未来の宗教。真の宗教家こそ、人々の希望である。いつの時代であれ宗教は求められた。人々の真剣な問いが宗教であるからだ。
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 未来の宗教とはどういう形であるのか?
 未来の宗教家とはどうあるのか? それを述べよう。


 
● 釈尊の目と現代の科学者

 2500年前の釈尊が正確に認識したように、この世界は
因果の世界である。
 全ての結果には原因が存在する。結果には、先立つ原因が必ず存在する。
 原因があり結果ある。その結果がまた他の原因となり、この世界は多数の原因
 が混在し、いくつもの結果をもたらす。その結果もまた次の原因となりうる。

 釈尊の目は、この世界を正確に捉えていた。
 現代の科学者が辿りついた認識も釈尊と同様である。

 確かに全て因果関係を把握することは科学には困難であり不可能ではある。
 されど、全ての現象には因果関係があることを、現代の科学者は肯定する。
 これを否定すれば科学などは決して成り立たない。

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● 因果の法則と西洋

 西洋の人々の多くは、この世界を因果の世界と見ることができなかった。
 
西洋には、釈尊が生まれなかったからだ。

 だが、そんな迷妄に陥った西洋においても東洋の叡智は、確かに届いていた。
 プラトンがそうである。プラトンはエジプト経由で、東洋の叡智を吸収した。
 プラトンは間違いなく、東洋の、それもインドの教えを吸収している。

 またキリスト教もそうである。インドの仏教の教えがエジプトに届き、エジプト経由
 でヨーロッパにその仏教の教えの根幹が流れ込んだ。確かにそれは仏教と
 いう形で広まらなかったが、キリスト教という形で西洋社会に広く伝わった。
 仏教とキリスト教は兄弟である。
真のキリスト教は仏教的である。

 仏教の発祥の地インドでは仏教が廃れたが、なれど仏教と類似するキリスト教
 がインドで、ある一定の広まりもみせているのも偶然はない。
  インド人は、キリスト教の奥に仏教の叡智を感じている。

 ヨーロッパの不幸は、
近隣に迷妄なユダヤの教えがあったことだ。
 ユダヤの教えは、いつの時代も迷妄に陥る下層の頭脳を捕らえて離さない。
 ユダヤの迷妄な教えに取り付かれるのは、真理から程遠い者達である。

 ヨーロッパに生まれた真に優れた頭脳を有する者達を常に迫害したのは、
 ユダヤ的世界観に取り付かれたキリスト教徒であった。

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 * 古代の東洋の教えがエジプト経由でヨーロッパに伝わったことについて
   ショーペンハウアーは以下のように述べている。
   『 東洋(ヒンデュー、仏教)の叡智がエジプトのピラミッドに跳ね返り、
     ヨーロッパにキリスト教となって届けられた 』



 
● 因果法則の否定と科学の発展

 資本主義を生み出した
資本主義的精神は、経済的な富を得ることをもっとも
 否定した場所、つまり敬虔な信仰心溢れるプロテスタント系の人々の間でこそ
 生まれたのだと、150年前に社会学者マックス・ヴェーバーは述べた。
 鋭敏なマックス・ヴェーバーの視点は現代においても重要であり意味深い。

           
             
社会学者マックス・ヴェーバー
         
 それと同様に科学についても以下のことが言える。
 
因果の法則を否定するユダヤ的世界観が満ちる場所(ヨーロッパ)に
 おいてこそ、因果の法則を基礎とする科学が発達してきた。

 ヨーロッパの地において真理を求める者は常に、キリスト教の迫害を注意
 することが必要であった。迷妄なキリスト教徒に説明する為には、どこまでも
 論理的にわかりやすい説明が求められた。
  しかし、時にわかりやすく話せば話すほど、逆に迫害のリスクもつきまとった。
 科学者が論理的に筋を通して話せば話す程、迫害の危険があった。

 実際に超一流の哲学者ジョルダーノ・ブルーノは火刑で殺された。
 同様に、優れた探求者バニーニは舌を抜かれた上で、火刑で殺された。
 コペルニクス、ガリレオ・ガリレイなども宗教裁判、出版禁止、幽閉にまで
 追い込まれた。だが、そんなヨーロッパでこそ近代科学が発展した。

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 *資本主義的精神
   勤勉に合理的に働くことが神の意向に沿うとまで考えるに至った精神。
   利殖を生み出すことは神の使命とまでに価値を見出すまでに至った精神。
   合理的に働くことが神の意向とまでに考えるようになったカルヴァニストが
   結果的に(それは様々な偶然により)資本主義を生み出す原動力に
   繋がったと社会学者マックス・ヴェーバーは述べた。



 
● 21世紀の迷妄とユダヤ

 ユダヤの迷妄の教えは、常に迷妄な者を惹きつける。
 類は友を呼ぶ。
人類の大多数は下層な知性のままに留まる。
 人類の大多数は迷妄の中にある。
 その意味で
21世紀もユダヤの時代である。

 優れた頭脳はいつの時代も圧倒的に少数者である。
 優れた頭脳は希少種のごとくであり、天才となると奇跡である。

 もう一度いう。
愚鈍な者が出続ける限り、ユダヤは支持される。
 ユダヤ的世界観に取り付かれる愚鈍な者は後を絶たない。
 だからこそユダヤは無くならない。

 いつも時代であれ下層の頭脳が、この世界では幅を利かせるのである。
 再度言おう。
ユダヤの教えはなくならない。
 人類の大部分が迷妄から脱することがないからだ。

 古代ギリシャや古代ローマのような圧倒的に優れた文明が滅んで、ユダヤが
 現在まで生き残っているのは、ユダヤの教えが低みにある為なのである。

 古代ギリシャや古代ローマは、人類の例外的な奇跡なのであり、人類の
 エネルギーが最大限に凝集した結果、生まれた貴重な美しき花なのである。
 
数千年分のエネルギーが蓄えられて、それがいよいよ満ちて、
 一気に噴出して咲き誇った花
がギリシャでありローマなのである。

 なれど、花が1年の内にわずかな期間しか咲かないように、これらの美しき花も
 いずれは枯れる。事実、古代ギリシャも古代ローマも既にこの地上にはない。

 これに引き換え、ユダヤの教えは、常にそこにあり続ける土のようなものである。
 ありふれたものである。


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 ● ユダヤの教えが問題なのだ@

 ユダヤ人が愚かなのではない。ユダヤの教えが愚かなのである。
 ユダヤ人の優れた業績を否定する者など世界中で誰もいない。
 科学者を初めとしてユダヤ人には、優れた業績を残す者達が多々存在する。
 スピノザ、アインシュタイン、シュレーディンガー、ニールス・ボーア、フロイト

 だが何を隠そうこれらの世界的に認められたユダヤ人のほとんど全てが
 
ユダヤ的世界観から一定の距離を置いたユダヤ人である。

 哲学者スピノザはその為、ユダヤ人社会から締め出されて、1人灯台にこもって
 レンズを磨き続けて生計を立てて、探求を続けた。
 晩年のアインシュタインがユダヤ的世界観を否定した文書が近年、発見された。
 『ユダヤの教えは愚かだが、愛すべきユダヤ人』という趣旨を述べている。
 精神分析学者フロイトもユダヤ的教えから距離をとる必要性を述べている。
 シュレーディンガー、ボーアの自然観は東洋に近い。
  自然の奥に突き止められないものを感じている。
 これらの者は皆、ショーペンハウアーから学んだ者達でもある。
 (ショーペンハウアーよりも昔に生まれたスピノザは除く)

 圧倒的な天才ショーペンハウアーからユダヤ的世界観の愚かさを
 突き付けられた、これらのユダヤ人は皆、ユダヤ的世界観から離れて
 最終的に何者かに至った。

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*上記ユダヤ人の中に共産主義の生みの親のマルクスを含めてよいだろう。
  マルクスは確かに頭は良くなかった(どちらかといえば頭は悪い)。
  それでも彼は彼の頭脳なりに、ユダヤ人がユダヤの教えから解放されな
  ければならないとないことを知っていた。
  されど、ユダヤからの解放を強く発言するマルクス自身が実はもっとも
  ユダヤ的世界観にどっぷり浸っていた。共産主義がまさにそれである。
  共産主義はユダヤ的世界観から生まれた子供なのだ。



 
● ユダヤの教えが問題なのだA

 もう一度いう。
ユダヤの教えが愚かなのである。
 
ユダヤ人が愚かなどとは誰も言わない。

 その証拠にショーペンハウアーの業績に最初に気付いた者達の多くは
 ユダヤ人達であった。
 相対性理論のアインシュタイン、波動力学のシュレーディンガー
 量子力学の父ニールス・ボーア、精神分析学の父フロイト


 ショーペンハウアーから真摯に学んだユダヤ人達は、ユダヤ人がどんな
 影響を隣人に与えてきたか、のみならずユダヤ人も含めて真に探求する人々
 に影響を与えてきたかを悟った。だからこそ、彼らは皆、ユダヤ人でありながら
 ユダヤ的世界観からは距離を取った。
 真に優れたユダヤ人がユダヤの教えから離れたときにその潜在能力を十二分
 に発揮してきた。それを我々は歴史から伺い知る。

           動画           テキスト

   (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来のユダヤへ



 ● ショーペンハウアーとニールス・ボーア

 量子力学の父、ニールス・ボーア。
 ニールス・ボーアはショーペンハウアーから非常に良く学んでいる。
 

 ニールス・ボーアがショーペンハウアーから相当数、学んだという記載を
 私はまだ見つけていないが、それでもニールス・ボーアは間違いなく
 ショーペンハウアーから学んでいる。そう確信している。
 というよりも相当、熟読していたと思われる。

 以下の3点より推測される。
 @
ボーアがシュレーディンガーとも頻繁に親交があったという事実。
 A
ボーアが、陰陽道などの古代の東洋思想に興味を抱いていたこと。
 B
ボーアの自然観、世界観がショーペンハウアーに非常に似ている点。
 
 波動力学のシュレーディンガーが若い頃、ショーペンハウアーを熟読して
 いたことは良く知られている。そのシュレーディンガーとボーアは親交があった。
 ショーペンハウアーが話題にならないはずがないのだ。

 アインシュタイン、シュレーディンガー、ニールス・ボーアなど20世紀を代表する科学者
 皆、
ショーペンハウアーから学んでいる

   
 
人類史上最高の頭脳ショーペンハウアー

  さらにショーペンハウアーの著書には古代の東洋の思想、特に陰陽道の
 解説などが紹介されている。
 また、ボーアの自然観、世界観は非常に
 ショーペンハウアーに似通っている。

           動画           テキスト


 
● 21世紀のユダヤ

 21世紀後半から22世紀にかけてユダヤ人はユダヤの教えと正面から対峙
 する時がくる。これは決して、ユダヤ人だけの問題ではなく、世界史的意味も
 後世において持つ。その出来事は、21世紀の世界史的な意味の1つとなる。
 またそれは日本にも大きく関連する。

 
ユダヤの迷妄が強まるとき多くの悲劇が生まれる。
 
ユダヤ的世界観から脱するとき多くの混乱が起こる。

 どちらにしろ、ユダヤ動くとき騒乱の兆しが生まれる。

 ユダヤの教え、ユダヤ人について、さらに21世紀のユダヤの行く末に
 ついては以下の稲穂黄金のサイトを参照して欲しい。
 一言では伝えられない程の意味を含んでいることを真に知るだろう。

 ユダヤについてはこの辺で留めて、先に進もう。

           動画           テキスト

  * ユダヤ人がユダヤの教えと真正面から対峙する、その時がくれば
     真の宗教家、真の神霊家の出番となる。
     さらに、それらの宗教家・神霊家は日本から生まれる。


   (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来のユダヤへ
        稲穂黄金の未来の神霊家へ

        稲穂黄金のユダヤと日本
        稲穂黄金のユダヤVS賢者
        稲穂黄金の浅はかなる者達
        稲穂黄金の深遠なる者達
        稲穂黄金の未来の社会学者へ


 ● 神と肉体と死@

 神とて肉体を持てば死を免れない。
 仮に神がこの世界に肉体を持って現れるならば、神とていずれ死ぬ。
 神とて死を回避することはできない。

 この世界で知性を持つには肉体を有することが必須の前提条件である。
 肉体を離れた知性などは存在しない。これを天才カントが証明した。
 カントはいう。感官からの情報を元に悟性が表象の世界を作り上げると。
 確かに感官のあげる情報はそれだけでは生の素材である。
  しかしそれの情報を元に悟性は一気にこの表象の世界を作り上げる。

 ただしカントの説は、根幹部分において不明確であり、不充分であった。
  我々の肉体の感覚器官は、そこに物があることをキャッチするが、それよりも
 先立って我々はそこに物があるという直感を得ている。
  カントはこの直感がどこから与えられるかを詳細には述べなかった。
 どちらかといえば、まるで人間の外部からくるように考えていた節がある。

 その直感は既に我々の脳の中で生まれている。
 感官が直感を得る継起になったとしても、その権限を与えているのは、
 あくまでも我々の脳である。この意味で真の哲学は観念的にならざる得ない。

 この点を詳細に述べた者がいる。天才ショーペンハウアーである。
 天才カントとそのカントをも越える天才ショーペンハウアーの2人の存在が
 哲学をその最高の高みへと飛翔させた。
  この2人の存在が20世紀以降の優れた科学者達を生み出す原動力に
 なっている。

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   (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金のショーペンハウアー

        稲穂黄金のカント


 ● 神と肉体と死A

 神が肉体を有さずに、仮に知性を有するならば、その知性の形式は我々に
 備わる知性の形式とは異なる。

 我々の認識の形式は既にこの世界の存在を前提にする。
 我々の認識は空間、時間、因果性のルールにより適用され縛られる。
 だから我々の肉体もこの世界の、この自然の中に属している。

 神が肉体をもたずに思考できる為には、我々人類とは異なる別の知性の形式
 を利用していることになる。自然が神の為に別の形式を用意したことになる。
 仮にそうだとしたら、自然の性質に大いに反する。

  我々の知性の形式と別の形式を自然がわざわざ用意するとは考えがたい。
 
自然はあくまで節約家であるからだ。

 既に肉体を前提とする思考方法が確立されているのに、何ゆえ、別の思考形式
 をこの世界にわざわざ作り出す意味があるのか?
  既に人間に与えた知性の形式を神が利用する方が理に適っている。

 自然は
知性の多寡には特別の興味をもっていない。
 自然の上に生きる生命の知性の有無などに、まったく興味を示さない。

 自然は種を残すことには確かに慎重であるが、知性の有無で個体を贔屓して
 生き長らえさせることなどはしない。

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  (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の超越的な世界



 
● 神も気安いものである@

 世界中に多数の新興宗教が存在する。
 日本にも18万の数にものぼる宗教団体があるという。
 その中には信者数が数十万、数百万に達する宗教団体もかなりの数がある。
 そういう所の宗教団体の教祖の人達の多くは本を書いている。

 そういう教祖の人達の本を読めば読むほどこう思わずにはいられない。
 
この程度のレベル(知の)で本当に神が降りるか?

 もちろん宗教においては、知性よりは愛が、慈悲が重要なのは知っている。
 知性などは、愛に比べれば、なんとも不安定な土台しかない。
 そもそも自然が生まれる以前に知性などはない。
 知性は、自然が生まれた後、だいぶ時が経ってから生まれた。
 なれど愛は、自然が己で生まれると同時に存在続ける。

 なれど、愛だけでは決して辿りつけないこともあるだろう。
 神に触れ、神なるものを理解するには、優れた知性も必要不可欠である。

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 ● 神も気安いものであるA

  多くの宗教団体の教祖の本に目を通した。まったく駄目である。
 こんな程度ではとてもとても神を業じるレベルなどではない。
 これらの宗教団体の教祖は空海の本を読んだことがあるのだろうか?
 真に釈尊を知っているのか?老子を読んだことがあるのだろうか?
 またプラトンを知っているのだろうか?
 カントやゲーテから何を感じとっているのだろうか?
 史上最高の頭脳ショーペンハウアーの本を1度でも開いたことがあるのか?

 
偉大なる賢人や天才達でさえ神が降りてきたなどと気安く語らなかった。
 老子、孔子、プラトン、ゲーテ、カント、ショーペンハウアーでさえ、あからさまに
 神の力などとは言わなかった。
 であるのに彼らの足元に、まったく近づない新興宗教の教祖達に神が
 降りてくるとはとても信じがたい。
 仮に、もしそれが本当だというならば、なんとも神は気安いものである。

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* 多くの新興宗教の教祖の(知の)レベルは確かに、対したことはない。
   しかし、例外はあるものだ。 ごくごく少数の本物がいる。
   出口王仁三郎がまずそうである。彼こそ近代を代表する神霊家だ。
   そして現代にもう1人、例外が存在する。
   深見東州さんである。現在、世界第一等の神霊家である。
   圧倒的とは深見東州さんのことを言うのだ。


       (*) 詳細は以下のサイトを参照。
  
      『 稲穂黄金の出口王仁三郎
        『 稲穂黄金の深見東州


 ● それを信じる

 
出口王仁三郎が、そう言うなら稲穂黄金はそれを信じる。
 それが
真実などと言うつもりはない。なれど稲穂黄金は信じる。

 深見東州さんが、そう言うなら稲穂黄金はそれを信じる。
 それが
真実などと言うつもりはない。なれど稲穂黄金は信じる。

     
近代の宗教家の中で他を寄せ付けないレベルにあった。
     
学問、芸術、予知能力、霊能力、あらゆる面で抜群であった。
      
     近代の日本が誇る世界第一等の神霊家・出口王仁三郎

 上記2名ともそういうレベルにある。
 近代を代表する2名の神霊家といえば出口王仁三郎と深見東州である。
 
 もちろん他にも神霊家として優れた者はいる。以下の両名が続く。
 出口王仁三郎の後継者であり、愛深き・愛すべき
出口日出麿(ひでまる)。
 出口王仁三郎の弟子で、日月神事(ひふみしんじ)の
岡本天明

 さらに以下の両名が続く。
 世界救世教の
岡田茂吉、世界真光文明教団の岡田光玉

 岡田茂吉、岡田光玉も優れているが、されど人智のレベルである。
 人智で充分近づけるレベルにある。
 出口日出麿、岡本天明は人智のレベルと人智を越えた世界の間の境界線
 付近にいると言って良い。両名は、人智を越えた世界も垣間見ている。

 だが真に人智のレベルを超えるのは、出口王仁三郎と深見東州の両名だ。
 この両名は、そういうレベルにある。

 21世紀の世紀を代表して、他の世紀の偉人・賢人と切磋琢磨する深見東州さん
         
   現代において彼に並ぶ宗教家などまったく存在しない。他を圧倒するレベルにある。

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* もちろん出口王仁三郎と深見東州さんの言うことが全て真実であるなどと
 言っているのでもない。また上記両名が全ての分野において最高レベルに
 到達しているなどと言っているのでもない。
 プラトンの長所がカントの短所であり、反対にカントの長所がプラトンの短所で
 あるように、誰にも得意分野があり、未熟な分野もある。
 またどんな人間も間違いはする。同じ人間なのだから当然である。
 だが王仁三郎も東州さんも、人間としてもっとも目指すべき高み、その世界に
 足を踏み入れている。最高の高みへと飛躍して、時に人智を超えるのだ。



 ● ルールを作り、ルールを破る神?

 宗教家は神の力だという。
 ならばその神の力が発動される原因が、先にあらねばならない。
 多くの宗教家は神は、時間も空間も超越しているから神の行動には原因が
 ないかのようにいう。
 とするならば神は厳然たる原因と結果のこの因果の世界を創りながら、
 神は原因もなしに、この世界に結果(現象)を起こすことになる。
 つまり神はこの世界のルールを自分で作りながら、神自身がそのルールを
 破っていることになる。

 もちろん宗教が神は特別であり、科学を越えているから、神には原因がなくても
 この世界に結果だけを、もたらすことが可能なのだと主張するならば、それは
 それで良いし、その主張を貫ければ良かろう。
 宗教とは信仰なのだからその点はご自由にだ。

 なれどそう言うならば、
宗教は科学に論拠を頼ってはいけないだろう。
 そういう宗教が、肝心な点になると、その教義は科学的であるとか、
 世界中の優れた科学者が認めざるおえない、などと発言して科学に支えて
 もらおうというから、おかしなことなるのだ。

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● 神もルールを破らない

 仮に神がこの因果の世界に手を差し入れるならば、その神を動かす原因が
 なくてはいけない。
 さらに、その原因は
我々のこの世界で求められなければならない。

 そうではなく、神が何の理由(=原因)もなく、この因果の世界に対して、
 いきなり手を差し出すとしたならば

 神は自分でこの世界を、どこまでも因果の世界に作っておきながら
 神自身がそのルールを破っていることになる。

 神は本当に因果のルールを破るのだろうか??

 神はこの世界のルールを破らないと推測できる理由がある。

 神が因果法則を破らない理由

   @神はどこまでも因果を重んじている
  
 A人間をこの世に遣わし人々を救済する


 今から約100年前にアインシュタインによって、相対性理論が発表された。
 その当時の科学者にとって、これは驚きであった。
 ニュートン力学と異なり、相対性理論は、多くの科学者に驚きを与えて登場した。
 物理学者は相対性理論をその通りに理解する。

 しかしこれを別の角度から見ればこう見える。
 ある事象(出来事)は、その観察者がどのような運動系に属していたとしても
 その人にとっては、またその人を観察する人にとっても、その出来事の因果は
 決して乱されることなく進む。ある人の出来事を、どのような観察系から眺めたと
 しても、その起こった現象の順序をひっくり返すことも、順番を入れ替えることも
 不可能である。ある事象(出来事)は、どの立場の観察者から眺めても必ず同じ
 因果の流れ通りに表現される。それは不変である。

 相対性理論が我々に強く教えるのは、
この世界は因果の順番を守らせる為
 ならば時間も空間も相対的に変化させるということだ。

 時間をゆっくりと進みさせ、空間でさえ伸び縮みさせてまで、この世界は
 因果の順番は守らせるのだ。

 この
世界が、そこまで守らせている因果のルールに対して
 神がおいそれと、途中からいきなり手を差し出すとは信じがたい。

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 ● どこまでも因果の世界と相対論、そして数学者

 起こっている現象をどの立場から眺めても、その因果が逆になることなど
 ありえない。この世界には無限に多くの因果の系が複雑に絡みあって次の
 事象を決定する。決定された因果の試みは、観察者がどこに移動しようが
 どんなスピードで移動しようが、決して変えることができない。
 起こってしまった原因と結果の連鎖の順番を変化させることは不可能である。

 相対論をイメージするときは、
ゴムボールを思い浮かべれば良い。
 そのゴムボールを握れば、ボールは変形する。その変形が、時間と空間の
 変形だと見ればよい。その時ゴムボールは確かに形を変化させるが、決して
 原子の並び順は変わっていない。 
 ゴムボールは、どれほど変形してもその原子の配置の順番は同じである。
 この配置が因果だと思えば良い。
 そうするとゴムボールをどのように握ろうが、空間、時間は変化するが、
 決して因果は変形しない。

   アインシュタインの相対性理論が出るだいぶ以前から、数学は、順序集合,
 写像、微分幾何、位相幾何とまるで、アインシュタインが出てくるのを待って
 いたかのように、その為の数学を準備していた。
 もちろん数学者の中には近々、相対性理論が登場するなどと考えている人など
 はいなかったが、それでも数学者達は、漠然とだがその重要性は感じていた。
 数学者達の脳の練磨は何かを感知していた。恐るべき数学者の執念である。
 トポロジーの創始者の1人である数学者のクラインは、図形が写像によって
 変化しない性質の種類を研究をした。まさにこの変化しないものを因果とおけば
 物理学者の相対論の研究に近づく。


  図形の写像によっても変化しない性質の探求は、トポロジー、位相幾何、
 微分幾何と関連する。アインシュタインが一般相対性理論を完成させる為に
 微分幾何を学んだという話は有名であり、それは必然であったとも言える。

 数学者は物理学者よりも先行する必要がある。 時代的な物理学者がいつ出て
 きても良いように、数学者は数学を発展させていく必要がある。


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● 神は人間を遣わす

 神が因果のルールに手を出さない2番目の理由こそもっとも説得力がある。
 それは実際に、釈尊、老子、イエス、空海といった偉人が実際にこの世界に
 現れたことである。これらの人々が実際にこの世界に生まれたことである。

 神がこの因果のルールを簡単に変化させられるならば、どうして神はこれらの
 人々をこの世界に使わすことなどあろうか!? 不要ではないか!

  神が仮に存在したとしても、神は、この世界に対して直接、手をかけること
 はしないことを示しているように見える。
 人間をこの地上に遣わし、人間を通して神の力が発動させるように見えるのだ。

 ただし上記の点は解釈に注意が必要である。
 というのも人間の一生が因果のルールによって繋がれ、神が因果のルールに
 手を出さないとしたと考えるならば、多かれ少なかれ、ある考えに頭が支配
 されることになるからだ。
 この点を中途半端に理解するとカルヴァン派が述べる
予定説となる。
 予定説の言いたいことはわかるが正しさ半分、間違い半分と言ったとこだ。

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● 絶対神と因果論の融合@

 ユダヤ的世界観が満ち満ちる世界に、どこまでも因果論が入ってくると
 どうなるだろうか?それが融合した場合に生まれるものは何であろうか?
 答えは
予定説となる。

   
宇宙創造の絶対神 + どこまでも因果論 ⇒ 予定説
   (=
ユダヤ的世界観

 予定説を信じる人々は以下の考えになる。

 この世界を作ったのは神である。
       

 なれどこの世界はどこまでも因果の世界である。
       

 それなのに現在、この世界に良くない出来事、心の悪い人々がいる。
(戦争も起これば、意地悪な者もいれば思いやり溢れる善良な者もいる)
       

 なぜなのだろうか? 神は最初の設計で間違いを犯したのか?
 神とて間違うものなのか?
       

 断じて否、断じて否!そうだ!神は既にこの世界を予定している。
 既に、救われるべき人と、見捨てられる人が決まっている。

 宇宙創造の神を信じる宗教信者の中で、真剣に筋道を立てられなければ
 納得できない人々の多くが、上記の絶対神と因果論の2つを融合する場合に
 予定説の流れに至ったというのも自然である。

 科学の発展(因果のルール)を否定せずに、宇宙創造の神の考えを矛盾なく
 取り入れるのは、この流れにならざる終えなかった面がある。

           動画           テキスト


*自分に対して嘘を就けない、論理的思考を愛する人々、つまりここでは予定説
  を信じる人々は、その後、資本主義の原動力となる資本主義的精神の雛形を
  もたらす人々になった。彼らの考え、行動様式が、その後の資本主義に
  結びつくとは彼らは知るはずもなかったし、まったく望んでいなかった。
  そしてそれが生まれたのも偶然の産物であった。
  この点については、マックス・ヴェーバーが詳細に述べている。



 ● 絶対神と因果論の融合A

 予定説が広まった16世紀というのは、中世ヨーロッパの暗黒時代を抜けて
 ルネサンス(14〜16世紀)が興り、科学的探究心が人々に芽生えた時代だ。
 ルネサンスの最盛期を体験した人々も多数存在した。

 中世ヨーロッパのユダヤ的世界観(宇宙創造の絶対神)の満ち満ちる世界に、
 科学の発展(因果のルール)が入り込んできた、まさにそんな時代であった。

 予定説の生みの親の
ジャン・カルヴァン(1509〜1564)の生まれた時代は
 まさにそんな時代であった。時代がカルヴァンを生んだのだ。

 ルネサンスの科学的探究心がその100年後の17世紀に繋がったのだ。
 ルネサンスの熱気は17世紀に近代科学として実を結んだのだ。
 万有引力を発見したロバート・フック、そのフックの考えを数式として完備して
 したのがニュートンである。
 ガリレオ・ガリレイ、ヨハネス・ケプラー、ロバート・フック、アイザック・ニュートン
 などキラ星のごとく、その名を残す科学者が生まれた
その背後で、宗教界
 にも
予定説という強烈な思想
が、宗教信者の心を捉え広がり始めていた。

           動画           テキスト


 * 別にニュートンの業績を否定しないが、万有引力の存在をニュートンは
  フックから知った。それをぬけぬけとニュートンはリンゴの木からリンゴが
  落ちて発見した、つまり自分が最初に発見した嘘話を言い、広めた。
  それにしても学者には、こういう態度を持つものが少なからずいる。
  結構いると言って良い。学者の悪い癖の1つである。



 
● 予定説と奇跡@

 予定説を信じる人々に徹底的に欠けているのは
奇跡の存在である。
 科学者はどこまでも因果を重んじる。
  だが優れた科学者は奇跡を信じないとでもいうのだろうか?
 断じて
である! 

 この世界の全ての因果の系を科学の力で全て把握することは困難である。
 しかし、科学の力は、未来には因果の法則の多くを突き止めることになる。
 表象の世界に繰り広げられる物質の作用について、科学的アプローチは
 どこまでも追求していく。
   しかしその表象の奥にある何物かについて科学が突き詰められることは
 決してないのだ。科学は表象上の物質のアプローチに留まるからだ。

 予定説を信じる人々は、この世界が、宇宙創造の絶対神と、どこまでも因果の
 世界以外には存在しないと考えている。そこには人間がまるで操り人形の
 ように生涯を終えるのだと考える。

  そうであれば、このような
予定説を信じる人達に問う!

 君達のイエス・キリストは、救われると信じていたからこの地上を生きたのか!
 まったく変えようのない世界に生まれたが、あらかじめ自分だけは救われること
 がわかっていたから、イエスは自ら命を投げ出したのか?
  イエスが人々に善を施したのも、愛を向けたその背後で、どうせこれらの人間
 は決して救われないとイエスは思って、慈悲を施したというのか!?

 断じて否!である。

          動画           テキスト


 ● 人間の運命と奇跡@

 
奇跡の可能性について一言述べておこう。
 確かにこの世界は、どこまでも因果の世界である。
  我々の一生も、人間の目では把握できないが、それでもその人の行動は
 何年後先までも因果になって繋がっている。
 確かに起こった現象はどこまでも必然であったといえる。
 だとするならば、運命は決まっているからといって努力をしないのであろうか?
 どうせ人間など、神によって既に選ばれていて、一生など決まっていていると
 いって自暴自棄になるのだろうか?
 
 この点について、ショーペンハウアーの偉大な言葉を述べておこう。
 『
多くの人々は、その人の存在は自明で変えがたいことだと思っている。
  そして、その人の行動は自由であると信じている。

  なれど真実は、その人の存在こそ自由である
  そして、その人の行動こそ因果によって縛られている。
 』

 我々の存在の奥に意志がある。意志は表象の世界の影響を受けない。
 意志においてこそ、時間と空間を越え出でる。
 我々はどこまでの因果の世界に生きている。 確かに表象の世界の上で
 行動する分には、常に時間と空間と因果性に縛られている。
 運命は確かに変えがたい。

 なれど我々が自己意識の奥の奥にある意志に近づくとき、確かに認識の光を
 失いはするが、意志に到達したその時には、時間と空間に影響されない真の
 自由を知ることになるのだ。

          
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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の超越的な世界
        稲穂黄金の科学の基礎
        稲穂黄金の未来の科学者へ


 ● 人間の運命と奇跡A

  キリスト教では、実際の行動、選択などの行動を人間の自由意志よって
 選択できるという。だが本来、そういう行動こそ、人間は因果の鎖によって
 縛られている。我々は何気なく選んでいるようでもそこにはそれを選択した
 原因が存在する。
  表象の世界で行動する我々は、空間・時間・因果性のルールが適用される。
 我々が自由に選択しているように見えても、そこには必然が伴う。
 キリスト教が述べるような自由意志などはない。


 運命を変えることなど用意ならざるものかも知れぬ。
 確かに
運命は変えがたい。
 我々が意図して変化させられるような何物ではないかも知れない。

 だが、運命すらを変える何かしらの奇跡の存在を否定することはない。
 人間の人生の上に奇跡がないなどと言うものではない。
 人間の存在がそのものが奇跡といえば奇跡といえる。

 人類史上最高の頭脳のショーペンハウアーが以下を語っている。
 『 我々が自己意識の奥の奥に行くときに、認識の光を失い辺りは
   闇に包まれる。 なれどそれが意志に到達するときに自由となる。
   意志は、時間と空間、さらには因果性を超越する。
   その意志に触れるとき、我々は表象の世界を越えて何物か触れる。
 』


 古今東西の偉大なる人々を見るのだ。
 釈尊、イエス・キリスト、孔子、老子、空海、最澄、法然、親鸞、日蓮、・・・
 これらの人々は運命が決まっているからといって、諦めただろうか?
 救いがたい人々をそのままにしておいたであろうか? 
 断じて否である!
 彼らは
真に強く!躍動的に!情熱的に!
 そう生きたのだ!

          動画           テキスト

* 意志の自由とは、キリスト教徒が述べるような人間が何かを自由に選択
  するなどという意味ではない。そうではなくショーペンハウアーが述べたとおり
  にその存在がそのまま自由なのである。

     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の釈尊
        稲穂黄金のイエス・キリスト
        稲穂黄金の老子
        稲穂黄金の空海



 
● 真の宗教家とは

  真の宗教家は以下の
2点を有する。

      @ 鮮やかな直覚的表象力
      
A 圧倒的愛念の発露


 @は優れた芸術家・神霊家と同等の認識力を意味する。
 Aは因果を越えるべく自己意識の奥へ愛の力で進むことを意味する。


 真の宗教家が有するその1つは、鮮やかな直覚的表象である。
 直覚的表象のもっとも鮮やかな者は天才であり、芸術家である。
 なれど
真の宗教家は天才というわけでは決してない。

 天才とはまさにその名のとおり、生まれながらの者である。
 生まれながらに鮮やかな直覚的表象に溢れている。

 天才が芸術と出会えば水を得た魚のごとく飛翔する。
 天才はその額に天才の刻印をもつ。

 なれど、偉大な宗教家は、反対に平凡に見える人から生まれる。
 もちろん偉大な宗教家といえど、天才とは比べれば直覚的表象能力は弱い。
 なれど、普通の人達に比べればまったく異なる。
 鮮やかな直覚的表象能力を宿してはいる。

 普通の人が、宗教家の天命を授けられ、その道を貫くとき天才を超える。
 その瞬間において真の宗教家は天才と越える。
 また真の宗教家は、また神霊家でもある。

          
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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来の天才へ

        稲穂黄金の未来の神霊家へ


 ● 天才と宗教家の認識力

  大衆    意志   →  認識の全て

 通常の人々の認識は、ほとんどが意志の命令に従っている。
 しかし、天才の認識力となると、従う以上の余力が残っている。


  
天才
 ------------------------------------
       意志   →  認識の1部
                    +
                 余った認識力  
                    ↓  
      意志に拘束されない客観的に見る認識力


 その認識が意志とは別に自由に動き、真に客観的な目となり、この世界を見る。
 意志にとらわれることのない認識が、この世界の外部にある何ものかに触れる。

 天才の認識の同じ状態が、真の宗教家の上にも起こり得る。
 天才はこの認識状態を長く維持する者だが、宗教家はその維持はできない。
 何度もいうが真の宗教家は別に天才ではない。
 ある瞬間において天才の認識に至るのが、宗教家である。

 真の宗教家が、神を求めて求めて学び続けた学問の積み重ねと、人々の幸せ
 を真に願い、神に真に接する日々、自我の存在を完全に忘れて、客観的な
 状況に至ったときに、天才の認識に似た状態が結果的に生み出される。
 天才が認識する時の状況と同じ状況が作られ同様の効果が発揮される。

   
真の宗教家
  ----------------------------------------------
           愛(=慈悲)  +  知性(学問の知)
               ↓            ↓
             知性が意志から離れ客観的に見る


  宗教家は、天才のもつ完全なる知性の客観化を、その愛なる思い、自分の
 存在を真に忘れて、他人を思い、神を行ずる行動が積もりに積もって、それに
 よって己を存在を真に客観化することで、自分の知を客観化させるのである。
 圧倒的な学問の積み重ねと愛なる思い、行動が宗教家を生まれながらの天才
 のレベルに押し上げる。この状態に至り、真の宗教家は天才と同等となる。

          
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 * 上記で述べているのはあくまでも真の宗教家のレベルの話である。
   歴史上に現れた偉大な宗教家のレベルの話であって、巷に溢れる新興宗教
   の教祖程度で、どうこうなるレベルの話ではない。


     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来の神霊家へ



 ● 圧倒的な愛念の発露

 圧倒的な認識力はなるほど天才の内に宿る。
 認識力の最上レベルは天才であり、真の哲学者であり、真の芸術家である。
 真の神霊家の認識力圧倒的である。
 哲学者、芸術家、神霊家は認識では最高レベルの力をもつ。

 圧倒的な知性は哲学者には誰も適わない。
 なれど神へと通じ、神を動かしてこの世に奇跡を生み出す力となると
 それは宗教家の力であり、宗教家には適わない。

 人類史上最高の天才ショーペンハウアーが以下を述べた。
『 我々が自己意識の奥の奥に行くときに、認識の光を失い辺りは
  闇に包まれる。 なれどそれが意志に到達するときに自由となる。
  意志は、時間と空間、さらには因果性を超越する。
  その意志に触れるとき、我々は表象の世界を越えて何物か触れる。
 』

 表象を越えたとき、時間・空間・因果律のルールに縛られない何物か通じる。

 この力こそ宗教家が利用する力である。
 圧倒的な学問の積み重ね、清涼の気を保ち、透き通る程の知性を有するが
 愛で満たされ、最後は愛で締めくくる。
 宗教家は自分を忘れるほどに他を想い祈る。愛念を振り絞り、振り絞り、
 額が割れるほど、祈りに祈りを繰り返して、それでも愛の祈りを貫き、
 想いが魂の叫びとなる時に、その人は、自己意識の奥の奥へ入り込み、
 そこを突き抜けて、その祈りが何らかの力に変わるのだ。 
 その時に神も動く。そう思わずにはいられないことがこの世界には確かにある。

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  ● 真の宗教家の認識と奇跡の法

 前に述べてきたように真の宗教家には、2つの力をもつ。
 
圧倒的な認識力奇跡の法である。

 圧倒的な認識力だけを持つ者には神霊家がいる。
 だが神霊家が世に広がる力を有した場合、それは宗教家となる。
 その為には愛が必要である。

 自我を離れた完全な客観化は、天才の純客観的な認識を生み出し、通常の
 人々が知れる知性の範囲を遥かに越え出でて、我々の世界の外部に存在
 する何ものかに触れる。その時点では神霊家も到達する。
  また芸術家もこの世界を垣間見ている。

 なれど宗教家はさらに以下の力を得る。
 その外部の何物かを動かすことをするのだ。

 宗教家は愛の祈り、自我を離れ、人の為に何日間、何週間も祈りに祈り、
 自己意識の奥の奥に入りこみ、認識は止み、辺りは暗闇が訪れる中で、
 今度は意志に近づき、その外部の何物に働きかけるのだ。

 この時、
真の宗教家は天才をも越えるのだ。

 圧倒的な認識力と意志の隠された力(時間と空間、さらに因果律を超越する)の
 
つの力が出揃った時、まるで火花が飛び散ったかのように
 奇跡の力
神の力が発動する。

 上記について、もちろん論理的に確認するすべなど決して存在しない。
  神の存在は、我々のア・プリオリの認識の内には決して存在しない。
 また、実験で自然現象を確認するア・ポステリオリの中にも発見できない。

 だからこそ
神の奇跡は、全て証となる。
 証とならざる得ない。同じ奇跡は2度と起きないかも知れない。
 1度はおきた奇跡こそ神の業であり、奇跡なのである。

          
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● 21世紀の宗教

 21世紀の宗教の大きな仕事は

   @記憶媒体の発達と普及(デジタル情報とIT)
   A資本主義の衰退と宗教
   Bユダヤの教えの揺らぎと宗教


 まず21世紀の宗教でもっとも影響を及ぼすものは、情報化社会が到来し記憶
 媒体の発達した点である。

 イエス・キリストが生まれた時代に既にDVD,ハードディスクのメディア媒体が
 存在していたならば、現在の我々が2000年前のイエス・キリストの話し方、
 仕草を垣間見たならば、現在の我々が思っているイエス・キリストとはまったく
 違った印象をもつことなるだろう。
   優しい目をしたイエスが、時に怒りもし、笑いもし、時にギャグも言うのを
 知ったならば、それを直にビデオで見れたならば、イエスが我々と変わらぬ同じ
 人間であったことも理解するだろう。
  その時に、イエスが神ではないといって彼から離れるのだろうか?
 否だ! 
 ますますイエスに人間的魅力を感じて多くの人がその元に集まるだろう。
 21世紀以後に生まれた宗教家は、その姿がありのままにビデオに、DVDに
 記録されて後世に伝わる。500年後の人々から見れば、500年前にこの地上に
 いた人々、それも優れた宗教家のありのままを見れば、まさに人間の進むべき
 方向が分かる。
  21世紀の宗教は記憶媒体によってパラダイムが大きく変わったのだ。


 大本(教)のホームページに出口王仁三郎の生前を移したビデオファイルが
 が乗っていたが、いかにも王仁三郎らしい人間的な優しさ、ユニークさが
 見れる。余興的な振る舞いを見ると親近感が沸いてくる。
 これが、あの『霊界物語』を書いた出口王仁三郎かとさえ思えるほど
 無邪気に振舞っている。

          
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* 未来を予見する出口王仁三郎の事だから、記憶媒体がもつ意味を既に
   明治・大正時代に予見していたのだろう。
   王仁三郎はその当時としては珍しく、多くの肉声と映像を残している。
   21世紀以後の宗教家は、デジタルの記憶媒体に残すこととなる。
   それにより、後世の人々に真に教えを理解させることができる。



 ● 21世紀の宗教 情報化と布教力

  真の宗教家ならば、教えをいかに広めるかということにも心を砕くはずだ。
 宗教家は人を真の意味で救うことを願うからだ。
 人々を神なる者(上なる者)への近づけることを望むからだ。
 
 釈尊やイエス・キリストが布教のために各地を歩いたのもその為だ。
 一人でも多くの人々を救いたい。
 一人でも多くの人に伝えたいという思いがあるのは当然といえば当然である。 
  
 情報伝達の有力な武器である現代のインターネットを利用しない手はない。
 
インターネットによる布教は21世紀には欠かせない。
 世界中に瞬時に情報を伝える力を持つ。
 伝達手段の圧倒的な進歩。真の宗教家であるならば、その情報手段を
 をいかに利用し、広めるかということを探求することもヤブサカではないはずだ。

 宗教が真に意義があるものならば、信者がその教えを述べ伝えるだろう。
 その教えが真理かどうかはさておいて、それが真の教え(真理)だと信じて
 いるのなら、述べ伝えることを使命とまで感じるだろう。

 マスメディア・本・インターネット・口コミを利用して人々にその教えを述べ
 伝えようとするだろう。21世紀の現在はインターネット全盛時代である。
 どの宗教もますますうまくインターネットと付き合うことが必要な時代になる。


          動画           テキスト


 ● 21世紀の宗教 資本主義と宗教@

 21世紀後半から資本主義は衰退し、22世紀中に跡形もなくなる。
 この衰退の意味は、非常に大きい。資本主義を発展させてきた資本主義的
 精神がどこにも求められない状態が21世紀の後半には訪れる。

 その時、真に人間は耐えれるのか?
 誰もが金持ちの生活に耐えれるわけではない。誰もがモラトリアムの生活に
 耐えるわけではない。誰もが何者でもない状態に耐えられるわけではない。

 神を信じる、神を感じる、そういう状態から懸け離れた大多数の人々の存在、
 その倦怠と欲望と、その不安がうねりとなって時代を揺さぶる。
 その時になれば、確かに宗教家だけの力では抑えきれない。

 この仕事は社会学者、経済学者の力が必要となる。
 21世紀には特に優れた社会学者の登場が必要なのだ。
 圧倒的な学問に裏打ちされた鋭敏なる頭脳を21世紀は求める。
 マックス・ヴェーバーのような時代的探求者が複数人必要となるのだ。

          
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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の社会学者へ



 ● 21世紀の宗教 資本主義と宗教A

 21世紀中に資本主義が衰退したときに、我々に突きつけられるのは、
 古来から人類が問うてきて
伝統的価値観である。
  これはいつの時代も我々のすぐそばにいて顔を出す。
 何をする為に生きるのか?そもそも生きるとは何だ?


 21世紀後半に、人類は資本主義の衰退する中で、それと同時期に
 この問いに真剣に対峙せざる終えない。
 その時になって人間社会は動揺する。
 社会を平静に保つ為には優れた社会学者・経済学者・精神分析学者の存在が
 必要である。
必要になる未来が確かにある。

 なれど、人々の中心には宗教家がいつもいる。
 根本はいつでも、この世界に人間は何をしに生まれてきたか?
 何を行う為に生まれてきたか? どうやっていきるべきか?
 その疑問に対する問いなのだ。
 資本主義と宗教。21世紀の重要なキーワードの1つである。

          
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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の社会学者へ
        『 稲穂黄金の未来の経済学者へ
        『 稲穂黄金の未来世界2
       『 稲穂黄金の未来世界3



 ● 22世紀の宗教

 22世紀の宗教の大きな仕事は

   @宗教と科学の分離
   A超越的な世界への憧憬と神の誕生
   Bユダヤの教えとユダヤ人との分離


 21世紀から22世紀にかけての科学の発達により、この世界をどこまでも
 因果の世界であることを明らかにする。
  神の存在は論理的説明では決して証明できないことを述べた天才カント。
 18世紀にカントが述べてから22世紀で400年の年月が流れて、その時代に
 なって、真にこの意味が世界中の宗教信者の頭に入り込んだ。
 22世紀の宗教信者の多くがその意味を理解するようになる時代が来たのだ。
 その時に至り、宗教は真に科学から分離する。

 21世紀の後半以降から、圧倒的な科学の進歩により、中途半端な宗教は
 もたなくなる。
中途半端というのは宗教団体の規模や信者数や規模などのこと
 ではない。その宗教の教義だけでもない。
 その宗教の真の存在意義が問われる時代になるのだ。



          
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 ● 22世紀の宗教  超越的世界へのアプローチ


 21世紀後半の科学の進歩し、科学と宗教の区別がはっきりしてくる。
 科学は、信仰の部分については何も言わなくなる。
  科学はあくまでも認識の根拠律(4つの根)に従って進歩していく。
 そのアプローチを持って、科学の範囲内と超越的なものとの境界線を探る。

 宗教は科学では扱えない領域こそを扱うものだと真に理解される。
 宗教が、真に神を感じ、神によって動かされるのならば科学の根拠律
 を越えた超越的な世界のことに対して真に探求し、それを人々に
 話すことになる。


 また、歴史学、社会学の研究も盛んになり、どうして人間は宗教を必要と
 するのか?またそのような宗教的な解釈を人類が求めたのは何故であったか
 が盛んに研究されるようになる。
 宗教が成立した背景、裏側もわかるようになる。


 そして真の宗教、真に超越的な世界までも垣間見て、その世界への働きかけ
 をしている宗教が真に理解される時代である。
  22世紀の人々は、
超越的な世界への憧憬が増している。

19世紀に哲学者ニーチェは神は死んだと述べた。
19世紀は資本主義がうねりとなって世界中に広がった時代であった。

 それから300年後の22世紀において
神は復活するのだ。
 この22世紀は資本主義が完全に収束する時代となる。

 資本主義の収束に反比例するかのように神なるものを人々は求める。
 その時、22世紀において神は再び、誕生するのだ。

          
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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の社会学者へ



 ● 22世紀の宗教  ユダヤの教えとユダヤ人との分離

  22世紀の宗教は、特に一神教のキリスト教においてユダヤ的世界観から
 決別することになる。特にこの点はユダヤ人にとっても大きな出来事となる。

 ユダヤ人こそ、その根はもっとも誠実であった。
 ユダヤ人こそもっとも信仰心あふれる人達もいなかった。
 ユダヤ人こそ霊的に優れた民族もなかった。
 世界の誰がユダヤ人が誠実でない!などと言うだろうか?
 世界の誰がユダヤ人には信仰心がない!などと言うだろうか?
 世界の誰がユダヤ人には真剣さが足りない!などと言うだろうか?
 決して誰もそんなことは言わない!

 この2000年間、ユダヤ人とユダヤの教えは共にあった。
 その
ユダヤ人の元からユダヤの教えが離れていくのが22世紀。
 これは世界史的な大事件であるが、その影響は宗教範囲に留まらず
 人間社会にも大きな影響を与えずにはいられない。
  この点の詳細については以下のサイトを参照してほしい。

          
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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        稲穂黄金の未来のユダヤへ
        稲穂黄金のユダヤと日本
   
    
 稲穂黄金の未来の社会学者へ

        稲穂黄金の未来の神霊家へ


 ● 23世紀の宗教  求道と愛

  21〜22世紀の宗教の変革を通して、人々は真に宗教を知ることになった。
  23世紀となると宗教は各自の重要な日課となっている。
   別に何を信じようが自由の世界である。どの神を信仰してもそれは多くの
  人々が真に許容する時代となっている。
  21世紀の現代、信仰の自由といっても、いずれの宗教指導者も宗教信者も
  自分の属する宗教こそが本物など信じている。

  しかし23世紀になると、そういう考えはほとんどなくなるのだ。
  確かに各自、信じる神の名は異なる。なれど誰もがそれでいいと思っている。

  それほどまでに23世紀になれば宗教の対極に存在する科学が発展し
  信仰と科学の区別をするようになるからだ。

  科学がどれほど進んだとしても宗教の本質は変わらない。
  科学の進歩も人類の偉大な挑戦の1つではあるが、宗教こそ各人1人1人の
  偉大な挑戦である。宗教の意義は、人間の生きる意義である。
  23世紀宗教もその本質は現代の宗教とは変わらない。


          
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● その名は宗教家@

 紀元前の宗教と現代の宗教も、その様相が異なるように現在の宗教も遠い未来
 には、その姿を変化させる。
 21世紀からの数百年、宗教のあり方も急速に変化する。

 だがそれでも変わらない部分もある。特に核心部分はまったく揺らがない。
 いつの時代もそれは、宗教だけが担ってきた部分である。

     我々は何の為に生きているのか!?
     どう生きるべきなのか!?
     何をなす為に生まれているのか!?


 
この世界でもっとも大事なものは知性ではない。
 学問は必要だが学問だけで充分ではない。
 知性などは自然が生まれた後にだいぶ時を経て生まれた。
 知性が増しても人の目は不安を抱えたままであるが、自然に近づけばその目
 に力強さがが生まれる。輝きを増すのだ。

 哲学者は知を求め、知において締めくくる。
 それは哲学者には許される。

 なれど宗教家には許されない。
 宗教家は知性に優れていても、知性に重点を置くのではない。
 愛に重きを置くものであるのだ。
愛で締めくくるのが真の宗教家である。

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● その名は宗教家A

 求道に傾けば、愛が疎かになりやすい。
 知を強く求めすぎると、愛を壊しかねない。
 それほどまでに
求道も命懸けの道である。 
 だが、どれ程の知恵を授かろうが宗教家は最後は愛で締めくくる必要がある。

 これがどれ程難しいことであるのかは、古今東西の偉人・賢人は皆、共通に
 理解している。どんな人間においても難しいことなとのだと認識している。

  多くの者が、永遠性を求める心が芽生えたとき、それは知性にも波及して
 多くを学ぶことになる。だがこの世界の現実は、その最初の一歩さえ揺さぶる。
 それらの学問を学び、芸術を学ぶ人々が苦悩する問題に対して、ある程度まで
 は知性で答えることが可能であるが、さらにその上空に登っていけば
 いくほど、知性では不可能となる。その時は、愛の出番となる。

          
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● 未来の宗教家へ

 人間がこの大地に生きる意味を、宗教家は語ることが必要である。
 ごまかしなどまったく聞かない。どの学問の分野においても真剣勝負はできる。
 なれど宗教家以上に、真剣勝負が必要な場所はない。

 この道は、安らかに死ぬことなど適わぬかも知れぬ。
 易き道では決してなく、多くの困難が訪れるかも知れぬ。
 自分のやりたいことなど何も実現できずに、途中で死ぬかも知れぬ。

 真の宗教家の道とは、そういうものかも知れぬ。

 なれど真の宗教家こそ、この地上に生きた真の勇者である。
 
真の宗教家の人生こそ、この大地に人間が生きた証である。

 飢餓・嫉妬の心に支配され救いがたい人々の心に温かき慈悲の炎を灯し、
 圧倒的な知性の光で、衆生に生きる意義・進むべき道を照らす者、
 その名は宗教家。 宗教家の他には存在しない。

 知性の奥に情熱の炎を燃えたぎらせ、魂を発動させ、愛の真心を絶やさずに
 この大地にうごめき苦しむ衆生を救うのだ。そして真に導くのだ!
 
未来の若き宗教家よ。開眼せよ!

          
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