世界と自然  この世界は表象の世界と意志との対立である
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『国を少しだけ思う日本の男達へ!  by 稲穂黄金』
今後の21世紀エネルギー問題を契機に色々な摩擦がでてくるでしょう。その時に日本国民は日本の国益を真剣に考える時がくる。
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世界と自然
我々は自然の子供である。と同時にこの諸行無常の世界に生きている。
自然がこの世界に対処したように、我々もまたこの世界に対処する必要がある。
古代の人々が自然から離れなかったのはそれゆえなのである。


 ● 世界と自然@

 この世には
世界自然が存在する。

 自然とは、生きんとする意志そのものとさえ言える。
 世界とは、表象の世界である。
 だからこの世界とは、
意志表象の世界といってもよい。

 この
つは時に対立し、時に歩調を合わせる。
 歩調を合わせる時は、決まってこの世界のルールに合わせて自然が対処する。

 
自然は対処する。自然はこの世界に対処する。
 2500年以上前に、天才釈尊が述べたとおり、この世界は諸行無常である。
 あらゆるものが変転し、変わり続ける。

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 ● 世界と自然A


 この世界で起こりえた出来事には、必ず原因があり、そして結果がある。
 この世界は、どこまでも因果の世界である。
 結果の前には必ず原因がある。
 この世のものは変化を続ける。

 それゆえ我々人類は永遠なるものに憧れた。
 それらの変化に一切、影響されずに有り続ける永遠なるものに憧れた。
 優れた芸術家はそれを捉え、それらを表現する芸術の技を磨く。
 優れた芸術家はそれらの形象の世界を見ようとする。
 様々な現象の奥に、その物の本来の形を捉えようとする。
 それこそが形象であり、
イデアである。
 芸術家は、プラトンの言うイデアの世界を見る。

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● 自然の上で生きる者達

 我々人類は、動物同様に自然の懐により生まれた。
 我々人類は、自然の子であり我々は自然を母とする。
 自然は、この大地に生きとし生けるもの全てを生んだ。
 我々は自然の上で生まれ、自然の上で生き、いずれ自然の懐に戻る。

 自然の上で生きる植物、昆虫、動物、人間。
 植物にある性質を昆虫も動物も人間も含む。
 
昆虫は、植物に親近性をもつ。
 植物の葉が光に向かって進むように、また昆虫も光に吸い込まれていく。
 火の中にさえ進んで死んでしまう。火の誘惑が抗し難いのである。

 動物も人間も眠れば植物と同様である。
 人間も動物に親近性をもつ。食べて動いて寝てを同じように繰り返す。
 考えることも苦手な人間も実に多くいる。
 考えることなどせずに、過ごせればと考える人々もたくさんいるのだ。

 植物と動物の大きな違いは、自然は動物に目を与えたことである。
 植物は、我々人類が寝ているようにまどろむだけである。
 何かの刺激には確かに反応するが、みずから行動することはできない。

 なれど動物とはまさに運動ができるのである。
 その頭の中の小さな柔らかい塊である脳が、この世界を見事に描く。
 表象の世界を描いている。
 その表象により、この世界の中で行動でき、餌にありつける。
 この脳の存在において、我々は自然と世界との関連に我々は気付く。

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● 表象の世界、そして自然@

 この表象の世界に上がるものは全て、その表象の世界のルールに従う。
 自然とて例外ではない。

 自然にはある欲求がある。その姿を展示しようとする。
 なれど、それはあくまでもこの世界のルールに従ってである。

 自然は、飽きることなく弛みなくその作品を作り続ける。
 
自然は大芸術家である
 一流の彫刻家が、重力による重心を考慮しながら、直感的に芸術作品を
 作り上げるように、遥かにそれ以上に見事にあらゆるものを創作する。

                              
雑誌『Newton(ニュートン)』より
  
    
     
自然決して弛まず、飽きずに幾度も完璧に作り上げる。
      自然
大芸術家である。

 どれ程、優れた芸術家の作品であったとしても、自然の創作物の前では
 ガラクタでしかない。それだけの差がある。

 自然は、その生き物に必要なものを与えて、余計なものは与えなかった。
 自然は節約家である。
 あの天才ゲーテは、カタツムリを見て驚嘆していた。
 なんと見事で理に適っている生き物だと。
 自然のあらゆる生き物がその場に適い、そうして無駄がない。

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       (*) 詳細は以下のサイトを参照。
  
      『 稲穂黄金の世界と自然と人間と
        『 稲穂黄金の未来の芸術家


 
● 表象の世界、そして自然A

 自然は、この世界のルールを誰よりも把握し、そのルールに逆らわずに
 自然が
展開したい姿を展開する

 自然は、この世界に対処をする。
 植物も、微生物、昆虫、動物、人間とあらゆる物を何度も蘇らせて、その生き物
 がもっとも力強く、隆盛を誇る姿を展開しようとする。

 この世界が諸行無常、千変万化であるからこそ、自然は生命の命を育み、
 子が育ち、役目を終えた親は死んで土に返る。
 再びその子が親となり、子を生み育て、再び新たな親はまた死を迎える。

 この世界が
諸行無常、千変万化であるからこそ、自然の上の生き物は
 新たに生まれ、子を生み、子を育て、そして死ぬ。
 そうやって自然の上の舞台では、演じるものは常に入れ替わっていくが、
 そのあらうとする姿は、いつでも同じあることを求めている。

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● 目が開いた

 自然の対処は、それだけに留まらない。 
 遥か昔に、自然はこの世界で生きる者達に目を与えた。
 目を与えらた生物は、それを頼りにこの表象の世界をゆっくりと歩き始めた。
 この世界を表象し、その上で行動する。

 昆虫も、動物も目を与えられることによって、この世界を自由に行動することが
 可能となった。
 脳の表象上に動物は、直覚的表象を正確に描くからこそ、この世界をつまづく
 ことなく進むことができる。
 確かに、彼らの直覚的表象は鈍く、白黒のものもいるかも知れない。
 なれど、その多くは大地を駆け回れるほどに充分に備わっている。

 この世界に対処する為に、自然はわが子に目を与えた。
 この地上で一番最初に目を開いたというのは、それだけ重要な意味がある。

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● 自然と世界の対立

 この世には自然と世界の2つがある。
 これを異なる言葉でいえば、意志と表象の世界である。
 宗教的に述べれば
神の教え仏の教えの2つに分かれる。

      
自然    ⇔   世界
  ----------------------------
      
意志    ⇔   表象
     
神の教え  ⇔   仏の教え
  ----------------------------
     (神道)         (仏教)
 
 我々は、自然から生まれし子供である。
 自然は我々の母であり、その母は時に容赦がない。

 そんな自然から生まれた我々の頭の中に表象の世界が浮かび上がった。
 我々の脳は、表象の世界を描いている。
 我々はそれにより世界を知り、世界を見てその中で縦横無尽に行動する。
 あらゆる動物は、その表象の中で自由に動く。
 それゆえ動く物と書いて動物という。

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● 意志と表象の世界@

 我々が生きるこの世界とは、意志と表象の世界が織り成す世界なのである。
 その意志が段階によって様々な形でこの世界に姿を現す。

 意志が
可視化したものが物質である。
 意志がみえない力として出てきたのが自然の諸力(=
自然力)である。
 自然の奥に存在する意志もそうであるし、我々1人1人の意志もそうである。
 これらは確かに様々な形となって、この世界で表現されるが、それらは奥では
 1つにつながっている。

 我々が生きる世界とは、まさにその意志と表象の世界が織り成している。
 あらゆるものの奥に意志が存在する。
 その意志の代表的存在とさえ言える自然。
 
 この地上に生まれしあらゆる生き物は、自然が生みし子供である。
 そうやって生み育てられた子供の中から、目を宿す生き物が登場した。

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● 意志と表象の世界A

 その目を宿す生き物の頭の中に存在する、小さいなゼリー状のもの(=

 がこの世界を見事に描く。表象の世界を描くのだ。
 この驚嘆すべき脳が、すべてを描きを、そして共通の世界を見させる。

 あの動物もこの動物も、あの人間もこの人間もそこに共通の表象の世界を描く。
 私の眼前で起こった出来事は、またそこに立っているあなたの目の前でも
 起こる出来事である。出来事を1つももれ堕ちることなく表象するのである。

 あなたの目の前で大地が崩れ去れば、あなたが驚くように、傍らにいる動物も
 同様に驚くのである。我々の眼前に広がる表象の世界。

 我々が生きている世界とはまさに、意志と表象の世界との対立であり、
 されにいえば、意志の代表の自然と、この世界との対立であり調和である。
 自然は、この世界に対してうまく対処している。

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● 己自身で生まれてきた自然

 自然とは何かしらによって生み出されたものではない。
 何かしらに創造されて生み出されたものでは決してないのだ。

 その名が示すとおり、
(みずから)(ぜん)とするだ。

 自然とは己自身で生まれてきたのだ。
 反対に、自然がこの大地の全てを創作したのである。
 それも無邪気に創作したのである。
     
     
     自然は誰かの創造物ではない
     自然はただあるのみだ。自(みずから)然(ぜんと)とした。

 
西洋においては自然に対する認識は誤信に満ちている。
 自然が絶対者より生まれたと考える者たちが多数存在するのだ。
 そんな西洋においても、自然の深遠さに気付き始めた者達もいる。

 近代に至り、ようやく西洋ででも優れた科学者が自然の深遠さを認め始めた。
 それにより現代の西洋社会にも、その考えが広がりつつある。
 自然が知性の形式で完全に理解できないと表明する優れた科学者には
 ハイゼンベルグ、ニールス・ボーア、シュレーディンガーなどがいる。
 一流の科学者であれば、自然の深遠さの理解しがたさを認識しているものだ。

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 ● 自然とは

 確かに自然は、我々を殺さない。我々の命を奪ったりはしない。
 だが
自然は無慈悲である。
 自然はその営みに全てを委ねて、その中で生きる生命の歓喜や悲しみ、また
 生や死のひきこもごもについて決して、救いの手など差し伸べない。
 自然は傍観するのみだ。

  自然は、種を保つことには慎重に慎重を重ねる。
  だが自然は簡単に個体(個々の生命)を見殺しにする。
  自然は
たくさんの個体を生み出すことに何の苦労もない
  時に、雑種すら生み出すほどに、その力は旺盛であり、決して衰えない。

 再度いう。
自然は大芸術家である。
 自然は、どんな小さな生き物、細かい器官までも決して手をぬかずに詳細に
 精巧に作り上げる。多数の作品を苦も無く、幾万と生み出す。
 なれど、その作り上げた幾万の精巧な芸術品が壊れていく様に感心がない。
 多数の個体が朽ちていくことに対して、見抜きもしない。

 自然は植物・動物・人間をその懐に抱く。 
 自然の意志から若干、分離した知性を有する人間。
 その人間の目には常に、不安の影が浮かぶ。

 知性が自然の意志に完全に組み込まれている動物。
 その動物の目は常に自信と安心に満ちている。
 彼らは大地に根ざしているのだ。

 人間は寝ているときは、
植物である。
 人間は寝ぼけて歩き回る時、寝起きにおぼろげに行動する時、
動物である。
 人間は、起きてからある一定の時間を経て、完全に目が覚めて
人間となる。

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 ● 自然の声

 自然は、各個体については気にも留めない。
 それらが傷つこうが、死のうがまったく気にしない。
 確かに自然はどこまでも無慈悲である。

 なれど種全体が、滅んでしまわぬように、自然は最新の注意を払った。
 ある個体が滅ぼうとも、他のある個体が命の輝きを見せるならば、自然はそれで
 満足する。自然は、そうやってたくさんの生き物をこの地上で育んできた。

 
昆虫も動物も本来、個別の名前などはない
 ライオンはライオンであろうとし、カマキリはカマキリである。
 そうやって、精一杯、そのものであろう生きて、生涯を終える。

 我々に人間には確かに名前がある。
 人間の問題は、無名な人間として終えれないことにもある。
 誰もが名を欲する。

 ただの人間として満足している者達はいるのだろうか?
 いる! それは
子供達である。
 子供は名を欲しはしない。今、ただいまを懸命に生きる。

 もちろん子供は危なっかしい。それを大人は重々わかっている。
 痛い目にもあっている。だからこそ早く大人になれという。
 子供達だけではこの欠乏の大地をうまく生きていけない。
 自然は、そういう世界を我々に提供しながら、自然は子供を愛する。

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● 人間の知性の形式

 人間は自然の上に生まれてきた。
 人間に備わる知性は、確かにこの自然の上で生きれる為に、ある程度は自然
 のあり方に沿って作れてはいる。
 なれど人間の知性では、自然を完全に理解することはできない。

 
人間の知性の形式に沿って自然があるわけではないからだ。
 このことを未来の物理学者、科学者は忘れてはいけない。

 人間が自然を理解できた!と思った瞬間から、新たな疑問が自然から人間へ
 提出されることがたびたび起こる。
 未来において、科学は自然の上に現れるものに対しては、どこまでも詳細に
 把握するようになるだろう。
 なれど、自然そのものはまるで理解できない。

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● 近代における人々の自然観の変化@

 キリスト教圏である西洋社会において、その世界観はユダヤ的世界観の影響
 を強く受けている。
  絶対者によってこの世界は創造され、その絶対者の贈り物がこの地上であり、
 よってこの地上は楽園であり、さらにこの地上に対する説明書が聖書であり、
 その聖書によってこの世界は説明がつくという楽観論が大勢を占めている。

 ユダヤ的世界観を掲げるキリスト教では自然の奥に人間が感知しえないものが
 あることを認めることができなかった。
 なにせ、聖書は、この世界を創造した絶対者からの贈り物なのだから、聖書で
 説明がつかないことがあるなどとは認めることができなかったのだ。

 ユダヤにとっては絶対神こそが全てであり、それだけが人間が理解できない
 何者かである。自然の奥に人間ではわからない存在があることを認めることは、
 唯一無二の絶対神を否定することになってしまう。

 絶対神によって、この世界のすべてを説明するという聖書。
 ユダヤ的世界観に囚われた者達は、頑なに主張する。
 聖書によって説明できないものはない!と。

 自然の奥に深遠さを認めることは、その絶対者の意図を否定することになる。
『キリスト教は人智で把握できない霊的作用に対して潜在的な恐れをもつ 』
 と心理学者ユングが言っているのはこのことである。

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 ● 近代における人々の自然観の変化A

 なれど、自然は深遠さを我々、人類に見せる。
 既に500年以上前から、聖書の簡易な世界観、自然観では、この世界に
 ついて何かをいうことなどはできなくなっていた。
 
 西洋社会において、優れた探究者は真理を求め始めた。
 この世界は、聖書が語っていた画一的な世界観とはまったく異なっていることに
 多くの者達が気付き始めた。

 なれど当時のキリスト教の指導者層はそれらの者達を決して許さなかった。
 真理を追い求める探究者を次々と弾圧した。時に命を奪った。

 
ガリレオ・ガリレイは異端尋問にかけられ、それ以後、教会の監視下に
 置かれ、生涯、自由に行動する事が制限された。
 16世紀を代表する知性
ジョルダーノ・ブルーノは火刑により殺された。
 同じく
バニーニは舌を抜かれた上で火刑により殺された。
 迷妄と無知な者達に権力を渡せば、どういうことが起こるかの一番の参考例。
 迷妄と愚鈍な者達は、絶対者の印籠を掲げて、残虐へと変化した。

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 ● 科学と宗教

 近代科学は、宗教の圧力に、屈しなくなった。
 科学がその成果を十二分に社会に還元するに至って、科学が宗教よりも
 信頼を得ることになった。
 ここに、宗教は信仰であり、だからこそ宗教は、信仰の範囲に留まるべきで
 あることを科学が知らしめた。
 近代の科学はさらに進み、自然の深遠さを人々に知らしめることになった。

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       (*) 詳細は以下のサイトを参照。
  
      『 稲穂黄金の未来の科学者へ
        『 稲穂黄金の未来の物理学者へ


 
● 科学者の自然観の変化

 科学者の自然に対する態度は、この100年で大きく変化した。
 100年前に量子世界に突入した科学。

 ここで科学者は思い知った。
 人間の知性で語れることは、この世界の一部に過ぎないことを。
 機械論的な説明では理解できないことが多々あることに気付き始めた。

 自然の姿を追えば追うほど、人間の知性では、掴みがたいことがあることが
 科学者は、まざまざと思い知らされた。

 人間の直覚的表象は自然の姿を捉えるが、それがいったん抽象的な表象の
 舞台に移れば、多くの不可能性が生まれ、古典力学では表現できないように
 なったように、今後も自然は、我々に驚きを与え続けるだろう。

 我々、人間の知性の形式は、この自然の上で生きる為にある程度、自然に
 沿って作られはしたが、だからといって自然がすべて理解できるわけではない。
 人間の知性の形式に沿って自然があるわけではないからだ。
 
 量子力学を切り開いたニールス・ボーアは自然についてこう述べた。
 『 自然がいかにあるかを見出す事を物理学の任務だと考える事は
  誤りである。物理学は我々が自然について何を言うことができるかに
  関するものである。

 この言葉を未来の科学者は忘れていけない。

    
                       
ニールス・ボーア

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● ありのままの姿を展開する自然@

 自然は、その姿であろうとする。

 この世界がどのように変化しようとも自然は、動じない。
 自然は、そうあろうとし続ける。
 自然は常に、堂々とその姿を展示する。

 自然の上に現れる生き物は、その表れの1つである。
 蝶々は、花畑でうれしそうに羽ばたく。鳥達は大空を舞う。

 彼らは、ここが天国であるのだといわんばかりに、高らかに歌い歓喜する。
 彼らは、過去を悔やむことなく、明日に煩わされることない。
 今を懸命に生きてる。その姿であろうとする。

 なれど、自然はまた残酷である。
 花畑で喜び飛び回っていた蝶々は、その刹那、カマキリに捕まる。
 大空を自由に飛びまわっていた鳥達は、鷹の爪により、その餌食になる。

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 ● ありのままの姿を展開する自然A

 なれど、自然の内に生きる子らも負けない!
 蝶々は、カマキリに捕まり餌となろうが、鳥が鷹につかまろうが、その直前
 まで懸命に、その姿を展示する。例え、その生涯は短くとも、自然の子らは、
 その命ある限りに己を展開する。まさに
命の輝きである。

 この世界が千変万化、諸行無常であろうとも昆虫も動物もまったく気にしない。
 その中で己を堂々と展示する。
 馬は馬のように、獅子は獅子のように振舞う。

 人類はその輝きを忘れたのか?
 自然からあまりにも離れすぎた為に忘れてしまったのか?
 古代人は、文明がどれほど発達しようと、彼らは常に自然の側にいた。

 古代ギリシャ人、古代ローマ人の着る服は、体の線を消さないように、一枚の
 布を体にまとうだけで、人間らしさを失わないようにした。
 彼らの描く彫刻は、人間の裸体である。人間そのものの美しさを愛した。

 なれど、古代人の叡智も芸術の技を有していない近代、現代の人々は、
 だいぶ自然から離れてしまった。
 どれだけ文明が発達しようがそれはそれで良い。
 なれど、自然から離れれば、それは人類がますます迷妄の彼方へと進むこと
 を意味する。

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● 自然は対処する@

 千変万化のこの世界。あらゆるものは変化し続ける世界。
 それらの変化、それ自体には特に意味はない。
 確かにこの世界は諸行無常の世界である。
 
 この世界において、自然は対処した。
 どうしたら、その命の輝きを保ち続けることができるのか?と。
 
 自然は、だからこそ、この世界で生きる子らに、
生と死を与えた。
 生と死を繰り返すことで、その姿を未来まで続けようとしたのだ。
 この世界の変転によって、傷つきたとえ滅びようとも、また新たな命が
 生まれることで未来に、つむいだのだ。
 死ぬからこそ生まれる。生まれるからこそ死ぬのである。
 それにより、その者は、命を永らえるのである。

 自然は、この事を隠さない。
 自然は、その種を保つ為に慎重に慎重を重ねるが、個々の個体の生と死には
 関心がないからである。

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 ● 自然は対処するA

 自然は、自然の子らに生と死を与えることで、この諸行無常の世に対処して
 永続する術を授けた。
 自然の子らは、この世界で生まれ、育ち、やがて自然の懐に抱かれる。
 そうして再び新たな子らを生み育てる。

 自然はそのように対処したことで、己の作品をこの世界で展示する。
 あの子も、この子も同じ自然の作品であり、子供である。

 自然が、個々の個体一体一体にに関心がない事を見れば、、我々は
 気付かざる終えない。自然にとって、生と死などは本質な事ではないと。
 個体の生死を越えて、そのものが
本来の姿がある事を望んでいると。

 犬には本来の犬の有り様があるように、人には本来の人の有り様がある。
 本来の姿を展示することこそが重要であり、また核心であると。
 自然は望む。
 個々の個体の生と死の狭間の中で、何度でも、それらがもっとも美しい姿を
 たえず、この世界で表現しようとしていることを。

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● 弛むことなく休むことなく

 自然は弛むことなく、休むことなく、その姿を展示する。
 そのものが、そのように有ることをもっとも望む自然。
 自然界で生きる人間以外の者達は、その本性を発揮しようと心掛ける。

 肉食動物は、草食動物の命について思うことはない。
 動物は死の間近まで、己の死について考えることはほとんどない。
 
 群れを守るためにライバルとの争いが起こり、勝ったものも負けたものの相手
 を思いやることなどはない。
 彼らにとって、そうある事こそが自然である。
 それゆえに彼らの目は安心に満ちている。
 自然は、弛むことなく休むことなく、その種が、そのようにあることを望む。

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 ● 苦悩する人間

 しかし人間は自然の懐にいることには耐えられなかった。
 人々を押しのけ、傷つけて何かを得たとしても人間は素直に喜べない。
 自分の欲求を素直に発揮して達成することは多くの苦悩を人間に呼び起こした。

 自然の要求に、人間は素直に従うことはできなかった。
 人間は他の動物よりも圧倒的な記憶力を得た。
 それゆえに過去と現在を比較できるように、それが学問の土台となった。
 動物は大学を持たないと言われるのも、動物はその記憶力が著しく弱いからだ。
 彼らは過去に起きた悲惨な出来事をほとんど覚えていない。
 
 それゆえ、動物は過去に煩わされる事もなく、未来に不安を抱くこともない。
 確かに彼らは、今に生きている。
 多くの人々が動物をペットとして飼うと、心が癒されるのも、動物が過去を
 悔やまず、明日に思い煩うことなく、今に、まさにこの今に生きている姿を見る
 からである。それゆえに、世界中の人々は動物を飼い、その動物によって
 心が癒されている。

 だが、人間は異なる。他の動物よりも並外れた記憶力を得たことにより、
 過去の思い出しては悔やみ、未来を想像しては不安を感じる。
 また現在の今においてさえ、過去との比較が容易に頭に浮かぶ、それらが
 様々な苦悩を引き起こす。

         動画           テキスト

       (*) 詳細は以下のサイトを参照。
  
      『 稲穂黄金の未来の人類へ


 
● 人間の苦悩と仏の誕生

 我々は、確かに現在の今に生きている。
 自然がいうとおりに欲求を全開にしてそれが達成されれば確かに至福の時も
 訪れよう。なれど同時に苦悩も訪れるものである。

 人間は時に現在に生きられない。悲惨な出来事が忘れられない事がある。
 悲しい出来事に心が支配されることもある。
 未来を思えば心配ごとで埋め尽くされることもある。
 素直に現在に生きたとしても、過去と比較してしまう時がある。
 
 自然がそうであろうとしていることに、人間には素直に従えなかった。
 従えば喜びと同時に苦悩を得たからである。
 そうあろうとすればするほど、人間の中から苦しみが生まれた。

 だからこそ
救いが求められた。人々はを求めたのだ。
 自然が弛むことなく休むことなく迫ってくるからこそ、仏が求められた。

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● 苦悩する人間

 いつの時代の人々も悩みながら進んできた。
 
人間とは、まさに苦悩することを定められた種であると言える。
 人間は苦悩することが宿命づけられていると言える。

 その欲求を適える為に、与えられた知能を全開にして行動するのが動物である。
 動物は己にどこまでも素直である。
 なれど人間は、その欲求に簡単に素直などはなれない。
 もちろん素直になった時代もある。
 そういう時代は決まって多くの血が流れた。

 各地に起こった数々の戦がそれを物語る。
 人間の欲求を全開にして、相手のものを奪うことに、与えられた知性を傾けた
 時代も何度もあった。

 だが冷静になれば、それによって失われたものの大きさに気付くのである。
 それらの欲望を全開にすることも、人間は欲してもいるのも事実である。
 それゆえ、独裁者は国民に魅力的であり、時に熱狂をもって迎えられる。

 素直に欲求が適ったときに喜びと、同時に苦悩ももつ事を宿命付けられた。
 人間はそれらの欲求を、時に押さえ時に前面に出しながら苦悩と共に
 歩んできた。

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● 自然と恋

 我々人類は、この自然の力強さと飽くなき欲求に、畏れ、時に苦しめられた。
 我々人類は、自然を畏れ敬った。
 
 
自然とは恋のようなものである。
 なるほど、恋することはなんとも心を幸せにする。
 同様に、自然にまどろむ事は人間に真の安らぎを与える。

 なれど、恋する事は
喜びであり、また苦しみである。
 恋は成就するだけではない、適わぬ恋もあれば、適っても苦しい恋もある。
 恋することは苦しい。
 『 愛するほどに憎い 』とはまさにそうである。

 恋は盲目であり、時にその人の理性を完全に凌駕する。
 会社経営を適確に行う地道な社長でさえ、1人の愛人の為に大金をつぎ込む
 事だってある。
 確かに恋には止め処もない力がある。意志が動き出しているからだ。

 あれ程好きだった人との恋に破れると、時にそれが憎しみに変わることがある。
 同様に自然もそのように見える。
 自然の上で暮らす生き物に、おいしい果物と風景を見せていたかと思うと
 天変地変を起こし、地震をより地面がさけ、火山が噴火し、干ばつが押し寄せて
 自然の上の生き物達は戸惑い逃げる。

 自然は急に機嫌をかえるのである。決まって、とばっちりを受けるのは
 その上で生きる者達である。
 恋心が勝手に湧き出てくるように、天変地変も急に起こっては急に収まる。
 自然とは勝手気ままな面をもつ。
 まさに大権を振りかざす幼い女王のごとくである。

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 ● 惧れと感謝@

 太古の昔から、人々は、その自然の力に畏れもしたし、憧れたもした。
 自然の奥に潜むその根源的な諸力に、太古の人々は惧れ、敬い、感謝した。

 生きんとする意志を全開に展示するする自然。
 何の躊躇もなく自然は展開する。
 自然の上に生きる生き物達も、生きんとする意志を全開にして、獲物を捕らえ、
 異性を手に入れて、子を作ることに精を出す。

 自然の上に生きる昆虫も動物もそれを、素直に展示する。
 植物を見るが良い。彼らは花をさかせ、匂いを発し、常に昆虫を誘惑する。
 移動する手段をもとない植物は、動く昆虫と動物を誘惑して、遠い大地にまで
 自分の種を届けようとする。

 天敵からは身を守り、獲物を捕らえることで、この大地にい続けられる動物達。
 なるほど彼らの記憶力は弱い。
 万一、記憶力が強ければ、彼らは自分達が属する世界に絶望して、たぶん
 死を選ぶことだろう。
 弱肉強食の自然界。あらゆる所に欠乏が溢れている。
 強き者だけが子孫を残せる。

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 ● 惧れと感謝A

 人間は若干、この大地から離れようとする。
 大地の上でしか生きられないことはわかるが、大地に近すぎると早くも
 苦悩が押し寄せてくるからだ。
 己の中の、生きんとする意志を肯定すればするほど、同時に内面から多くの
 苦しみが湧いてきた。弛むことなく休むことない自然。
 そのいきんとする意志を肯定する事は、喜びと同時に、苦しみも伴った。

 昆虫が炎の明るさに魅入られて、喜び火に近づいて、その欲望を果たすや
 いなや、熱さで体全体が苦痛を感じ、最終的には黒焦げなったようなものだ。

 特に人々が、あつまり街を作り、都市を形成すると、ますます互いの欲求が
 ぶつかりあい、苦しみは一段と増えた。
 文明の発展と人間との兼ね合いが必要となった。
 ここから
人類の歴史が始まった。

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● 人類の格闘

 人類は、動物よりも一段階だけ、はっきりと目覚める事ができた。
 だからこそ、気付かざる終えなかった。
 この世界の正体に。
 自然の上に生きる動物は、なるほど無邪気である。

 なれど人間は気付く。
 生きんとする意志を肯定する事は決して良いことばかりではないことを。
 自分がを救う為に、多くの人々を押しのけても良いと人間は安易に
 考えられなくなった。苦悩がその内から生まれた。

 確かに生きんと意志を肯定し、自然の奥にその根源的な姿を見ることは
 重要では有り続けた。だが、またその生きんとする意志を単純に肯定するだけ
 では人々はやっていけないことにも気付いた。

 特に人々が集まり、都市を形成し、文明をもたらすことになると、その人間の
 苦悩があらゆる所から生まれてきた。
 その苦しみと痛みを和らげる人類の知恵こそが、つまりは
文明である。

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       (*) 詳細は以下のサイトを参照。
  
      『 稲穂黄金の未来の文明
        『 稲穂黄金の未来の国家


 
● 文明と神と人類@

 人が集まり、協力することで多くのことを成し遂げることができた。
 人々が力を合わせて神殿を作ることができた。
 街には食料が溢れ、多くの衣服も並んだ。
 
 確かに人々が集まることは多くの富を人類にもたらした。
 なれど、
同時に多くの問題がそこから生まれた。

 他人の者が欲しい者もいれば、楽をして儲けたいと考える者たちも出てきた。
 他人の商品を奪い、その為なら力づくでも構わないと考える者たちも出てきた。
 だからこそルールが必要となり、都市が大規模になればなるほど、経済、
 社会制度などのあらゆる決め事(法律)が必要になってきた。
 さらにそれが国家ほどの大きさになると、法律を作る人々の選び方も重要に
 なってきた。それが政治制度である。

 確かに文明は、人間の悪い面を抑え、良い面を表に出させるものである。
 なれど、それでも我々人類は、生きんとする意志を忘れることなどできない。

 古代の人々は、常に自然の近くにいようと、あらゆるものが自然の方へ
 向いていた。偉大な古代ギリシャ、古代ローマを見るのが一番良い。

 彼らの立てる神殿は自然に調和し、彼らの芸術作品はどこまでも美しく自然
 であり、彼らが好んできた服は、人間本来の体のラインの美しさを見せる為に
 簡素であり、かつみずみずしい。
 確かに古代人は、自然を大切にし、自然の側にあろうとした。

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● 文明と神と人類A

 人類が集まり、文明をもたらし始めると、都市で暮らす人々の間から問題が
 表面化してきた。人間の内から苦しみがあふれ出した。
 その為に、法律が必要になり様々な社会制度、政治制度がもたらされた。

 さらには人々の苦しみを救済する為の教えがもたらされるようになった。
 この教えは、古代の人々が生きんとする意志を肯定することとは違った。

 反対に、あらゆる苦しみの根源が生きんとする意志の中にある事が判明した。
 生きんとする意志を否定の方向にこそ人類の救済があるがわかった。
 真に優れた者達によって降ろされたされたこれらの教えは、悩み苦悩する人々
 に求められ、人々の間で急速に広まっていた。

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● 太古の神 VS 聖典の神@

 自然の奥にある
生きんとする意志
 その意志を肯定することが太古の人々の世界観であり、その自然の奥に
 ある諸力に
神々を見た。

 だが人類が文明を築き、人々が共に暮らす中で生きんとする意志をそのまま
 素直に展開する事から大きな問題が発生した。
 それゆえに人類の悩みも深くなっていった。
 
 人々は悩み苦しんだ。
 そうしてあることに気付いた。人間の上にある苦悩を救済する術は、まさに
 生きんとする意志を
否定する方向にあるのだと。

 その方向にいる究極の善とした神なるものが、つまりは
である。
 太古の人々は、素直に神なるものを尊んだ。
 なれどその後、文明を気付いた人類に求められた神は、聖典をもつ宗教
 の中の神であった。ヒンデュー教や仏教、キリスト教である。

 聖典をもつ宗教の流入は、その地域の人々を二分せずにいられなかった。
 それほど、聖典の宗教の流入の人類に大きな影響を与えた。

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● 太古の神 VS 聖典の神A

 太古の人々が漠然と描いていた神なるものは、自然の奥に存在する生きんと
 する意志である。
 古今東西、太古の世界において、あらゆるところで畏れ、敬ったのは、この
 神なるものである。生きんとする意志を素直に肯定するところにある神である。

 これに対して聖典をもつ宗教の神とは、生きんとする意志を否定する方向に
 こそ人間の救済があることを説明する。
 それらの教えが、聖典で述べられる。
 
 太古の人々が敬って神なるものは、自然崇拝的であある。
 自然の奥に神なるものにつながるのを見ることである。
 ただし、この太古の人々が畏れ、敬った神を祭る人々は、徐々に姿を消した。
 
太古の神々は、聖典の神によって取って変わられた

 現代において、太古の宗教の形を残しているのは、文明が届かなかった未開
 の地の部族や、文明は届いたが拒否した部族においてであり、先進国では
 ほとんど見られなくなった。
 世界で顕著に残っている数といえば、3つの民族においてである。
 その1つが、日本の神道である。

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● 生きんとする意志と文明

 太古の神々は、自然崇拝的であり、生きんとする意志の肯定する。
 太古の神々は、文明から離脱した未開の地に住んだ部族の間にこっそりと
 残ったに過ぎない。

 21世紀の現代、先進国において完全な形で残っている国が1つだけである。
 それは日本である。日本の
神道がそうである。

 聖典をもつ宗教は、生きんとする意志の否定にこそ人類の救済があると説く。
 聖典の宗教の神々は、生きんとする意志が及ばない涅槃の世界に鎮座する。
 ヒンデュー教、仏教の教えがこれに該当する。
 それだけはなく(仏教的)キリスト教の神も、仏なのである。

 またユダヤ教、イスラム教、(ユダヤ的)キリスト教も聖典をもつ宗教ではあるが
 その意味はまた大きく異なる。
 人類の救いが意志の否定にあるとは説かずに、絶対者がもたらす世界に希望
 を見出す思想になっている。
 多くは楽観論に支配されている。
 この世界は彼らの絶対者によってもたらされた楽園と考えるのが一神教の
 特徴である。一神教が生まれた過程もまた生きんとする意志の肯定と否定と
 の中に存在する。

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● 聖典をもつ宗教と文明

 
聖典をもつ宗教は滅ばないと言われる。
 なるほど、偉大な古代ギリシャも古代ローマの人々が信じた神なるものは
 滅んだが、キリスト教も仏教もヒンデュー教もユダヤ教も滅びることはなかった。
 これらは確かに聖典を持っている。

            
キリスト教の聖典である聖書
         
       聖典をもつ宗教は滅びないといわれる。
       確かに世界を見渡してもヒンデュー、仏教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教
       は確かに各自の聖典を有している。

 これは当然であると言える。
 なぜならば、聖典の宗教とは、文明の都市に住む人々こそ求められたからだ。
 人々が集まり、文明を発達させれば、させるほど、聖典の宗教が求められた。

 人々は集まり、そして都市を形成する。
 ますます人は集まり、その分だけ、ルールが必要になる。
 それは外的なルールだけでなく、人間の内面の参考書も必要とされる。
 人々には、救いの道が必要になるのだ。
 教義が書かれた聖典を人々は欲するようになる。

 文明が発達する所ほど、そこに住む人々から聖典の宗教が支持される。
 自然から離れ、都市に住むことによって、積みあがった問題により、
 聖典の宗教は求められた。
 それらの教義は、ますます詳細に組み上げられた。

 釈尊の教えは、釈尊死後、数百年をかけて、弟子達によって形成された。
 それらは確かに釈尊が語っていたものであったが、釈尊が存命中に、釈尊は
 あくまでも語っただけであり、それらを書き記したのではない。

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● 聖典の宗教の勝利

 世界中のあらゆる場所で太古の神なるものは姿を消していった。
 そこに、聖典をもつ宗教が入り込み、多くの人々から支持されるに至った。
 
 人々が集まり、集団をつくり、社会を形成すると、太古の宗教ではその悩み
 の答えを見出すことは難しくなった。
 それに変わり、聖典の宗教の中でも特に優れたヒンデューや仏教などの
 インドの教えは世界中に伝播した。
 
 インドの教えはエジプトにも届き、エジプトを経由してヨーロッパにも伝わった。
 あの
プラトンインドを教えを間違いなく吸収している。

             
プラトン(左)とアリストテレス(右)
             
                  
 ラファエロ作

 また、ある青年もエジプトを経由したインドの教えを吸収した。
 その者は
イエス・キリスト
 イエスはその教えを吸収した以降、最後の数年、めまぐるしい布教活動を
 行ったのである。

 仏教の教えは、イエスによってヨーロッパに広がった。
 仏教という言葉ではなく、キリスト教という形で広がった。
 その意味でイエスもまた釈尊の弟子なのである。

    
    イエスは間違いなく、インドの教えを吸収している。       『世界の芸術』より
   イエスの教えは、仏教の教えである。

  
プラトンとイエスに共通する点がある。
 共に
エジプトに行った事があるである。

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● イエス・キリストも苦慮した@

 インドの教えを吸収したイエスは、どうしたら故郷のユダヤの民にこれを
 理解させることができるかが迷った。

 同胞のユダヤの民が信じるユダヤの教えは、この地上は絶対者から贈られた
 楽園であり、つまりは楽観論なのである。

 なれど、イエスが吸収したインドの教えは、反対に大地で人間が生きることは
 苦しみであり、そうなるのもそれ相応の理由があり、それらの罪は苦しむことで
 晴らすことができるのだと教えである。
 そしてこの世界はその為の1人1人の修行の場であり、そうやってこの生を
 終えれば、輪廻によって再び生まれ変わり、そこでも罪を減らししていって
 何回生まれ変わったかは知らぬが、ついには、この世界に生まれる必要が
 なくなって、真にあの世の住人になったということである。

 この世界は、同胞のユダヤの民が信じるような楽園などでは決してなく、
 反対にインドの教えが述べるように、その苦を克服しながら、劫を清算し、
 それらの苦しみを共有する慈悲によって、裏付けられるべきだという核心があった。

 どうしたら、ユダヤの教えと仏教の教えを融合しようかとイエスは誰よりも
 苦慮したに違いない。それ程までにユダヤの民は、キリストには冷たく、
 その世界観は、楽観論、楽園論が大勢をしめた。

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 ● イエス・キリストも苦慮したA

 どうしたら、ユダヤ的世界観にどっぷりと浸っている同胞(ユダヤの民)に
 この世界の真理を教えることができるのか?とイエスは悩んだに違いない。
 なぜなら、ユダヤは如何なるものかを、イエス以上に理解している人は
 いないはずであるからだ。

 イエスにできることは生き様を示すことであった。
 イエスは命をかけてそれを実践した。

"絶対者のもたらす楽園を心待ちにしましょう" などとは、
 イエスは一言も述べなかった。

 反対に、イエスは、多くの人々に以下のことを教えた。
 人間の救いは人間自身の中にこそ存在することを教えた。
 イエスは、身をもって教えた。優しい目をしたイエスはこう述べた。
 『汝、隣人を愛せよ』
 イエスは、この大地に生きる人々を何度も励まし、見捨てることなく導いた。
 彼は、何かの利益の為に生きたのではない。
 イエスの生涯は輝いている。

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 ● 旧約聖書と新約聖書の大きな相違

 絶対者の楽園論と楽観論に包まれたユダヤ的世界観。
 ユートピアを掲げる旧約聖書。

 インドの教えを吸収したイエス。
 そのイエスの生涯を現した新約聖書。

 その2つの書物の内容は、天と地ほども異なる。
 内容も質も、その深さもまるで異なる。

 旧約聖書の話は、至って平凡であり、思いつきでも語れる話によって
 占められ、何らの予感や霊感を含まないおしゃべりである。
 これは童話や神話の類であり、糞まじめに語る何がしかではない。

 これに対して新約聖書は、まさに深い意味があちこちでみられ、執筆した人々
 にも天から霊感が降りてきたごとくの状態で書かれている。

 旧約聖書と新約聖書のこの大きな相違は、キリスト教の信徒の間でも
 たびたび、問題となり、取り上げられてきた。
 その為に、新約聖書だけを学ぶ者達、新旧共に学ぶ者達などに分かれた。
 そこが基点なってキリスト教も様々に変化した。

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 ● 旧約聖書と新約聖書の橋渡し

 取り立てて、特に注目すべきものがない旧約聖書であるが、その中でもっとも
 注目すべき箇所がある。それがアダムの天上界からの追放の話である。

 アダムは知恵の実を食べて堕落した結果、楽園にいられなくなり、この大地
 に堕ちたという話である。
 このアダムの堕落こそが、以下の2つの結びつけることになった。

 地上は楽園というユダヤの楽観論と、この世界は苦によってもたらされたと
 いうインドの教えである。

 この世界と人間が存在する事自体、なんらかの罪の結果であって、それらを
 克服する為にこそこの地上に人間は生まれるという考えである。

 どこまでもユダヤ的で楽観論に包まれる旧約聖書が、仏教的な価値観を
 有する新約聖書、いなまさに仏教の教えでさえある新約聖書の内容と
 つじつまを合わせる為にこそ、このアダムの追放が必要であった。
 インド的な世界観との橋渡しになるものである。

 橋渡しの為に、アダムはリンゴを食べて、堕落せざる終えなかったのである。
 これにより、キリスト教は急展開することができた。
 それが為に、人々は贖いが必要となり、その代表としいてイエスがその贖い
 を多く背負ったという話は象徴的である。

 しかし、イエスがその生涯で述べていたこと、まさに述べたかったことが
 仏教の真髄であり、インドの教えそのものなのである。

 そんなキリスト教が、なにゆえ旧約聖書と新約聖書を掲げるに至ったかは
 イエスが、ユダヤ人であり、ユダヤの民を目覚めさせることを目的にして
 いたという点に尽きるのである。
 もし、仮にイエスが、アジアで生まれていたならば、釈尊の門をくぐり、
 龍樹、不空、恵果、空海や最澄などと並ぶ名僧として語られていただろう。

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● 自然は対処する

 この世界の中で、その存在を展開する為には、自然もこの世界のルールを
 熟知して、そして対応したのだ。
 自然は対処する。

 この世界は諸行無常の世界である。
 常に変化してその歩みを止めない。
 原因が結果を生み、その結果が今度は原因となって他に作用して変化を
 起こさせる。この世界は因果の世界である。

 自然はその為に、命を生と死の繰り返しによって命を未来に永らえる方法を
 あみだした。だからこそ自然は、個々の個体の生と死には目もくれない。

 なれど、それが種になると話が異なる。
 自然は、種を維持するためには最新の注意を傾ける。
この自然は、種を保つ為に、慎重に慎重を重ねる。
 なれど個体の生死には、自然は関心を寄せない。

 個体数が少ないものには騙しの技術や、知恵を与えて捕食されないようにした。
 簡単に捕食されうるものは、卵の数を数百万個に増やし、数の力で次世代に
 命をつなげた。

 この世界で生きる生きとし生けるものは、あたらな命を授けられ、そうして
 その姿を展開する。そうして次代の者達を生まれたのを見届けて、再び
 自然の懐で休む。そうして命は未来に紡がれる。

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● 自然は死なない@

 我々、人間が自然は、こうだと考えていても、自然は常にその先をいき、
 予想だにしない姿を見せる。
 現代の我々が、昆虫、動物、人間と経ていく過程を見て、自然は知性を
 何よりも求めていると思い込んでも、それが早合点であることを直ぐに
 思い知らされる。

 太古の地球には、多くの生き物が住んでいた。
 数百万年前には大型の哺乳類が地球を闊歩していたし、さらに数千万年前には
 現代の哺乳類とはスケールが、まるで異なる恐竜がこの大地を支配していた。
 彼らは、人類の歴史などよりも遥かに長く、数億年もこの大地を支配した。
 彼らの世界は、知性の世界ではなく、弱肉強食の世界であった。
 より大きく、より鋭く、より強力にが、彼らの世界の合言葉であった。
 数億年前の海には、たくさんの生物で溢れていた。

 自然は大地、植物、あらゆる生命をその懐に抱く。
 植物から、微細な生物、そして魚、さらに陸上の生物、大型の恐竜までも
 創作した自然。 我々人間が自然本来の姿を捉えようとしても、自然は
 我々の理解の範疇を大きく超える。

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● 自然は死なないA

 現代では想像もつかないほど、巨大な恐竜を生み出した自然。
 それらを生み出す自然の力に畏怖し、時に感謝もする。
 誰もが、自然の偉大さを感じ取る。

 なれど、この世界は、自然の上の戯れを、簡単に飲み込むことがある。
 この世界の因果のルールは、時に残酷な結末をもたらす。
 偶然のごとくに重なり、次が決定され、そうしてこの地上に生きる生物を
 根こそぎ滅ぼすこともある。

 宇宙において、因果の連なりにより、巨大な隕石が地球に衝突した。
 地球上のほとんど全ての生き物が死に絶えた。
 生い茂っていた植物も枯れてしまった。
 地球上の気温が大きく下がり、植物が枯れ、それを餌にした草食恐竜が
 死に絶え、それを餌にしていた肉食動物も死に絶えた。
 全ては死に絶えたかに見えた。

 なれど
自然は死なない
 長い時間が過ぎ、再び地球が温かくなり始めると、自然は急速な勢いで
 植物を育て、自然の上に動植物を育み始めた。

 どこにいたのか姿を見せなかった自然が、いったん、繁栄する機会がくれば、
 急速にその姿を展開し始めるのだ。
 まさに自然は死なない。

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● 再び、この世界に対処する自然

 この世界で自然は己を展開する為に、色々と工夫を凝らした。 
 個々の命を生と死によってバトンタッチすることで、この諸行無常、千変万化の
 世界に対応し、命を未来に永らえた。
 
 自然の上に立ち現れた生物の中から、脳内に表象の世界を描くものが現れた。
 昆虫であり、動物である。この世界は空間と時間、そして因果律のルールに
 よって支配された世界である。

 この世界のルールに沿って、この世界の上にその姿を展示する自然。
 その自然から生み出された子供達のいくつかが目を宿した。
 動物、人間の頭の中の小さいなゼリー状の物体(=脳)が、表象の世界を描く。

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● 神の教えと仏の教え

 端的にいえば、
 神の教えは、この自然の教えと言える。
 仏の教えは、この世界の教えと言える。

 だからこそ神道は、自然が与えた命の輝きと言える。
 仏教は、世界の姿、宇宙の姿として曼荼羅によって表現されてきた。

 神道は、自然の奥に存在する生きんとする意志を見ている。
 仏教は、自然の生きんとする意志も届かないこの世界の果て、涅槃を見ている。

 神道は、自然の生きんとする意志の肯定と言える。
 仏教は、自然の生きんとする意志の否定と言える。

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● ああ!なるほど梅は神道、桜は仏教

 "
梅は神の教え、桜は仏の教え

 
植松愛子さんが述べた言葉である。
 ああ〜なるほど!と膝をたたきたくなる。

 しんしんと雪が振る寒い時期に満開の花を咲かせる梅は、この世界のあらゆる
 変化に負けずに、本来あるべき姿を展開する自然そのものである。
 梅はただ梅であろうとする。これこそが神の教えである。

 これに対して満開に咲いて、その後にぱっと散っていく桜の花は、まさに
 この世界の諸行無常を表している。
 この世界のルールに素直に対処する自然の姿を示している。
 または世界のありようを教えてくれる。
 これこそが仏の教えである。

 自然の生きんとする意志を表現する梅。
 あらゆるものを飲み込んで流れいく世界を表す桜。
 なるほど、梅は神なる教え、桜は仏の教えである。

 植松愛子さんは、あの深見東州さんのお師匠さんである。
 彼女の著書をめくると、実に清清しく、またスパッと述べられている。
 まるで何らの思考も必要なく、さっとどこからもたらされたごとくである。
 そっと神様から教えられたことを、サラリと語っている感じがする。

  
 
 妙のことたま(植松愛子)   サラリと書かれていて、実にみずみずしい本である。

 語る言葉の中に余計な思索が感じられずさらりと真理を語っている。
 これは日本に生まれし女の神霊家の人々に共通する点である。
 大本(教)の出口直の娘、出口澄も、さらに孫の出口直日も実にすがすがしい
 言葉を発している。

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 ● 花鳥風月

 寒い時期に咲く梅の花は、例えこの世界がどのような困難にあろうが
 自然本来の姿を展開する。
 梅が本来の姿を表現し続ける事に、そこに我々は神なる姿を見るのだ。

 桜は、つぼみから一気に満開の花を咲かせ、満開になった瞬間から次々と
 花々がひらりひらりと落ちていく。
 その様は、この世界の諸行無常の流れに逆らわない姿を見せている。
 この世界に、軽やかにあわせ、まるで動じない姿に仏を見る。

 神と仏は、確かに自然の右と左に分かれてはいる。
 なれど共に、自然とは接している。

 自然はその姿をありのままに展開する。
 花は、そのかわいらしい姿を無邪気に展示する。
 鳥は明日の命を気にすることはしない。
 ただ今のことのとき、鳥はさえずる。
 まさに花鳥風月。

 この自然の上で生きる動植物は皆、その命を限りなく輝かせている。
 命の輝き、それこそが神の教えである。

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● 仏なるものを求めたイエス

 太古の人々は、自然の奥にある生きんとする意志の力に畏れ、感謝した。
 それらが神なるものである。

 これに対して聖典をもつ宗教が掲げた神とは、生きんとする意志を否定する方向
 にこそ救いの世界、涅槃があると説く。

 その方向にこそ救済の道があり、その先にこそ究極の理想の姿が存在する。
 その理想の姿こそが仏である。

 最高善にして、最高の知識に裏打ちされた姿こそが仏である。
 イエス・キリストがその胸に抱いていた神こそ、まさにこの仏である。
 イエスの生涯は、仏教の名僧の生涯そのものとさえ言える。

 イエスは間違いなくインドの教えを吸収している。
 イエスは、釈尊の優れた弟子である。

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 ● 自然の子供達

 自然のもとで生まれし者達には共通の性質を有している。
 特に近い関係にある者達の親近性は驚くばかりである。

 自然の上で生きる物達は、根っこの部分で結びついている。
 植物と昆虫には強い親近性が存在する。

 花々から蜜を集めるミツバチであるが、集めるときに花粉を体中につけて、
 遠い場所の野原に咲く花に受粉する。
 ミツバチと花々はまるで契約しているがごとくである。

 植物は、太陽の光の方向へ伸びようと欲するが、同様に昆虫も真っ暗闇の中で
 光るロウソクの炎の誘惑は、断りがたい。
 火の明るさの誘惑に負けて、燃えさかる炎の中に昆虫はダイブする。
 まさに”飛んで火にいる夏の虫”である。

 また我々人間とて自然の子供であり、親近性を持つ。
 人間は、寝ている時は、植物である。
 人間は、寝起きにおぼろげながら行動する時、動物である。
 人間は、起きて一定の時間が経って、人間となる。

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● 生贄について

 古代において、生贄の儀式は、世界各地に見られた。
 人間を犠牲にするところもあれば動物を犠牲にしたところもあった。

 悪しき習慣かと言えば、悪しき習慣であると現代人は言うのかも知れぬ。
 なれど、世界各地で生贄があったことは以下のことを物語る。

 自然からの命の恵みに対する感謝に釣り合うものは、これまた命であると。
 人間が知恵や工夫によって作り出し農作物や商品では、釣り合わない。
 古代の人々は、自分達の知性と努力によってもたらされた農作物では、
 自然の恵みに対する感謝と釣り合わないことを理解した。
 太古の者達はそう確信していた。

 自然の恵みに匹敵するのは、何らかの命であると真剣に考えていた。
 太古の人々は、そう素直に捉えていたから、世界中のあらゆる場所で生贄
 は行われてきた。

 もちろん、現代に生きる我々は、それらの生贄を敢えて肯定する理由を
 見つける必要もないし、もちろん復活させるような事などするべきではない。
 悪しき習慣と見なしておいて良いが、古代の人々は、そのように捉えていた事
 を頭の片隅に入れておけばよい。

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● 太古の人々の宗教の根幹 = 自然の内在力

 古代の人々、古代に生きた人々の多くの地域で、人智を超えた力を自然の
 奥に感じていた。これらの自然に内在する力に気付いていた。

 世界のルールに従えば全てのエネルギーは拡散していく方向にある。
 なれど自然はそのエネルギーを凝縮させて植物を生み、昆虫を生み、
 動物を育み、そして人間を誕生させた。

 太古の昔、世界各地に存在した神なるものは、全てこの自然の内在力、
 秘めた力に畏れ、感謝もした。

 仮に、この世界の上に自然が存在しなかったならば、この世界とはそもそも
 なんであったのだろうか?
 自然の子である我々は、我々の脳内に、この世界を表象の世界として描く。
 そもそも自然がなければ、この世界を表象する者達もいない。
 その時、この世界とは、どこに立脚点を持つのだろうか?
 その時、この世界は、どこに存在するのだろう。
 これらの問いこそが古代インドの問いであり、また哲学の問いでもあった。

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● 太古の人々の宗教の根幹 = 自然の内在力

 自然は己自身で生まれてきた。
 自然は、この世界の上に現れて、この世界でまどろむ。
 そうして、自然の懐にいる子供達のいくつかの頭の中に、この世界を
 表象の世界として映し出すことを始めた。

 この世界の上に現れた時に、自然は諸行無常を受け入れ、対処した。
 あらゆる物が変化するこの世界にあって、個体は、生まれ成長し、やがて死を
 迎える。それらのサイクルを自然は採用した。

 もちろん、自ら生み出した子らを絶滅させない為に、自然は実に慎重に
 この世界で生き残る術を身に付けさせた。
 ある者達は背中に針をもち、ある者達は体の色を変えて、またある者達は、
 数の力で生き延びる率をアップさせた。

 自然は、無表情でただ流れ行く世界に身を起きながら、それでいて、それら一切
 についてまったく慌てる様子はない。
 
 太古の人々は、自然のあっけらかんと姿を現していることの強さに感銘を受けた。
 我らも自然の子であり、本来はそうであったはずであるという郷愁が蘇る。
 確かに我々は、自然の姿を全て理解できることはない。
 それを我々は神秘と呼ぶ。
 人間は時に自然の神秘に驚嘆し、時に自然の猛威に恐れる。
 この自然の盲目なる力こそが、古代の人々の宗教観であり、神なるものである。

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● 自然の神秘@

 自然のありようを理解すればするほど人間の知性では理解しがたい。
 なれど、自然は神秘的である。

 我々人類は自然の上に生まれてきた。
 我々、人類もその根は自然に根ざしている。
 そしてその自然は、動物、人間に優れた脳を与えた。
 
 我々の頭の中の脳は、この世界を表象する。
 不思議なことに、我々の脳は、自然によって生み出されていながら、その自然
 について情報を生まれながらに一切、持ち合わせていない。

 反対に、この世界のルールは生まれながらに脳に供えさせた。
 我々の脳の中の表象(直覚的表象)は、時間、空間、因果律が適用される。
 それゆえにこそ、また学問はこの表象に根拠をもち、ここを土台にして始まる。

 脳の中では、既にこの世界のいくつかの性質がア・プリオリな認識として
 組み込まれている。それを頼りに数学は作られる。
 反対に、自然についての情報は、経験的に、ア・ポステリオリな認識として
 一歩一歩理解して行く。これにより科学は作られる。

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● 自然の神秘A

 自然は脳を作り出すに当たって、脳の中に、この世界のルールのいくつかを
 先天的に備えさせた。それによって我々はこの世界を縦横無尽に行き来する事
 が可能となる。動物はそれが全て可能である。

 動物とは動く物と書くのは、まさに言い得て妙である。
 自らの脳に描く表象の世界の中を、自由に歩くのである。
 仮に、これに対して、わずかでも誤差があったならば、我々は石につまづき、
 塀にぶつかり、崖から落ちてしまうのだ。

 反対に、自然がもつ性質、つまり生きんとする意志の存在に、我々が気付くのは
 経験的に、ア・ポステリオリに認識するに過ぎない。

 自然は、人間にこう語りかけているようだ。

 ” お前達人間は、私(自然)から生まれているのだから、当然、自然の生きんと
  する意志についてのあらゆる情報を知っているはずだ。
  だから私は、お前達に自然の情報を一切、備えさせないことにする。”

 ” 動物達には多くの本能を備えさせてカバーさせよう。
   お前たちはその変わり、知性を与えよう。
  不安がる事はない。お前たちは紛れもなく私の子供!さあ進むのだ。”

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● 自然と世界、どちらが主であるか?@

 自然の奥の生きんとする意志を肯定し喜べば古代人の神なるものである。
 自然の生きんとする意志の否定する方向に存在する涅槃の世界。

 この2つに対する解釈は、あらゆる時代に形を変えてなされてきた。

 自然が主であり、自然の生きんとする意志を肯定するか?
 はたまた、世界が主であり、自然の生きんとする意志が及ばない世界にこそ
 最善が存在するのか?

 神道は自然の奥にある生きんとする意志を何よりも肯定し中心に置いた。
 仏教は、自然の生きんとする意志が及ばない世界(涅槃)にこそ救いがあるのだ
 と説いた。
 
 日本においてもかつて、神道と仏教は、主導権争いをした。
 もちろん世界において同様の争いがあった。
 
 ほとんどは、聖典の宗教(ヒンデュー、仏教、キリスト教)の圧勝であった。
 なぜならば人間自体が多くの問題を抱えているからである。
 人が集まり、都市を築き、人々が集まれ集まるほど問題はあらゆる所から
 噴出してきた。人間には救いが必要であった。

 人々が交流し、都市を作り、国家を作り、文明が発達すればするほど
 確かに人々は聖典の宗教を求めた。

 太古の神々、自然の奥にある生きんとする意志、それらを祭る神々は
 ことごとく姿を消した。世界中において太古の神々は姿を消しつつある。
 なれど日本においては、太古の教え、自然に通じる神なるものは神道として
 現代の日本にも脈々と受け継がれている。

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● 自然と世界、どちらが主であるか?A

 太古の神々、自然の生きんとする意志を肯定する神道。
 自然の生きんと意志が及ばない涅槃の世界にこそ救いを見出す仏教。

 日本の先人達は、見事にこの2つを融合した。
 もちろん、そこまでには国家を二分する争いがあった。
 神道を主に考えた物部氏と、仏教の普及を考えた蘇我氏。
 この2大勢力を中心に、国家は二分され、争いが起き、多くの血が流れた。

 この争いを収拾したのがうまやどの皇子、つまり聖徳太子であり、日本が
 生んだ天才であった。
 彼は、『和を持って尊しとなす』ということを第一に掲げた。

 不思議なことに、国家を二分した争いの中心部族であった物部氏と蘇我氏の
 2つの部族は、共にこの地上から姿を消した。

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● 本地垂迹説と本地反垂迹説

 神仏を習合した日本ではあるが、だからといって、自然が主なのか?
 世界が主なのか?を巡る議論が収まったわけではなかった。

 時代、時代にそれらは蒸し返されてきた。
 仏教徒における本地垂迹説であり、神道家における本地反垂迹説である。

 あらゆる中心には仏がいて、様々な神々はそれらの仏に仕えるものであると
 考えるのが本地垂迹説である。

   あらゆる悟りを開いた究極善とした仏がこの世界には存在し、人々は何とか
 この仏に近づくために修行をし、悟りを開き、いつしか仏陀に至る。
 その仏がこの世界に現れたときの借りの姿が神であるという考えである。
 もちろん仏僧らによって、この考えが支持された。

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 ● 反本地垂迹説

 反対に、反本地垂迹説というのは、あらゆる神々が中心であって、その働きが
 仏であるという考えである。まさに反対の考えである。

 本地垂迹説は、この世界を主に考え、自然の対処は従なのだと捉える。
 仏の理を知り、人間は仏に近づくことを促す。
 自然がこの世界に対処した原型は、既にこの世界に含まれており、その原型
 こそが仏であり、その仏の姿が自然の対処として現れる時の姿が神々である
 と見なす。

 反本地垂迹説は、自然のあるべき姿こそが主であり、この世界が従と考える。
 本来の自然の姿にこそ神が宿り、自然がこの世界に対処した作用こそが
 仏の姿を現していると見なすのである。

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● 神道と仏教

 極端に簡易に言えば、世界は仏を表し、自然は神を表す。
 目に見える表象の世界の奥に、永遠にかわらぬ仏の姿を見る。
 仏教は世界を中心に展開する。良く仏教の曼荼羅が宇宙絵図のように
 捉えられるのはそのゆえである。

 それに対して、神道は自然の奥に神に通じるものを見る。
 この世界によって自然がどれだけ揺さぶられようが、自然の美しさ、命の輝き
 はたじろがず、消え去ることはない。
 神道は、自然の奥にある生きんとする意志を中心に展開する。
 神道が、本来の神道であろうとすればする程、その教義は不確定となる。
 なぜなら生きんとする意志は、我々人間には盲目であるからだ。
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● 仏僧と神道家の意見の相違

 本地垂迹説と反本地垂迹説についての仏僧と神道家の見方。

 仏教  この世界に対する自然の対処ではあるが、これらの対処は既に
      この世界の中に原型が含まれている。
      その叡智、善の姿こそが仏である。
      その原型が、実際にこの世界で姿を変えた働きが神である。
      様々な神は、仏の化身である。

 神道   この世界に対する自然の対処は、自然が本来、持っている力の
       何ものでもない。自然は様々に対処する。
       本来の自然の力こそが神々である。
       自然がこの世界に対処した時にあらわた形式こそが仏である。

 仏僧はあくまで、仏が主で、神が従という。
 神道家はあくまで、神が主で、仏が従という。
 それで別に良いだろう。

              世界   自然
      ---------------------------
         仏教   主  > 従
         神道   従  < 主

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● どちらでも良いのだ

 本地垂迹説と反本地垂迹説であるが、稲穂黄金の考えはこうだ。
 つまりは、どちらでも良いと。

 この自然がこの世界に対処したのか、はたまたその対処の原型がこの世界の
 中に既にあり、その対処に神と名付け様が、仏と名付け様がどちらでも良い。

 これは以下のことと同じだ。
 ある人が物理的に押されてそこに動いたのも、自分の内面を動機によって
 そこに動こうとして動いたのも、意味は確かに異なるが、2つとも同じ力に
 なされている。

 それが中から来るか、外から来たのかの違いに過ぎず、それらにどういう
 名前をつけようが、同じ力である。

 この世界に対する自然の対処の中に救いを見る仏教。
 自然本来の中に、喜びを見出す神道。

 確かに神道と仏教には大きな違いがあるが、それらの対処自身は、
 神が主でも、仏が主でもどちらからでも言えるのだ。

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● 自然の声

 自然は、別段どのような姿を展開しようかなどという事には固執していない。
 ある環境ではこれらの生き物を、ある環境ではあの生き物を展開させる。
 自然のポケットには、いくつもの物が隠されている。

 もちろん自然が、その子らのこの地上の上に出現させようと決心した時には、
 自然は用心深く、慎重に考慮して出現させる。
 もっとも適した環境に、もっとも適した身体(器官)を備えさせて登場させるのだ。

 自然は、この世界で生きられるように、ある子供達の頭の中では表象の世界
 を描かせる。それによりこの世界を縦横無尽に移動できる。
 その名の通り、動く物と書いて動物がこれに該当する。

 なれど、自然は一度地上に送り出した生き物が滅ばないように種を守る工夫
 をさせるが、一度滅んでしまえば、自然は二度と同じものを作り出さない。
 だから、人間は、多くの種を気軽に絶滅してきたが、一度滅ぼした種が
 再び、戻ってこないことを知り、愕然とするのだ。

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● 自然の生きんとする意志

 あらゆるものが自然のいきんとする意志に関わっている。
 人間自身が、自然の生きんとする意志に関わり、それを肯定することが
 喜びと同時に苦しみが生まれた。
 
 生きんとする意志を否定することで、聖典の宗教が生まれた。
 様々な解釈がなれさ、様々に対応して文明、そして人間。

 いつも、その側には自然の生きんとする意志があり、我々は決してその存在
 を無視することはできない。
 我々は確かに、いつまでも、自然が生みし子供であることを忘れないのだ。

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