの登場は、キリスト教がその本来の原始の姿、仏教の兄弟
 だった頃の教えを再び、再現させることにあった。

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● 宗教は自然を安易に扱いすぎる

 あらゆる時代の賢者の正しい認識に比べると、宗教指導者層(特に一神教)は
 この世界、この自然を安易に扱いすぎる。
  古来より自然科学者が、人間の知性をもって、自然の姿を把握しようと
 真剣に取り組んできたことに対して、宗教は度重なる妨害をしてきた。

 特に西洋においては宗教の無知が何度も科学者を弾圧してきた。
 彼ら宗教信者にとっては、自然は絶対神からの単なる贈り物かも知れぬが、
 探求者にとれば、極めがたい何ものかである。

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 ● 神はすべてを人に教えたと考える人々

 神から人間へ全ての教えを聖書に伝えたユダヤ教においては
 神 > 世界 = 自然 = 知性(人間) という恐ろしい構図になる。

 始めに神の意図ありきのこの世界で、その意図が神から人間へともたらさ
 れたとする構図だ。だからユダヤは決して自然崇拝などはしないのだ。

 彼らが自然を見る場合、絶対神がもたらした贈り物の1つとして自然を見る
 そこには自然の中に潜む未知なる永遠性に対しての畏怖も恐れもない。
一神教において自然崇拝は起こらない

  自然は我々の知性の形式では理解できないものを含むと古代から多くの賢者
 が言葉を変えて述べてきたが、その事が一神教の信者には理解できない。
 近代の科学者でも優れたものは、人間の知性では自然は解明尽くせないことを
 表明している。ハイゼンベルク、ニールス・ボーア、シュレーディンガー等である。
 人間の知性の形式で届かない存在がある。

 一神教の信者は、人間も自然も、神から創られた同等のものと見なすのだ。

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 ● ユダヤ的世界観は自然崇拝を嫌悪する

 一神教の信者は以下のように考えるようになる。
 神によって、もたらされた聖書にはすべてが記載され、それゆえ人間は聖書を
 理解することで自然を完全に理解できると考える。
                
         神の言葉
           ||
   人(知性)+聖書 ⇒ 自然
                 
 一神教において、聖書が自然をすべて説明できるとなる。

         
聖書 > 自然 

 これほど愚かでおかしいことはない。
 こうなると自然と人間が同列なのだと考えるようになり、自然と人間を対立関係
 として捉えるようになるのは、ごく当然のこととなる。
 一神教において、自然はあがめる対象ではなく、対立する対象となる。

 『 始めに神の意図ありき 』のユダヤ的世界観の考えに洗脳された人が、
 たどり着くのは、
自然崇拝への嫌悪である。

 古今東西の賢者達はこの自然の奥に永遠性を感じていた。
 自然は、我々の知性の形式では、絶対に把握できないものを含んでいる。
 自然は知性よりもはるか以前に存在する。
 我々の知性の形式に沿って自然があるのではない。

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 ● 偉大な文明、賢者は自然崇拝的@

 真に自然を見て、自然を感じてきた国々では自然崇拝である。
 偉大な文明、古代ギリシャ・古代ローマは自然崇拝の国であった。
 (また先祖崇拝の国でもある。)
 真理を自由に探究できる時代とは、常に自然崇拝的であり、偉大な文明
 に至る国はその本質は自然崇拝なのである。

 古代ギリシャ、ローマの偉大なる文明において各家庭に氏族の神を祭り、
 地域の神を祭っていた。どの神を祭ろうが自由であった。
 異民族の神に対しても寛容であった。
 他の民族の神を侮辱しないかぎりにおいて自分が信じる神を信仰して良かった。
 現代の日本人の持っている感覚と古代ギリシャ・ローマ人の感覚は変わらない。

 古代ギリシャ、古代ローマ、古代エジプト、古代ペルシャ、の偉大な国は
 皆自然崇拝の国であり多数の神々を祭る多神教の国であった。

 人間の知性の形式では完全に理解できることはできない自然。
 だから自然崇拝の国は、当然、自然に対して畏怖と感謝の念を持つ。

 ユダヤ的世界観に染まらなかった東洋の国のほぼすべてが自然崇拝であった。
 人間の知性では届かないものがあることを素直に認識し、この世界の成り立ち
 を以下のように認識する。
          世界   > 自然 > 知性

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*もちろん自然崇拝の国ならば、全てが偉大などと言うつもりなど、さらさらない。
  なれど自然崇拝的でない国(絶対神を掲げる国)などは、その当時にどれほど
  強大な力を得ようが、後世の人々はその国家に偉大さを見出さない。
  ローマ帝国は、1万年後の未来の人々にとっても偉大な国だと認識されるが
  ここ数百年間の近代国家の中で、未来の人々の目につく、注意を引く国家など
  いったいいくつあるのだろうか?そもそも1つでもあるのだろうか?


 ● 偉大な文明、賢者は自然崇拝的A

  文明に限らず、あらゆる時代の賢者も同様に自然の内に永遠を見た。
  人間の知性の形式では理解し得ないことを認識していた。

 『
人間の知能では自然を全ては極められないのではないか 』ゲーテ

 『
自然に思惟がないって!そんな馬鹿なことをいうものではない。
  自然にも思惟が存在する。だが我々人間の思惟とは明らかに違う
孔子

 『
人間の生き方には決まった道などないのだ。
  決まってない道をそれでも求め歩くときそれが道となる。
  つまり人間の知性の形式でこの世界は図れるものではないのだ。
老子

 『
この世界に永遠にあって消滅しないものは何か?
  この世界にあるように見えて消え去ってしまうものは何か
 』プラトン

 
いつの時代も、真理を真剣に求める人々は決して自然を安易に見ない。
 また簡単に結論を出すこともしなかった。

 極めがたいものは極めがたいものとして認識して、その上で極められる最大限
 を極めることに尽くしたのた。そして極めがたいものを敬う心を持っていた。
 この態度は、未来の宗教家にも、ぜひ必要なものである。

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 ● 悪魔を必要とする一神教@

 唯一無二の絶対神を掲げる一神教において悪魔の存在は必要不可欠になる。
 
 なぜならこの世界の全てを創造したという絶対神、宇宙の星々の運行から
 自然の営みも、人間の営みさえ、創ったという絶対神。
 そんな絶対神ならば、この地上に簡単に楽園をもたらすことができるだろうと
 誰もが考える。 しかし現実はどうだろうか!?

 楽園など来ているだろうか?
 この地上には多くの苦悩と悲しみと死が満ち溢れている。
 食べるものさえ、ありつけない人がいる。嫉妬、憎悪、争いが各地で耐えない。

 となるなら、どういう説明が人々に必要になるかは想像できよう。
 神の意図を邪魔する者達の存在が必要となるのだ。
 ここに
うまくいかない原因の全てを悪魔に背負わせたのだ。
 一神教において悪魔の存在は必要不可欠となる。

 地上で人間は不正を働き、人をだまし犯罪も起こる。
 欲が大きくなると国家にも影響し、戦争が起こり、多くの民の命が失われる。
 動物の世界においても弱肉強食の世界であり、いつも飢餓と死が迫っている。
 天変地異で多くの人間が失われることも多くある。

 この世界には確かに苦悩に満ちている。
 その責任の所在は全てを創った絶対神へと向けられかねない。

 そうさせない為に悪魔の存在が必要不可欠になった。
 
全ての罪を悪魔にかぶせる為にだ。

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 ● 悪魔を必要とする一神教A

 ユダヤ的世界観はこの世を神が創りし楽園だと見なす。
 しかし当のユダヤ人が信じる楽園と実際の現実には大きな隔たりがあった。

 ナチスにより多くのユダヤ人が虐殺された。
 この悲惨な出来事すら、絶対神を信じるユダヤ人には、その残虐行為を神は
 許可したのだと解釈する以外はなかった。
 絶対神が創ったこの世界は全て良く否定などできないからだ。

 これを正当化する為には悪魔の存在が一段と必要にならざるおえない。
 悪い結果であればあるほど、それは悪魔の仕業だとと考える。

     
楽園観 − 現実 = 悪魔の仕業

 これられの差を、すべて悪魔に押し付けたのだ。
 ユダヤ教にとって、さらにはその流れを汲むキリスト教にとって悪魔の存在は
 必要不可欠である。悪魔を悪魔のように描くことが彼らには必要であった。

 これが仏教のように、この世界は苦が満ちていることを、始めから前提と
 するならば、地上の苦を救済するべく、法を知り、人々の苦しみを理解し、
 その痛みを共有するという、慈悲の心をもって進む道となる。
 仏教において悪魔の存在を強調しすぎることはない。

     
現実を見る目 − 現実 ⇒ 

 現実を見る目と現実に大きな隔たりがない場合、その教えは心に平安と
 力強さを与えるのだ。


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 ● 神の全知全能


 神が
全知全能であるというならば神は相当、頭が悪い。

 なぜこの世界には苦が溢れているのか?
 人間を痛めつけて、神はそれを楽しむサディストなのか?
 苦しみを乗り越えて、這い上がってくる人間の姿を余興として楽しんでいるか?
  動物を草食動物と肉食動物に分けて、片方の命を奪わなければ、片方の命が
 奪われ、片方が生き残れば、片方が死ぬことになる、などという、そんな世界を
 創ったのだろうか?

 神が全知全能なら何故、これほどまで欠乏の世界を作るのだろうか?
 実際に多くの動物の日々はまさに、食うか食われるかの世界である。

 神が本当に全知全能だというなら、もう少しましな世界が創れなかったのかと
 誰もが思うのではないだろうか!?

 本当に、神が全知全能なら神もだいぶ頭が悪い。
 神の存在を肯定も否定はしない。それは問わない。それは各人の信仰である。
 だが、神が
全知全能でないことは信じたいものだ。

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 ● 未来の科学と宗教家@

 我々の脳の上に展開される表象の世界。その表象の上に物質は展開される。
 表象の上に物質が現れる時、それは作用として現れる。
 
物質=作用といって良い。
 その作用の現れは、我々が科学的知識を増やしていけばいくほどますます詳細
 にその仕組みを展示する。

  分子よりも原子が、そしてさらに微細な陽子・電子が想定され、それよりも
 遥かに小さい素粒子・果てはクォークが科学において想定されるようになった。
  どこまでも科学は作用の仕組みを詳細に詳細に積み上げていく。
 我々の科学的知識が増せば増すほど、それに伴って物質の作用も詳細に
 展開されていく。

 表象を中心にして考えれば、右に物質、左に知性の配置になる。
 知性と物質は相補的な関係にある。

      
知性   表象の世界  → 物質

 
知性が優れれば優れるほど、物質はそれに応えるかのように、詳細な作用を
 我々に垣間見せる。知性の発展と物質の作用の詳細な把握は比例する。
 科学者はそのように理解して科学に取り組めば良い。

 もう一度述べる。知性と物質は相補的な関係にある。
 科学が発展すればするほど、ますます物質の作用について詳細に理解される。
 またこれが
科学の対象の範囲でもある。


 なれど、宗教家はこの世界を意志と表象との対立と見ることが必要である。
 盲目なる意志と無数の表象が織り成す世界である。


          意志  ⇔  表象


 偉大なるショーペンハウアーが詳細に示したようにこの世界は、この世を2つの
 対立軸で描くならば、
意志と表象に分けて考えるのが正しい。

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 ● 未来の科学と宗教家A

 22世紀までの今後100年間において、科学は予想だにしない程に複雑に
 高度に変化する。現代の宗教家などでは、まったく想像もできない程に・・・。

 現在の我々が知りえない自然の性質を、未来の科学者は詳細に理解する。
 確かに科学は、
自然の上に現れるものについてどこまでも理解を深める。
 なれど、
自然そのもの、自然の本質自体にはまったく近づけない。
 科学的アプローチでは決してたどり着けない領域が存在する。

 科学は論理を基礎にする。つまりその根は
である。
 論理の展開は2つの数を比較して初めて始まる。 

 だがこの世界の本質はあくまでも
である。

 数百年先の科学者はそのことを真に思うときがくる。
 その時に至り、
なるものを求め続ける宗教が、再度花開く時代が来る。


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