人間なるもの 生きんとする意志の肯定と否定の間に揺れ動くいてきたのが人間であり、今後もその2つの間で揺れ動く。
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『国を少しだけ思う日本の男達へ!  by 稲穂黄金』
今後の21世紀エネルギー問題を契機に色々な摩擦がでてくるでしょう。その時に日本国民は日本の国益を真剣に考える時がくる。
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 人間の歩みに大きな影響を与えてきた神と仏。
神なるものは、生きんとする意志の肯定である。
仏なるものは、生きんとする意志の否定である。


 ● 動物と人間@

 自然界の弱肉強食の世界に生きる動物達が、もし仮に人間ほどの明確な意識
 が芽生え、人間ほどの記憶力が備わったならば、どうなる事だろうか!

 この世界に絶望するだろう。そうして自ら命を絶つ者達が多くでるだろう。
 彼らは、自分達が属している自然界の世界が、実に救いがたいことをすぐに
 理解するはずだ。

 肉食動物は、毎食、草食動物の命を取らなければならないことを知り、また
 時に角のあるバッファローやヌーなどによって、命を落とす危険を知るだろう。
 生き延びる為には、たえず草食動物を捕らえなければ長生きができないこと
 を知り、さらにはそれと同じだけ天敵に狙われる恐怖を抱くだろう。

 それゆえに
自然は、動物達には優れた記憶力を与えなかった
 大抵の動物は、3日前の出来事などはほとんど覚えてはいない。
 それゆえ多くの動物は、匂いと嗅覚を、声と聴覚を結びつけて、その対象が
 何ものであるかを判断する。
                                  カラー動物百科』より
  

 動物達にとっては過去のことを思い煩う心配がない。
 過去と現在を比較して、未来を憂う事もないから、未来に不安を抱かない。
 彼らは確かに、現在の今に生きている。

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 ● 動物と人間A

 なれど人間は違う。我々には動物以上の明確な意識がある。
 またあらゆる動物の中で、もっとも優れた記憶力を有する。
 過去と現在を比較する事が可能となり、それを未来に生かすこともできる。
 比較こそが学問の始まりであり、動物の中で人間だけが大学を持っている。

 そうしてだからこそ、過去を悔やみ、未来に不安を抱えることにもなった。
 目覚めた意識を持ち、過去と現在を比較する記憶力を有したから、人間には
 この世界の姿が理解できるようになった。

 もちろん、大半の人々の意識は常に現在のみに縛られている。
 現在のみに関心があり、あれゆこれやと発言する。

 子供が朗らかなのは、彼らは現在に捉われることなく、あらゆるものを認識する
 ことに努めるからである。過去と現在を比較する事もなく、未来をわずらう程の
 記憶力はないが、その分、この世界を理解しようという認識が前面に出ているの
 である。だからこそ子供の顔は至福に満たされている。

 だが認識する日々を失われた大人はそうはいかない。
 認識の状態を失えば、現在のみが意識に集中する。
 そこに、多くの心配事が悩みが入り込んでくる。記憶力があるからだ。

 大人になれば、すぐにでもこの世界が楽園でないことは理解する。
 この大地には確かに多くの欠乏があり、それにより様々な問題が起きてもいる。
 確かに、人間は苦悩する生き物である。


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 ● 全ては生きんとする意志

 百獣の王であるライオンは、獲物を捉える時には、野生の本能を全開にする。
 
動物は、生きんとする意志に忠実である。
 彼らは、自然界がどうあろうが、彼らであろうとする。

 それに対して人間は己の欲望を全開にすることを行わない。
 もちろん生きんとする意志に忠実であろうとして、欲望を前面に出すときもあるが
 結果として、様々な苦悩を引き起こす事になる。
 ライオンは、草食動物の赤ちゃんの命を平気で奪うが、人間の心は、そこに痛み
 を感じる。その意味を理解できるからだ。

 人間は、動物のように己の欲求を全開にすることはできない。
 動物はそれができるからこそ、動物の世界は弱肉強食のままである。
                             大自然の動物ファミリー』シリーズより
  

 もちろん、人間の世界も弱肉強食の世界に堕ちることもたびたびある。
 人間も褒められたものではない。

 人間が欲求をそのまま展開すると多くの問題も起きた。
 それらの欲求のぶつかりあいに、人間は多くの苦痛を感じた。
 なれど動物は苦痛に感じない。
 動物は確かに素直であるが、苦悩は少ない。

 前にも述べたが、仮に動物に人間並みの知能があったならば、それだけ苦悩を
 味わい、彼らは自分達が置かれた状況に絶望し、命を自ら投げ出す事だろう。
 動物の中で、人間に至って初めて生きんとする意志の否定を見出した。

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● 生きんとする意志と人間社会

 自然の奥にある生きんとする意志。
 生きんとする意志を肯定する神なる教え。

 当初、人類は生きんとする意志を肯定し、その中でまどろんでいた。 
 なれど人類は、街を造り、都市を作り国家を作った。
 人々が集まれば、たくさんの問題が人間の内から生まれてきた。
 人間社会形成する上で、生きんとする意志を素直に肯定する事は現実的に
 不可能となった。なにかしらのルールが必要になったのだ。

 生きんとする意志を素直に展開する動物でさえ、厳しい自然界を生き抜く為に
 群れで暮らし始めた者達には、リーダーが求められ、リーダーが絶対でいくつか
 の簡単なルールが課せられた。これは群れをもつ動物の基本となっている。

 人間の場合は、動物のような簡素なルールでは、とてもうまくいかなかった。
 様々なルールが考え出された。そして国家が作られ、文明がもたらされた。

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● 生きんとする意志の肯定と否定

 ほとんどの宗教は、大きく以下の2つに分類される。
 自然の奥に存在する神なる力、つまり生きんとする意志の上にまどろむか、
 はたまた生きんとする意志の否定の先に、救いを見出すかのである。

 生きんとする意志を肯定する宗教は
 神道、一神教(ユダヤ、イスラム、またユダヤ的キリスト教)などである。
 生きんとする意志の否定に人間の救済を見る宗教は
 仏教、キリスト教(本来のキリスト教)、ヒンデュー教などである。

 生きんとする反対の否定の方向に、救いがあり、その彼方にこそ浄土がある。
 生きんとする意志の肯定と否定。
 太古の人々が、感じていた神とは、生きんとする意志の肯定である。
 文明を発展させながら人々が求めた神こそ、仏であり、意志の否定である。

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● 影響を与え続けるもの

 すべては、生きんとする意志の肯定か否定かによって生まれている。
 生きんとする意志を素直に肯定するか、はたまた否定するかの絶え間ない
 せめぎ合いによって人間は揺れ動いてきたし、人間社会は揺れ動いてきた。

 人間が作り上げてきた
文明も、この生きんとする意志
 
肯定否定のバランスによって大きな影響を受けてきた。

 人間の歩みの中で、もっとも影響を与えたのが、この生きんとする意志である。
 生きんとする意志をどう扱うかは、国家・文明・宗教に強い影響を受けた。
 人間もたらした 国家・文明・宗教は、この生きんとする意志にこそ

 生きんとする意志の否定の方向にある仏の教え。
 神と仏の教えの間で人間は揺れ動きが、人間社会はそれによってとても
 大きな影響を受けてきた。

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● 文明と聖典の宗教

 生きんとする意志の肯定と否定は、文明にとてつもない強い影響を与え続けた。

 まさにそのことを知ることが
文明を理解する鍵となる。
 生きんとする意志に関することが、文明に変化をもたらせた。

 街を作り、都市をつくり人間社会を大規模に形成してきた人間。
 その人間の内から様々な問題が噴出してきた。
 人々が集まったからこそ多くの問題が生まれた。

 だからこそ、文明に生きる人々は聖典をもつ宗教を求めた。
 聖典をもつ宗教の教えの根幹には、生きんとする意志の否定がある。
 聖典の宗教が登場するや否や世界中の民族、国家、文明、社会、人間が
 強い影響を受けた。

 
生きんとする意志の肯定と否定
 それらを表現することに長けたのが古代人であり、紀元後に入ってからも
 優れた芸術家がその存在を感じていた。

 意志の肯定と否定とのせめぎ合いの中で、人間がもまれ、それらの中で人間が
 感じ取ったものを、優れた芸術家は目に見える形で表現する事に努めた。
 
 それが
意志の肯定であれ、意志の否定であれ、それが尋常ならない、
 せめぎ合いを経た果てに、もたらされたものであることを予感させるのだ。
 優れた芸術作品や建造物には、それらの格闘の痕跡が発見できるものなのだ。
                                         国宝の旅』より
   

         動画           テキスト

 (*) 聖典の宗教の登場によって起こった世界の出来事をこのサイトで
     述べると、とても多くて説明しきれないので以下のサイトを参照。
  
      『 稲穂黄金の未来の文明
        『 稲穂黄金のユダヤと日本


 
● 聖典をもつ宗教

 聖典をもつ宗教は滅ばないと言われる。
 聖典をもつ宗教であるヒンデューも仏教もキリスト教もユダヤ教もイスラム教
 も現在でも顕在である。

 反対に聖典をもたない宗教、太古の神々を祭る宗教は地上から姿を消した。
 古代エジプトの神々も古代ローマ人の神々も、古代ギリシャの神々も、
 古代ペルシャの神々も滅んだ。人々はそれらの神々を崇拝しなくなったのだ。

 聖典をもつ宗教が滅ばないと良く言われるのは、人間が文明の発展を強く
 望んだ事の証である。
 文明を発展させ続けたときに、人間社会に発生する問題に対して、聖典の宗教
 は大きな役割を担うことになった。
 人々は、神なるものを捨ててまで、人間社会の発展を手放さなかった。

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● 聖典の宗教と人間の力の減退

 文明の発展には聖典の宗教が欠かせなかったのであるが、それでも人々が
 聖典をもつ宗教に頼りすぎること、聖典をもつ宗教が繁栄しているという事は
 人間の力が弱まった事を如実に物語る。

 人間が神なるものを忘れたことでもある。
 古代人は、命の輝きに光を当てていた。
 古代の人々は自然の奥にある神なるものを大切にした。
 太古の宗教は、聖典をもたない宗教である。
 なれど時代を経るに従って人類は、神なるものを放棄した。

 それに変わって確かに聖典のある宗教が入り込んできた。
 聖典がある宗教が繁栄するというのは、それだけ人は言葉に書き残さなければ
 神なるものを感じれなくなったことを意味する。

 世界中の太古の神々は、聖典をもつ宗教に破れその多くは滅びた。
 太古の神々が生きている場所は、世界中を見渡してもいくつも残っていない。
 文明社会の現代においては、おおまかに見れば3つを残すのみである。
 その内の1つは既に、小さいな勢力になっている。

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● 瀕死の状態である神なるもの

 自然の奥には生きんとする意志がある。
 それは盲目であり、また我々もその奥ではつながっている。

 太古の人々は、生きんとする意志に盲目的に従い、その世界にまどろんだ。
 生きんとする意志を尊び、その中で歓喜した。
 
 なれど人類は、文明を築いた。
 生きんとする意志を素直に肯定することは、もはやできなくなった。
 人間が社会を作れば、それだけ多くのルールが必要となり、安易にそれらの
 欲求や欲望を出すことは、問題をおこし、混乱をまねくことになった。
 また多くの悩みが生まれた。

 それらの悩みを解消する力を太古の神々は有していなかった。
 だからこそ聖典をもつ宗教が求められた。
 
 人類は、文明の発展の条件と引き換えに太古の神々を捨てのだ。
 現在、多くの国々で存在する神とは、仏のことである。

 太古の神々は、世界中からほとんど姿を消した。
 神なるものは、瀕死の状態である。

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● 古代人と現代人の力の差

 古代の偉大な文明を築いた者達と、現代の我々のもつ力を比べれれば、
 古代人の圧勝である。
 なぜならば彼らは、何ももたずに文明の中で生きれたが、近代、現代では
 多くの人々が片手に本を抱えなければ生きていけぬからである。

 聖書や経典を片手にもたねば、この世界を歩けぬということはそれだけ己の
 中に力を有していないことを物語る。
 古代の人々には、聖書も経典も不要であった。

 それでいて、あの大文明を築いて、その社会の中で起こる様々な問題にも
 対処して過ごしていた。この差は著しく大きい。

 古代のエジプト文明もギリシャ文明もローマ文明もペルシャ文明も、そこに
 生きる人々は、聖典をもつことなど不要であった。
 もちろん彼らも良く学び、良く議論した。
 しかし彼らは
片手に聖典をもたずとも、まったく問題なく生きれた
 彼らは、いつも神々と共に生きていたから。

 彼らは常に神々を感じ、神々と生きて、神々の側にいた。
 古代の人々は神の寵愛をうけており、彼らが作った彫刻は、いずれも神々が
 協力して、手伝っているとさえ言える。
                                 
週刊 世界遺産

   
古代ローマ人は、神々と共にいた。

 近代、現代の人々は、神々と共にいることができなくなった。
 だからこそ人々は、神々の言葉を書いた本を常駐させねばならなくなった。
 古代の文明が、聖典の宗教を持たずに、太古の神々を祭るだけで住んだと
 いうのは、古代人の偉大さを物語るのである。

         動画           テキスト

       (*) 詳細は以下のサイトを参照。
  
      『 稲穂黄金の古代人と現代人


 
● 近代、現代の貧弱さ

 
聖典を片手にもたなければ、不安を感じる近代人
 現代の我々はそれだけ貧弱であり、本来の力を失っている。

 現在、世界中の人々から聖典を取り上げてみたらどうなるであろう。
 宗教信者の多くは不安を感じ、泣き叫ぶやも知れぬ。
 そうであれば、現代の我々の側に、神がいないことを、我々自身が証明して
 いるようなものである。

 釈尊もイエスも多くを語ったが、彼らは片手に本を持って生きたのではない。
 もちろん聖典を非難しているのではない。
 多くの人々には目に見える言葉が必要であり、目に見える形が必要である。
 本を読まなくて良いなどとは決して言っていない。
 たくさんの事が本から学べる。それはとても重要なことである。

 なれどそれが過ぎるといけない。
 優れた者たちから学ぶことは重要である。
 釈尊の教えもイエスの教えも重要である。
 だからといって、常に片手に聖典を抱えて持ち歩く必要はない。

 近代、現代の人々が片手に本をもって布教している姿を古代人が見たら
 なんというだろうか?
 きっと人類の力が弱まっていることを指摘するに違いない。
 古代の人々のすぐ側には神々がいて、彼らは神と共にいたのだ。

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 ● 神と仏と人間と@

 自然から生まれた人間。
 だから人間はその自然の声を聞かなければならない。
 自然が表現しようとする姿こそが神の姿である。
 命の輝き、人間として生まれたものの輝き。
 それに気づき、それを表現するものが上なる生き方であり、神なるものである。

 この世界の中に生きる人間。この大地に生きる人間。
 この大地は時に容赦なく自然のあらゆるものを飲み込んでいく。
 人間とて例外ではない。
 自然の姿を展開しようと試みる人間の第一歩すら揺さぶる。
 現実に追われ、仕事に追われ、日常に追われ、何とかこの世界で快適に
 生きることだけを追い始めた人間。
 確かに快適なことは素晴らしい。便利なこともありがたい。
 なれど上なるものを忘れたときに、自然からの守護を失う。

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● 神と仏と人間とA

 だからこそ人々は救いを求めた。
 仏を求めたのだ。
 上なるものに近づこうと欲したが、つい現実的な対応に目が奪われて
 人間の神なる部分に近づけない己の至らなさを痛感したときに、仏が現れて
 それを癒してくれる。

 神なるものを求める気持ちがあるから、仏がまた生まれるのである。
 神なるものを全て放棄すれば、また仏も放棄することになる。
 人間が仏を生んだというのは、まさに素晴らしいことである。
 神なるものを忘れぬ限り、また仏も存在し続ける。
 数千年の長きに渡り、あらゆる時代に仏が存在したことは神が存在したこと
 の証なのである。

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● 文明の数だけ挑戦がある

 人間の歴史の中で、たくさんの文明が興っては消えた。
 なれどこの文明こそ人間がそこに可能性を展開した証である。

 人間とは何か?人間とは何をしにこの地上に生まれたのか?
 人間は何であり、何のためにこの地上にうまれたのか?
 その人々の問いが集まり凝縮し、それに答える形で文明が形成されてきた。

 もちろん人間などは、賢い生き物ではない。
 迷妄と愚鈍さが直ちに現れて、元の木阿弥になることだって何度もあった。
 それでもいくつかの文明は、偉大な文明へと辿り付いた。
 確かにその偉大な文明とて長くは続かない。
 人間は迷妄と愚鈍の内にあるからだ。
 この世界が救いがたいように、また人間自身が救いがたい。
 
 なれど人間は、その本来の人間の中に潜む神なるものを展開することに
 挑戦しつづけてきた。文明の数だけ、人間の秘めたる挑戦があった。

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● 文明と人間

 あるものは芸術において人間の可能性を展開した。
 あるものは学問において人間の可能性を展開した。
 この地上には、その人間が生きた痕跡がそこかしこに見られる。
                 
ヴァチカン』、『国宝の旅』より

 古今東西を問わず、人間は食べて生きる以上の価値を見出した。それを文化と呼ぶ。

 文学や芸術、哲学や音楽で、人々は人間の可能性の展開に試みた。
 もちろん真に偉大な作品をもたらした者は限られる。

 各自がその与えられた能力で、与えられた寿命で、誠実にコツコツと展開した
 ものは、周りにいた人々に力を与え影響を与えた。
                                     
世界の美術』より
 
  我々は確かにこの大地に生きている。
  人間とこの大地との格闘があり、それらに縛られない世界を夢見た人間。


 どのような身分であれ、どのような性別であれ、どのような民族であれ
 その地道な一歩は世界中のあらゆる人々に届いた。
 我々は同じ人間なのである。

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       (*) 詳細は以下のサイトを参照。
  
      『 稲穂黄金の未来の文明
        『 稲穂黄金の未来の国家


 
● 自然崇拝を失う怖さ@

 人類が文明を築くあげる過程でこそ、聖典の宗教を確かに必要とした。
 人々が集まって暮らすとは多くの利便性がうまれ、多くの豊かさをもたらしたが
 同時にまた人間の内面から多くの苦悩を発生させた。

 それゆにこそ人々は、その苦悩を癒す聖典の教えを必要とした。
 太古の神々では癒すことができない人間の苦悩を聖典の宗教は癒した。

 なれど人類が太古の神々が離れることは大きく災いをこの地上にもたらした。
 災いといっても人災である。
 自然の奥に生きる意志の存在を忘れた時、人類はかくも残酷になった。
 自然崇拝を忘れたことにより、地上に残酷でできごとがたくさんおこった。

 特に残酷な諸行をしたのが
近代の白人であった。
 彼らは、
人間を肌の色、髪の色、目の色で判断して差別した
 白人が優れていて、その次が有色人種、最後は黒色人種、その後に猿と
 いう感じで人間そのものを馬鹿にした。

 
古代の人々は決してこんなことはしなかった。
 彼らは
目の色や肌の色で人間を差別する事など決してしなかった
 なぜならば、古代人は自然を崇拝していたからである。
 
 目の色や肌の色で人間を差別する事は、
自然を冒涜する
 等しい事を古代人は、明確に認識していた。
 だからこそ決して、目の色や肌の色で人間を差別などしなかった。
 鳥が鳥であるように、馬が馬であるように、人間が人間であるように、それらは
 自然がそのように与えたものであって、一切差別されるようなものではない。

 もちろん古代にも奴隷はいたし、身分の差はあったし、尊敬された人もいるし
 軽蔑された人もいる。
 それは肌の色や目の色で判断されたのではなく、その人の道徳、行い、知性、
 感性などの徳目によって判断されただけである。
 古代人は、敵国の人間であっても尊敬に値する人は尊敬した。

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● 自然崇拝を失う怖さA

 このように人類が自然崇拝を失うことは、非常に怖いことなのだ。
 人工臭の臭いがプンプンするユダヤの教えに影響された者達は、いくらでも
 残酷になった。
 彼らはには、あらゆる生き物が同じ自然からもたらされたという認識を欠いた。
 だからこそ生きとし生けるものへの同情がなく、つまりは慈悲がないのだ。

 近代までの西洋社会では動物虐待は日常茶飯事であったし、人間は神から
 選ばれた者であり、さらにはキリスト教徒は選ばれた民だという理由で異教徒
 を情け容赦なく殺しまくったのである。
 
十字軍による残虐ぶりはつとに有名である。

 近代の白人による人種差別も、その根はユダヤ的世界観である。
 ユダヤ的世界観に影響されると人間はどうなるかを知りたければ、
 ハリーポッターに登場するスリザリンの
マルフォイの姿を見れば良い。

 マルフォイは、魔法使いの純粋な血統だけが価値あると信じ、魔法を
 使える人間(マグル)対して、強い軽蔑の態度を見せる。
 ともに大自然が与えられた命であるという認識がまるで欠けている。

 マルフォイは、いつも奥歯をかみ締めている。
 彼ががマグルを軽蔑する姿は、まさに
近代の白人の姿
 そのものと言える。
 人類が、自然崇拝を失うというのは、それだけ怖いことであるのだ。

 ここでは別に聖典の宗教を非難しているのではない。
 文明の発展における聖典の宗教の貢献は実に大きいし、聖典の宗教は人間の
 内面から発生した苦悩を癒してきた。
 ここでいいたいのは、どれだけ聖典の宗教を信仰しても、自然を崇拝する事を
 人類は忘れてはいけないのだ。
                                    
 『国宝の旅』より
 
 
人類が、自然崇拝を忘れる事は、つまりは人類が、自然から生まれた子供である事を
 忘れてしまう事を意味する。人間も動物も昆虫も、この地上にあるものは自然が生みし
 子供である。


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● 足跡を残す者達

 あらゆる民族の中から、国家の中から、階層の中から、人間の可能性の展開
 を試みる者が現れる。
 それを貫いた者は、たとえどれだけ貧しかろうが、身分がどれだけ低かろうが
 その歩んだ足跡の意味には関係ない。

 人間の可能性を展開し、生涯をかけてやり遂げた者は賞賛に値する。
 人々は心の底からその人を賞賛する。
 あらゆる時代に、あらゆる地域にそのような人々は見られる。

 それらの人々の中で、真に優れた人がいる。
 それが真の宗教家である。真の宗教家こそ、あらゆる分野の人々を越えて
 この大地で、人間が生きる意味を語る。

 この世界に生きる大多数の人々は迷妄と愚鈍の内にある。
 この世界は救いがたいように、我々人間も救いがたい。

 恐怖と不安におびえ、仏に助けを求める時があっても、一端、安全で安逸な
 場所に身をおけば、すぐにも神仏を侮る。

 強い立場になれば、態度は急に大きくなり、弱い立場になればその反対に
 卑屈となる。人間とは真に救いがたい。
 なれ仏はそのような人々も見捨てないのだ。

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● 人間なるもの@

 いつの世も、人間は自分達で問題を作り出す。
 人間のうちには、迷妄と愚鈍さが潜む。
 迷妄と愚鈍は、人間とは離れがたく一心同体である。

 時に転変地変が起きるが、多くの問題は人災である。
 自然が欠乏を見せれば、人間は、すぐさまその欠乏の為に争い起こす。
 自然が豊かさを見せれば、人間は、これまた強欲の為に争いを起こす。
 
 人間は変わらない。
 人間は確かにこの大地に立っている。しがみついている。
 だからこそ、この大地の影響をもろに受け、己の内に抱えた問題が、表に顕在化
 することで多くの苦しみがうまれた。
 嫉妬、意地悪、愚痴、差別、強欲 etc いくらあげてもキリがない。
 
 だからこそ、いつの時代もこの大地から解き放つ知性が必要であり、
 芸術が必要なのだ。
 真にある物があるのだという確信が、この大地にとらわれる欲望を薄める。

 真に偉大な作品を残す芸術家は、まさに人類を無言の内に争いから救い。
 真理を語った偉大な哲学者は、まさに人類に宝を提供するのだ。

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● 人間なるものA
 
 いつの時代も、人類の大部分は迷妄と愚鈍の内にいる。
 遊んで食べて飲んで寝るのが、ほとんどの人類の生涯である。
 食べて寝る、働いて寝るを繰り返す生涯である。
 いつの時代も変わらない。

 人類はそれでいて、真に偉大な作品を保存し、子孫に伝えてきた。
 真に偉大な人々が登場したときに、同時代の人々はそれがまるでわからない。
 わかっていても評価をしないのだ。

 なぜならば、天才の登場は救いであると同時に多くの人々には別の世界から
 きた人のごとくに見ている世界が異なるからだ。
 きまって、天才は生前に評価されることはない。
 いつの時代も、真に偉大な作品は、その作者が死後に名声を高める。
 そうして死んだ後にこそ、人類は悔やむことになる。
 もっと多くを彼から学べていたらと・・・・。
 
 人類の大部分は迷妄と愚鈍の内にいる。
 なれど、その評価は遅くなるのが常ではあるが、真に偉大な作品に対しては
 保存することを試みるのである。わずかばかりでも、人々の奥に永遠なるもの
 に対して畏敬の念がある為である。

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● 人間の罪と可能性@

 何ゆえ我々は、この地上に存在するのか?
 多くの宗教では、人間の存在自体に罪があるとみる。
 ヒンデュー教であれ、仏教であれ、キリスト教であれ、その点において一致する。

 ヒンデュー教では、人間は輪廻転生しながらカルマを受け継ぎながら、それらの
 カルマを刈り取りながら良い方向へと進むことにある。

 仏教では、その罪こそが苦であり、人間は悟りを開いて、涅槃の世界へとたどり
 着く事で救済される。悟りが開けない衆生は、仏を信じる事で、その仏の力に
 よって救済される。

 キリスト教では罪は、人間の原罪として表現される。それらの罪をキリストが
 背負った事で、また人々はキリスト教を信じることで天国へと生ける。

 我々には何らかの罪があるのやも知れぬ。
 でなければ、我々はこの世に存在する理由がないからだ。

 もし仮に人間に何らの罪もないだとしたならば、我々はこの世界に存在する
 理由はなく、苦しむことも救いなども不要であろう。

 我々の生は、肯定すればするほど、それと同様に苦悩が兆してくる。
 自然の意志を肯定すればするほど確かに我々は命を輝かせる。
 なれど同時に苦悩を背負い込むことになる。

 世界中の宗教の多くが輪廻の考えを有するのもそれが為である。
 この世界において修行し、罪を清算していけば、いずれは生まれる必要も
 なくなることを意味する。

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● 人間の罪と可能性A

 なれどまた思うのだ。仮にどのような罪を背負おうが、どれほどの苦悩があろう
 とも我々は生きている。この大地に立っている。
 英明な古代人が、人間の持てる可能性を展開したように我々もまたその可能性
 を有している。

 天才・民族の古代ギリシャ人は、誰よりも美しく人間の姿を現した。
 絵画で彫刻で詩で劇場で、人間の様を描いた。
 
 我々の人間の生に、苦悩という宿命があるならばこそまた美しく生きたいと
 人々は願ってきた。それが芸術を生み、学問を生んだ。

 美しい蝶は、その翼を広げ、楽しそうに花畑を飛ぶ。
 その草の陰にカマキリが控え、その刹那、命が奪われようと、その瞬間まで
 蝶は美しく羽を広げ、空を舞う。

 圧倒的な力をもった探究者の多くは、この世界の実相を捉えた。
 だが彼らは、嘆くことなく、それに立ち向かって進んだ。
 彼らは人間の美しさ、可能性を示した。
 シェークピアとゲーテは、それらを文学で表現した。
 ゴッホとミケランジェロは芸術でそれらを表現した。

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● 苦悩する美しき人間@

 生きんとする意志の肯定と否定とに、人間の喜びと苦しみ、救いがある。
 人々は神なるものを求めて進み、同時に苦しみからの救いによって仏が現れる。
 人々の救いを求める気持ちが仏をもたらすことになった。
 神を求める気持ちが芸術を生んだ。

 神と仏の間に文明もある。
 文明が主であろうとすれば、時に仏を追いやり、人々が仏を求める気持ちが
 強くなれば、文明そのものを衰退させもし、また神なるものが復活する。

 神と仏と人間と。神と仏と文明と。
 人類の歴史は、これらの
バランスの上に保たれる
 これらの力関係を把握し、人々の現実の生活を豊かにし、人々の神なるもの、
 仏なるものを上手に調節しながら人間は歩んできた。

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 ● 苦悩する美しき人間A

 古来より幾千年、あらゆる地域の人々は、この自然の奥にある力を敬ってきた。
 自然を肯定し、生きることは同時に、人間の中に多くの苦悩をもたらしてきた。
 自然の子として生まれ、そして自然の奥に潜む意志を否定することで救いの道
 を発見した人類は、仏へと辿り着いた。

 なれどまた、人間は動物である。
 我々は、自然から生まれ、自然の上で生きる。
 時に生きる事は、我々に苦悩を与えた。

 動物のように自然の中にまどろんでいられたならば、どれ程、良いだろう。
 そうであれば、人間の内から苦悩も生まれなかっただろう。
 なれども我々人類は、自然のまどろみから少し抜け出し半歩、外へと向かった。

 確かにそこには苦悩があり孤独がある。
 人間は、孤独を知り、悲しみを知り、苦悩を背負った。
 だが、それゆえに
我々は仏を見出すに至った
 人々は、仏にすがり救いを求める。

 人間が、自然のまどろみから少し離れて、苦悩を背負いながら、それでも進む時
 八百万の神々の想いを知る。
 我々人類は、
神々の良き友になりうる可能性を秘めている。

 人類が苦悩の中から仏を見出したように、また我々は人間の奥に神なるもの
 を見出すことができる。神々の姿を思い起こすことができる。
 なぜなら、我々人類は自然から生まれし子供である。

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       (*) 詳細は以下のサイトを参照。
  
      『 稲穂黄金の未来の文明
        『 稲穂黄金の未来の為政者へ






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