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仏なるもの |
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人々が集まり、都市を作り、国家を作り、そこで生きる内に人間の内部から苦しみ
が生まれてきた。太古の神々の教えでは、癒しがたい事であった。
● 悩みとは何か
悟りとは何かを知るには悩みとは何かを知らねばならない。
それでは悩みとは何か?
この世界に対する自然の対処を真に理解できていないことにある。
自然は、この世界に適切に対処している。
なれど我々には、自然の適切な対処はわからない。
自然が見せる姿は千差万別で、適切な対処だけを見せてはいない。
人間に付随する様々な欲求は、自然の一面をあらわしている。
その欲求を全開にすれば、たちどころにこの地上には争いが満ち満ちる。
自然から生まれた人間は、それゆえに苦悩した。
釈尊はまずこの世界の真の姿(=実相)を人々に説いた。
この世界の姿を正確に説くことで、それに対して、自然がどう対処しているかが
よりわかりやすくなった。
もちろん、自然の姿は、そのような対処ばかりを表現しているのではない。
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● 悟りとは何か@
悟りとは何か?
この世界に対応する時の自然の対処の1つ1つと言える。
または、この世界の彼方に存在するという対処の1つ1つであるとも言える。
自然の対立関係のものを言えといえば、それは世界である。
正確には表象の世界である。自然は意志を表す。
よって、意志と表象の対立と言える。
意志と表象の世界の2つであるが、対立しながら、折り合いもつけている。
自然は、この世界の中で己を展示させることを欲するからこそ、自然はこの
世界のルールを考慮に入れた。
自然はこの世界に対処する。
その対処がうまいか下手か、最善か次善かは、人間にはわからない。
だが1つだけ言えることがある。
自然の対処以上に最善な対処を人間が取れる事はない。
なぜならば我々は自然を母として、母から生まれ、母の懐にいるからだ。
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● 悟りとは何かA
誰よりも最善の対処を理解しているのは自然である。
だからこそ我々は自然から多く学ぶのである。
そのことを仏教の開祖である天才・釈尊は、誰よりも理解していた。
仏道を進むもので、自然を安易に見るものなどいない。
確かに自然には、最善の対処が含まれてはいるが、それらを人間はどこまで
理解できるのだろうか?その対処を得ることは果たしてできるだろうか?
仏教では、それは心配はないと主張する。
あらゆる対処をマスターしている究極の存在があるという。
それが仏である。
我々人類には、その仏様の慈悲が降り注いでおり、涅槃の世界にたどり
着ける可能性を有している。
この世界には法があり、それを理解することで涅槃の世界へと入れる。
我々人間は、その仏様に少しでも近づくことを目標とする。
1つ1つの対処を知り得る事を、悟りを得るという。
悟りに向かって進む時の人間の姿こそが菩薩である。
菩薩から悟りを得て如来となる。如来となりて、人は涅槃の世界へと導かれる。
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● 我々の内部に存在する仏
地獄もあれば天国もある。それらは確かに人間自身が作り出す。
この世界には多くの苦が存在する。人はそれらに自ら火をそそぐことがある。
この世界は三千世界。人はあらゆる世界に進める力をもつ。
時にたいそう、悪い世界に進むこともある。
どんなに悪い世界に落ちようが1人ではない。仏様がついている。
人が進むところに必ず仏が存在する。
なぜならば、仏は我々人間1人1人の中にこそ存在するからだ。
この世界には法がある。
その法は誰かのものではなく、あらゆる人々の共通の法である。
釈尊とて例外ではない。釈尊は法を作ったのでもなく定義したのものでもない。
釈尊誕生以前から、この世界には法がある。
悪い世界に落ちたならば仏を信じ、一心不乱にお経を唱えることである。
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● 自然が見せる姿
それらの法を、ときおり自然も表す時がある。
それゆえ我々が自然から学ぶことはたくさんある。
確かに自然は、我々の教師であり教科書の一面をもつ。
なれど、自然はそれだけではない。
自然は美しい風景を提供する美の神かと思いきや、一転して大地を揺らし、
火山を噴火させる怒りの神とへ変身する。
人々の諸行に怒り、この大地に干ばつ、貧困、疫病をはやらせる。
何かの命を奪わなければ、生を先へと延ばせない欠乏の世界。
自然界は弱肉強食の姿をみせ、まるで悪鬼のごとくでもある。
ギリシャの哲学者アリストテレスは、自然は悪神だと述べた。

アリストテレス
人間が勝手に自然を決め付けると、自然はまったく違う様相を我々に見せた。
だからこそ、太古の昔から我々は、自然を畏れ敬った。
大地の豊作に感謝の心を奉納し、また止め処もない自然の猛威を沈める為
に神に陳情した。
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● 自然と世界、神と仏
この世界は、諸行無常、千変万化である。
さまざまな要因によって、あたらな結果がもたらされ、その結果が再び原因と
なり他のものへ影響を与えていく。
自然は本来の姿を展開しようと欲する。
なれど、この世界のルールには自然もある程度、従わざる終えない。
世界のルールに合わせて自然が諸行無常へと対応したのか?
それとも、自然はこの世界ではこのような対処を強制されたのか?
世界と自然との境目ははなはだ不可思議であり、人間には不可知である。
自然の生きんとする意志と表象の世界は共に対立し、そして時に協力する。
人間にはそれらの姿を全て捉えることはできない。
自然はその対処方法を見せてはいても、人間はそれを捉えきれない。
また自然はその対処方法のみを展示しているのでもない。
自然の奥に存在する神々。
生きんとする意志である神々。
なれど仏は、生きんとする意志の影響が及ばない世界に鎮座する。
仏は、この世界のあらゆる法を体得している。
それゆえにこそ、どのような衆生に対してもその救済方法を保持している。
仏は大慈悲をもって、この大地に生きる我々人間に手を差し伸べる。
真の仏僧は、この大慈悲を己の中にもち、この大地を進む。
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● 宇宙の教えと仏教、そして自然
仏教の世界観とは良く宇宙の世界観に例えられるのも、仏教の悟りの境地
がこの世界に果て(奥)に存在すると理解されているからだ。
仏教の教えとは自然の観点から見れば、自然の対処である。
この世界に対する自然の対処である。
世界の観点からみれば、世界中にある普遍的なルール=法である。
自然がこの世界に対して、どのように適切に対処しているかを知ることが、
つまり仏教ではいう悟りである。
適切な対処を完全にマスターしているのがすなわち仏である。
釈尊は、まず悟りを開く意義からわかりやすく説明した。
確かに仏教は、自然そのものとはそれほど強くは関わらないが、だからといって
自然そのものを軽視することなどは、決してない。
自然の内に適切な対処が時に見られる。
釈尊がそうであったように、仏教徒の根底には、自然への愛着がある。
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● 天才・釈尊
釈尊は、人間が不可知な点について、敢えて語ることは事はしなかった。
人間が知れる範囲について釈尊は言及し続けた。
人類が生んだ天才・釈尊。
釈尊はこの世界と自然が織りなす関係を見抜いた。
諸行無常、千変万化、因縁因果、悪因悪果、善因善果・・・・・etc。
この世の真理が、釈尊によって語られた。
釈尊の言葉を弟子、そのまた弟子達は受け継ぎ、経典へとまとめた。
膨大な経典。

釈尊
1にして多、多にして1。
様々な事が1つの真理からもたらされ、また反対に1つの事柄が、さまざまな
真理と隣接する。釈尊の目には見えていた。
この世界の真の有様(実相)が見えていた。
自然の上で生まれし者達は、生まれては死に、死んでは生まれる。
それらを永遠に繰り返し、未来へと命をつなぐ。
この世界は諸行無常であり、あらゆるものが変化する。
自然の上で生きる子らに、生と死を与え、各個体は確かに滅びはするが、
同時に、新たな個体が命の輝き、喜びを称えることになる。
絶えることなく、繰り返される命の営み。
その中で人間は何に寄り添い、何の為に生きるのかを釈尊は説いた。
動画 テキスト
(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の釈尊 』
● 善因善果と悪因悪果
悪の行いをすれば、いずれその悪が返ってくる。
良い行いをすれば、いずれその善が返ってくる。
人間の目には見えぬが、様々な因果が重なって結局は己に返ってくる。
この世界は悪因悪果であり、善因善果である。
仮にこの世界において人々が悪い行いをしても、
その悪さが結果的に悪として再び戻ってこないような事があれば、
この世界はどこまでも悪くなるだろう。
それゆえ、この世界はもはや存続できぬだろう。
仮にこの世界において人々が良い行いをしても、
その良さが結果的にこの世界に善として再び戻ってくる事がないならば、
この世界には救いがない事になるだろう。
それゆえ、この世界は存続する理由もないだろう。
どういう因果よって、そうなるのかを人智で捉える事は確かに不可能である。
なれども、悪い行いをすれば、いずれ悪い結果がもたらされる。
良い行いをすれば、いずれ良い結果がもたらされる。
そのつながりは、人間の知性では判断できないが、確かにそれらは因果の鎖
でつながっている。
この世でそれらをごましか抜いて、しめしめと思っていると、あの世で一気に
その因果の果を支払わされ、とんでもない目に合うことになる。
動画 テキスト
● 外と内の対処
自然はこの世界に対処する。
その対処は、人間の外面に限られたのではない。
人間の内面に対しても適切な対処がある。それが法である。
我々は、だからこそ自然を観察し、その法を知る。
この世界のルールに対して、自然が見事に対処したように、また人間の内面に
もあらゆる苦を救う最善の対処がある。
我々人類は、それらの最善の対処を知り得ることは可能か?
我々人間もまた、自然の子供であるから可能だと言いたいところである。
なれど誰もがそう言えなかった。その道がまるで見えなかった。
それでは答えどうだろうか? 答えは可能である。
可能であることを天才・釈尊が人類に示したからだ。
釈尊は、あらゆる法の存在をを示すことで人々に示した。
人類が生んだ天才・釈尊がこの地上に生まれたことにより、人々はその法を
存在を知ることになった。
自然に四季があるように、自然の上に生まれた人間も、この世界の法に
沿っている。
諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦などの教えを真に理解する事で
人間もこの世界に対応できること述べた。
仏教の叡智は、衝撃をもって世界に知らされた。
仏教が入り込んだ国において、もっとも知的に優れた者たちがその教えに
共感し、帰依した。仏教はそんな選りすぐりの者達によって支えられた。
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● どんな人の内にも仏は現れる
自然から、もたらされた生命であればこそ自然より上手にこの世界に対処
できるということはありえない。
我々は自然から生まれた子に過ぎないからだ。
さらに言えば、それらの自然の対処方法について我々が全容を理解すること
自然は、時にこの世界の真理を教えはするが、大半はベールに包まれる。
包まれているという表現は正確ではない。
実際には、自然はあっけらかんと真理を表現しているものである。
なれど我ら人間がそれを理解できない。
人間はどこまで、自然の対処を知りえることが可能であろうか?
その最高の対処まで、人間の力で辿り付けるのだろうか?
それは不可能に近かったが、しかし可能になった。
天才・釈尊の登場によって、それが可能となったのだ。
釈尊が、法の存在を知らしめ悟りの道へ誘った。
釈尊が法を作ったのではなく、あらゆる人々の中に法がある。
法があるところ仏は存在する。
どんな人の心の中にも仏は存在する。
どんなに暗闇の中でまったく光が届かない世界に到達したとしても、人間の
中に法があり、それを真に理解し、救いを望むのならば仏は現れる。
どんな暗い世界であろうが、冷たい世界に落ちようがである。
仏僧は、仏の存在を衆生に知らせ、仏の教えに人々が帰依するように導く。
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● 釈尊以後の悟りの道と救いの道
釈尊は実に様々な教えをこの地上に降ろした。
釈尊の死後、数百年が経過すると、仏教にも2つの大きな潮流ができた。
釈尊が辿ったように悟りの道に邁進する道が1つ。
慈悲心を第一に掲げ、衆生を救う道がもう1つ。
修行僧だけが救われる道であるのか、多くの衆生を救う道を進むのか。
もちろん、多くの優れた僧は2つの道を歩んだ。
衆生の多くは、当然救いを望んだ。
この世界に対する自然の対処、それらの法を全て理解する仏。
その仏の力が、様々な悩み、欠乏、苦しみを現実的に癒してくれるという思いが
人々に仏像をつくられ、その仏像を通してその奥に仏の姿を見ようとした。
観世音菩薩 ・・・・ 知恵をさずけ悟りの境地へと導き救う
千手観音 ・・・・ どのように至らない衆生でも救う千本の手
薬師如来 ・・・・ 衆生の疫病を治癒して寿命を述べす仏様

千手観音
様々な仏像が作られ、人々は仏像の前で手を合わせて拝んだ。
もちろん、釈尊の時代にはこれらの仏像はなかった。
釈尊自体は、偶像崇拝については正しいとも誤りとも入っていない。
特別に気にしてなどはいない。
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* 偶像崇拝をとかく嫌うのは一神教である。
釈尊もイエスも、偶像崇拝についてとかく否定も肯定もしていない。
● 優れた者達により受け継がれし仏教
仏教の歩んできた道を見れば見るほど、その時代の最高の知識人によって
受け継がれてきた。時代時代によって解釈、解説がなされている。
日本においても行基、最澄、空海、法然、親鸞、道元、日蓮、栄西、一遍など
あまたの優れたる者達が登場した。
これは日本だけの事ではなく、中国、インドにおいて優れた者達に支持された。
インド、中国では、真言八祖の龍樹、金剛智(こんごうち)、不空三蔵、
恵果阿闍梨、など優れた者たちを輩出した。
日本においても身分の良い家柄で、知的に優れた者達が仏門に入った。
現代は、そうかと言えば、残念ながらそうではなくなってしまった。
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● 仏教の自然観
仏教は、自然がいかなる神々によってなされるかを問うことはないし
この世界の第一原因などを探すことなども決してない。
人間が不可知であるものについて、存在を肯定も否定もしない。
その態度は、釈尊がそうであったからだ。
釈尊は、これでもかこれでもかと言うほど、荒行を含めてあらゆる修行を行った。
人間は何が理解できて、何が理解できないのか、その境をこの地上に生きる誰
よりもはっきりと認識する程に至った。
だから、釈尊は人間の不可知のことについては、敢えて語らなかった。
人間には元々わかりえない事をああだこうだと考えてもそれはわからないまま
であるからだ。
反対に人間にはわかりえる事は、この地上の誰よりも釈尊は体得した。
自然の有り様を捉え、そこから汲み取れる真理のみを展開した。
この世界の有り様は、全て因縁因果よって表されている。
今から1200年前に日本が生んだ天才・空海は、こう述べている。
『仏教では、神話の神とか第一原理というような存在を否定も肯定もしない。
全てのものは因縁によって生ずる、という理法にもとづいて有を観察する。』
日本の優れた仏僧の中でも最高峰の位置にいる天才空海
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の空海 』
『 稲穂黄金の最澄 』
● 仏教は自然を否定しない
仏教は聖典をもつ宗教ではあるが、自然そのものは決して否定しない。
仏教のいう悟りとは、また自然の中にも同様に内包されているからだ。
仏教は法前仏後である。
何よりも、始めにこの世界には法があることを宣言する。
この法の後に、釈尊がいるし、仏が存在する。
仏はこの法を作ったものでも、勝手に変えられる力を持つ者ではない。
仏は、それらの法をことごとく体得している。
仏教の素晴らしき道は、この認識を土台に進むことから始まる。
仏教は、これらの悟りをただ一介の聖者の為ではなく、限られた人々の為では
なく、ありとあらゆる衆生に対して、その人のレベルにあった教えが授かると
いう大慈悲を説くのである。仏教の基本には慈悲があり、愛がある。
仏は、ことごとくの法を体得し、かつあらゆる人々を救うのである。
名僧は、自然を安易に見ることなどない。
仏僧は、自然から多くを教わるのである。
もちろん自然から教わることだけが仏教の本義なのではない。
仏教は、そこから大慈悲の心をもって進む。仏がそうであるように。
人類史上もっとも偉大な釈尊の生涯は、まさに慈悲を説き、慈悲を実践した。
また釈尊の真の弟子であるイエスもまた、愛に貫かれた生涯を送った。
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● 本地垂迹説と反本地垂迹説@
本地垂迹説と反本地垂迹説が日本において昔から何度も登場し、神道家、仏僧
を含めて様々に議論されてきた。
この点について釈尊ならばどう答えるか。
何も答えまい。
敢えて答えるならば、それは人間不可知と述べるだろう。
自然が世界に対して柔軟に対処しているのか?
それとも自然は、必然的に対処しているのか?
または自然は、世界に強制的に対処させられているのか?
それらの事は、人間にとってどこまでも不可知の問題である。
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* 本地垂迹説 ・・・・・・ 仏⇒神の順番で登場した。あくまで主体は仏
反本地垂迹説 ・・・・・・ 神⇒仏の順番で登場した。あくまで主体は神
事実はどちらでも良い。それらの全容は、人間にとって不可知である。
● 本地垂迹説と反本地垂迹説A
どこまでが自然で、どこまでが世界なのか、その境界は人間には計りかねる。
その境について人間が完全にわかることもないし、また自然と世界がどのよう
な関係にあるかの全容を理解することなどはできない。
確かに脳の上で繰り広げられる因果の世界、つまり表象の世界に生きんと
する意志が入り込む事はある。その時は、必ずルールが課せられる。
そのルールこそが自然法則である。
しかし、その自然法則でさえ、人間は完全に理解できていない。
科学者は、その法則の全容を努めようと欲している。
そうして自然の上について起こる様々な事について科学者は理解を深める。
未来においては、現代の人々では知りえなかった多くの事がわかるだろう。
確かに人類は自然の上に起こったものについては理解を深める。
なれども、自然そのものについては、まったく理解できない。
世界と自然の関係は、つかず離れずの関係に見える。
しかしそれがどこまでの関係があり、関係がないのかなどまるで理解できない。
世界と自然の関係の全容など、人間にはまるでわからない。
釈尊は、人間不可知の事について、ああだ、こうだ、とは言わなかった
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● 科学と仏教
仏教は、科学のようだと言われる。もちろん、仏教と科学は等しくはない。
なれど以下の点において科学と類似している為に科学だと言われるのだ。
@ 釈尊は確かにこの世の真理を語った。
A 釈尊は、人間不可知の事は、敢えて語らなかった。
仏教の開祖、釈尊はまさしくこの世の真理を語った。
人間の内面の真理、つまり悟りに語るのが1つ。
人間の外面の世界、つまり自然が織り成す中から、この世界の実相を知る
ヒントを得ること。つまりはこれが科学の真理。
さらに、釈尊は人間の不可知の事は、あえて語らなかった。
これが特に重要である。釈尊は人間の知性で判断つかない事は、語ることは
しなかった。 釈尊は人間が知れることについて語った。
この態度こそが本来の学問の態度であり、科学の態度でもある。
もちろん仏教の進んだ道は、実相を知る以上に、内面に対する悟りに重点が
おかれて、自然の実相を知った後に、それらを技術化して応用して工学などに
生かそうなどということは生まれなかった。
それゆえに仏教は、宗教の中の科学とも言える。
あらゆる宗教の中で、自然の本質を捉えている。
(ヒンデュー教もまたその一面を持っている。特に聖典ヴェーダ)
勝手な解釈をいれずに自然を中から真理を汲み取っている。
この世界を的確に捉えて、世の人々にこの世界の実相を知らせた。
動画 テキスト
(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の釈尊 』
『 稲穂黄金の究極の科学 』
● 科学者を魅了する仏教@
20世紀に、量子世界の探求に本格的に入った科学。
量子力学を切り開いたボールス・ニーアは、この世界の出来事は、
偶然であり必然であることを理解した。
ボーアの自然観は、ショーペンハウアーそっくりである。アインシュタイン、ボーア、
シュレーディンガーなど近代の優れた物理学者は皆、ショーペンハウアーから学んでいる。

ニールス・ボーア
この世界のあらゆる出来事は、原因と結果により必然の関係を持つ。
ある物質が原因により変化する。確かに因果の関係がある。
これが必然である。
なれど、その1つの因果の結びつきを生み出す以前に、物質はあらゆるものに
接していた。この意味で偶然である。
あらゆるものに接していたが、たまたまその1つと因果の契約を結んだ。
我々の眼前で起こる出来事は、必然であり同時に偶然である。
起こった出来事を観察の世界から思考の世界に舞台を変えて、数式で表現する
時に偶然の部分を考慮する必要が出てきた。
選ばれなかった可能性を考慮する必要が生まれたのだ。
それゆえにここに確率が導入された。
観察の世界と思考の世界にはその点の違いがあることを考慮して、ボーアは
確率の考えを導入して、コペンハーゲン解釈を作り上げた。
ボーアは、それらの事をショーペンハウアーから教わったのだ。
人類史上最高の頭脳をもつ哲学者

ショーペンハウアー
これらの事は、数千年前に、既に言葉は違うが仏教でも同様に語られている。
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● 科学者を魅了する仏教A
確かに現代の科学は、深遠さを増している。
ここ数百年の科学者達の頑張りによって、辿り付いた地点も高い。
なれど量子世界で明らかになりつつある性質は、既に数千年前に仏教に
おいて言葉は違えど語られている。
例えば、華厳経の事事無碍法界(じじむげほつかい)である。
『 現象界は互いに作用しあい干渉し合って、
一と多が無尽に縁起しあう、まことに不思議な関係にある。 』
この世界は、一と他が触れあいながら、様々な偶然によって縁起(因果関係)
しあう不思議な世界であるということを述べている。
これなどは、先ほどコペンハーゲン解釈が導入された背景にあることとそっくりと
さえ言える。
ちなみに華厳経とは、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)が菩提樹の下で成道
なされた時に普賢菩薩等の諸々の大菩薩たちとともに、広くこの華厳三昧の
教義を説いた時に語られたことにある。
毘盧遮那仏とは、奈良の大仏様である。
空海 秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)

空海がどれほど深遠な内容を考えていたかが伺いしれる
現代において洋の東西を問わずに優れた科学者の多くが仏教に魅了されるの
も当然といえば当然である。量子世界の探求に入った科学において、これから
優れた科学者の多くが、仏教の叡智に魅了される時代が来るだろう。
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● 仏教と現代科学の親近性
仏教では自然が何であるかは問わない。
同様に現代の科学においても、自然が何であるかは問わない。
量子力学の父、ニールス・ボーアは、この自然についてこう述べた。
『自然がいかにあるかを見出す事を物理学の任務だと考える事は誤りである。
物理学は我々が自然について何を言うことができるかに関するものである。』
我々人間は、自然の一面を見ているに過ぎない。
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● 宗教と科学のパラドックス@
仏教は、その昔、最先端の科学であった。
その教えは深遠で、自然のありようを驚くほど的確に捉えていた。
現代の科学者の多くが、仏教に惹かれることにも訳がある。
なれどまた実際の科学との違いももちろんあった。
一般的に科学に求めれたのは、目に見える作用にまで還元し、それを
技術として利用することであった。
科学技術の面が求められた。
仏教では、見抜いた真理を技術に結んで発展させることにはつながらなかった。
もちろん仏教の普及に伴って、当時の最先端の建築技術や鋳造技術が
普及していった。
なれど仏教の教えから、科学の発展には結局つながらなかった。
仏教は、その救いを人間の救済の為に学ぶが、それらを現世的な利益に
結ぶつけるということがなかった為である。
現世的な利益の為に、仏教が動くことはなく、仏教の救いは人間の内面の
救いにこそ集約されていくからである。
仏教はまさいく因果論であり、この世界の実相をとても深いところまで見抜いて
いたのであるがその因果論を利用して科学を再構築することなどはなかった。
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● 宗教と科学のパラドックスA
それでは反対に科学はどこから発展してきたかというと、
因果論を否定した場所から科学は発達した。
絶対神によって創られた世界を歌う一神教の中からこそ生まれてきた。
これはマックスヴェーバーが資本主義が、資本の増大に価値をまったく見いださ
ない人々から生まれてきたということと類似している。
中世ヨーロッパの探究者の間に因果論が入ってきた。
探究者は、その因果を確かめるべく実験を試み、検証することを試みた。
多くの実験を通して、この自然の中には、聖書にはまったく書かれていない
自然の様々な諸力が隠されていることに気付き始めた。
キリスト教は、潜在的に神秘的な事を畏れる衝動をもつとユングが言ったのは
つまりは、聖書に書かれていないことが、実際に起こると聖書の絶対性が
揺らぐ為である。それをキリスト教指導者層は恐れた。
多くの探究者は、宗教指導者層の強力な弾圧にもめげずに進んだ。
この時代の探究者は命懸けであった。
因果論からもっとも遠くあった一神教のユダヤの教えを母体にしたキリスト教が
普及していた中世ヨーロッパにおいてこそ科学が生まれてきた。
因果論を否定する場所から因果論を基底とする科学が生まれたパラドックス。
仏教 ⇒ 因果論 ⇒ 科学的利用はない
キリスト教(ユダヤ的) ⇒ 神の計画 > 因果論 ⇒ 科学が発展
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の未来の科学者 』
● 20世紀以後の科学と仏教
20世紀になって、科学が量子世界に入ると、事情は変わってきた。
優れた科学者の多くが仏教に注目するようになった。
量子世界で語れることが、既に仏教で語られている。
多くの類似点を示しているからだ。
今後の21世紀、22世紀において、仏教は科学者に多くのヒントを与えるだろう。
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● あらゆる救済法を知り尽くす仏
生きんとする意志の影響を受けない世界、影響を脱した世界に鎮座する仏。
仏は、自然がこの世界に対処するすべての対応を知り尽くしている。
さらに仏は、この世での人々を救う為のあらゆる救済法を知り尽くしている。
我々人類は仏に近づくように努力する。そうしてまたその仏によって救われる。
大日経ではこう述べられている。
『 如来・応供・正編智である御仏は、一切智智(いっさいちち)を
体得されて、無量の衆生の為に、それぞれの性質や欲望に従って
それぞれにもっともあった教えを説かれる。』
これらの悟りを人間も1つ1つ手に入れ、悟りの最高の位『仏陀』に近づく。
この時に、涅槃の世界に入る。

仏陀(=釈尊)
眼前の世界に、大地があり空があり宇宙がある。
天体は、様々な法則によって動かされているように、我々の内面にも宇宙があり
様々なルールによって動かされている。
それらのルール、つまり法を知ることこそが仏の道へとつながる第一歩であり、
それらの教えを体得し、かつ慈悲心をもって人々を導き救うのが仏僧である。
仏教の歩んできた素晴らしさは、いくらいっても言いたりない。
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● すべてを語りつくした釈尊
釈尊の登場によって、人類は法の存在に気付いた。
釈尊はそれらの法を語りつくした。
釈尊は死が近づいた時、最後にこのように弟子達に語っている。
『 私の亡き後は、わたしの説き遺した法がお前たちの師である。
この法を保ち続けてわたしに仕えるようにするがよい。
弟子たちよ、私はこの人生の後半四十五年間において、説くべきものは
すべて説き終わり、なすべきことはすべてなし終わった。
わたしには、もはや秘密はない。
内もなく、外もなく、すべてみな完全に説きあかし終わった。
弟子たちよ、今やわたしの最後である。
私は今より涅槃に入るであろう。
これが私の最後の教誨(きょうかい)である。 』
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● 命懸けの人生
釈尊の生涯とは人々に法の存在を知らせ、全ての教えを降ろす事であった。
この大地に、釈尊のような人がいたという事実が、人々を励ますのだ。
己のことから離れ、その生涯は全人類の為にあった。
このような人がいたと知ることが、どれ程人々を勇気づけたか。
釈尊しかり、イエスしかり、最澄しかり、空海しかりである。
いつの時代にも人々を真に励ます人々がいる。
ごまかしなど、まるできかない。
まさに命懸けの人生である。
彼らは現世的な幸せなど目もくれず、自己実現などというものなど目もくれず
その生涯は、常に人類に投げかけられていた。
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● 大きな差異@
現在、流行の成功哲学がある。
宗教と成功哲学には大きな差異が存在する。
差異というよりも意味するところが180度異なる。
成功哲学とは、この資本主義下こそ生まれた。
資本主義下において、いかに成果を出すかに掛かっている。
成功哲学の成功とは、資本主義下での成功を意味する。
経済的な富、社会的な名声、社会的な地位、人々の信頼、自己実現、
夢の達成などなどである。
近代の成功哲学を築いたナポレオン・ヒルは、資本主義下で成功した人々の
共通項を抽出して、成功哲学の本をまとめた。
ここでは成功哲学を否定しているのでは決してにあ。
確かに成功哲学を実践することで、成功をもたらす確率はぐっと高まる。
熱意をもって取り組むこと、情熱で人々も動すること、手帳を利用して計画を
明確化すること、人の信頼たる規範意識をもつこと、
それらの事は確かにビジネスには有用である。
ビジネス以外の人々との付き合いにおいても重要であろう。
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● 大きな差異A
これらを成功哲学の要素を取り入れることで、確かに実社会で実際に
得るものは多いだろう。会社で出世したり、多くの仕事を任せられたり。
経済的な富を得ること、名声を得ること、さらに人々の信頼を得ることも
できるだろう。
だから、成功哲学を理解し、マスターすることが悪いなどとは言わない。
それはそれで必要なことでもあろう。
だがここで言いたいのは、真の宗教というのは、そういう考えからは程遠いと
いうことである。そもそも成功哲学が成功と決めている内容が、宗教においては
特に重要なものなのではない。
釈尊は自己満足、自己実現する為にその道を歩んだのではない。
イエスとて同様である。
何かの見返りを期待して彼らは、この人生を歩んだのではない。
さらに言えば、富や名声や地位や信頼など、それよりも大切なことがあることを
釈尊は語ったのである。
わざわざこういう事をここで語るのも、成功哲学の視点から宗教が語られる事が
ないようにする為である。
宗教と成功哲学は、まったく意味が異なる。
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● 敢えて下層に降りていく@
偉大で、優れた人々が、もっとも下層な位置に下りていった。
釈尊は釈迦族の王子であり、裕福であった。
頭脳は明晰であり、かつ美男子であった。
すべてを兼ね備えていた釈尊は、そのまま何不自由なく暮らせた。
彼はあらゆるものを投げ捨てて、もっとも低い場所まで降りていきた人々と
共にいきた。釈尊は地位も富も、家族の幸せすら全て捨てて、最下層の貧しい
人々と共に生きた。彼の名は現代でこそこれだけ伝わっているがその生涯に
おいて大半は、無名であった。
彼の周りには救いを求めるたくさんの人々が集まった。もちろん何の富も
ゆうしていない貧しい人々が多く集まった。
仏道を広める為に、食べ物を衆生から感謝していただく偉大な釈尊の姿を
見たときにい誰もが涙する。
これほど偉大な方が、名もなき貧しき、時に卑しき人々からも感謝をして
食べ物をいただく姿は、
イエスの生涯も同様であった。
イエスもその生涯は無名であり、異端者のごとくに思われていた。
彼もその教えを広げる為に、無名の多くの人々に支援によって布教活動を
続けた。名もなき貧しき人々からの喜捨に感謝をするイエス。
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● 敢えて下層に降りていくA
法然上人、親鸞上人、道元上人、日蓮上人もその生涯のほとんどが無名であり
かつ異端者扱いであった。
そんな彼らの周りに、名もなき貧しき人々が集まった。
もちろん、これらの偉大な上人が、人々を施せるわけでもなく、名もなき人々
の多くの喜捨によって、布教活動を続けることができた。
これらの偉大な者達は、現世的なものを何も持たなかった。
富ももたなかったし、地位もなかった。生前には名声などほとんどなく
それでいて名もなき人々が周りに集まった。そういう人々と共に生きたのだ。
彼らがその才能を自分自身の為に、いかんなく発揮したならば、彼らは
どれほどの地位と名声と富を手にいれたことだろうか?
彼らがその才能を家族の為、一族の為、利害の一致をみる共同体の為に
発揮したならば、どれほどの富を手に入れたことだろうか?
なれど彼らは、それらには目もくれずに名もなき人々と貧しき人々と共に
いきたのだ。これらの偉大な人々がいたという事実に心から感動する。
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● 神道と仏教の差異
自然からの視点で、神道と仏教を語るならばこうなる。
仏教は、この世界に対する自然の適切な対処を知ることにある。
神道は、自然そのもの、自然がもつ本来のその輝きを知ることにある。
自然のこの世界への適切な対処が、仏教でいう悟りであり、真髄である。
自然の美しさ、命の輝き、そこに喜び感謝することが神道の真髄である。
自然がこの世界にどのように対処しようが、それに関わらず、本来の自然が
もつその力、本来の力にこそ畏敬の念を掲げるのだ。
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● 神仏習合
日本には古来より神仏習合の国である。
自然の命、自然の力そのものを尊ぶ = 神道
自然がこの世界に対して調和することを知る = 仏教
神仏が揃ってこそ日本である。
神仏が現れてこそ、日本美しく、輝く国となる。
真に仏教に精通する人は、必ず神道に理解を示す。
最澄や空海、日蓮や親鸞、道元や栄西などは、まさに神道家といっても良い程
上なる(神なる)ものを大事にしてきた。
同様に真に神道に精通する人は、必ず仏教に理解を示す。
上なる(神なる)者を体言する歴代の天皇様、皇族の方々の多くが仏教に
親しみ、引退後は出家して門跡寺院の門をくぐった。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金の最澄 』
『 稲穂黄金の法然 』
『 稲穂黄金の親鸞 』
『 稲穂黄金の道元 』
● 神なる道と許し
神道は上なる(神なる)ものを掲げる。
人間にとって進んでいくべき、目的地が何かを神道は示す。
その向上していく目的地こそ神なるものである。
なれど人間はそれが上なるものとは知りながら、多くの人々はそこへ近づかず
反対に下なるものへ近づく者達もいる。
誠実であるよりは、不誠実であることを。
勤勉であるよりは、怠惰であることを。
学問を行うよりは、遊ぶことを。
人を褒めるよりは、人をけなすことを。
人の幸せを思うよりは、妬みと嫉みを。
確かに人間は救いがたい面をもつ。悪なるものを多いに有している。
贔屓目に見ても、こんな人間が簡単に救われることはないと思われる。
上なるものがわかっていても、それに近づこうとしない人間。
そんな人間に対する許しが仏である。
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● 神がいるからこそ仏が存在する
神なるものがあるからこそ、仏が強い力を発揮できる。
人間が上なるものを理解し、それでも上なる方向へ進めない人間の弱さに
対して仏の慈悲の光がでるのだ。
確かに人間は救われがたい。人類の大部分は迷妄と愚鈍の内にある。
救われるようななにがしかでもない。
生きながら阿鼻叫喚の地獄を彷徨う者もいる。
生きながら罵声、怒声の飛び交う修羅の世界に住む住人もいる。
生きながらに人を欺き、裏切り、己すらも信じない孤独な者もいる。
それらの人々であっても、心からそれを省みて仏に救いをこうならば、仏様は
手を差し伸べるのだ。仏とは誰の心の中にも存在する。
心に迷いが生じるのも、神なるものに近づこうと欲する意志があるからだ。
だからこそ釈尊はこう述べた。
『蓮華が汚い泥の中で咲くように、
誤った見方や迷いから仏の種が生まれる。
あらゆる危険をおかして海の底に降りなければ
値も知れないほどにすばらしい宝は得られないように、迷いの泥海
の中にはいらなければ、さとりの宝を得ることはできない。
山のように大きな、我への執着を持つ者であってはじめて
道を求める心を起こし、悟りもついに生ずるであろう。』
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● キリスト教と仏教@
イエスの生涯は、仏教の名僧のそれである。
聖書から知れるイエスの人物像は、仏教の名僧のそれである。
イエス・キリストは30歳を過ぎた頃から急速に各地で布教を活発的に行う。
その数年前に、イエスは目覚めたはずなのだ。
エジプトにいる僧侶から、東洋の教え=インドの教えを知ったに違いなのだ。
それも仏教の教えを中心にして知ったのである。
だからこそイエスは急激に目覚めたように活発に布教活動したのである。
イエスは間違いなく釈尊の弟子である。
それも名僧の1人ではある。
東洋ではイエスと同等の者達は多く生まれていたが、西洋ではまったく珍しく
それゆえにイエスの教えは、イエス死後、驚嘆と尊敬の念をもって中東から
ヨーロッパ全域に広がっていった。
イエスは、釈尊の教えを素直に吸収した。
東洋では釈尊の叡智は知られていたが、西洋では、仏教の知識はまさに
最先端の知識であった。イエスは釈尊を知ることで、その道が開けた。

イエスはユダヤ教の影響下の場所で生まれた。
彼の生まれ故郷に住むユダヤ人たちこそ、仏教の叡智で目を覚ます必要が
あることを彼は誰よりも実感したのである。
その教えはユダヤ人にこそ向けられるものであった。
キリスト教は、ユダヤの教えを取り入れそれを旧約聖書として、イエス以降の
仏教の教えを新約聖書とするようになった。
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● キリスト教と仏教A
キリスト教の修道院での神父さんやシスターなどの境涯はまさに仏教の僧に
おける境涯と同じである。
仏教は、自然の奥にある生きんとする意志を否定する事により救いを見出す。
同様にキリスト教もそうなのである。
仏僧は、殺生をせぬ為に肉を食べずに野菜中心の質素な食事をする。
時に断食もする。あらゆる欲求を抑え、異性との交わりを絶ち、煩悩を消し去る
ことに努める。仏に帰依する為に祈るのだ。
仏僧の生涯とキリスト教の修道院の生活は瓜二つである。
異性との交わりを絶ち、静かな環境で欲求を抑えて祈りを中心にした生活。
修道院という限られて空間の中で過ごすのだ。
彼ら彼女らもあらゆる欲望を抑えるのだ。
欲望の否定、節制、仏教もキリスト教も、生きんとする意志の否定に救いを見出す

キリスト教徒が祈るように、仏教徒も仏に祈る 『ヴァチカン』より
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● 釈尊とキリスト
イエスの生涯は、命をかけて衆生を救う道であった。
イエスの生涯を知れば知るほど、その道は釈尊の歩んだ道に重なる。
イエスは、釈尊がどう生きたのかを誰よりも理解したのだ。
釈尊はまさに仏になろうとしたのであり、釈尊こそまことの仏であった。
『 仏は殺生の罪を離れることを修め
その功徳によって人々の長寿を願った。
仏はみだらな行いを離れる事を修め
その功徳によって人々の心に害心がなくまた身に飢えや
渇きがないようにと願った。
仏は貪りを離れる行を修め
その功徳により人々の心に貪りないように願った。
仏は愚かさを離れる行を修め
人々の因果の道理を無視する誤った考えがないようにと願った。
仏の生涯とは、全ての人々に向けられており
人々の幸福のため以外はない。 』
(仏教聖典 永遠の法より)

とても読みやすく、素晴らしい内容
イエスは、まさにこの真の意味を知ったのだ。
だからこそイエスは、人々の為にその命を捧げたのである。
これによりキリスト教を信じる者達には、また救いの道が生まれたのである。
イエスは、まさに釈尊のごとくあろうとし、また釈尊の優秀な弟子であった。
『週刊 世界の美術』より

イエスは、まさに釈尊のその存在の意味を知ったのだ。
イエスは、釈尊のごとくに歩もうと欲した。
イエスが、仏教に見せられ、釈尊のごとくあろうとした事は、イエスの存在の
意味を目減りさせる事などは一切ないのだ。
イエスは神の子ではなく仏の子である。
* キリスト教徒で、仏教や釈尊の意味を軽んじる者があれば、
あの世で、イエスのお叱りを受けることだろう。
釈尊とはそれだけの人物であり、彼はもう2度と生まれないのだ。
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● 内部に矛盾を抱えたキリスト教
キリスト教は、内部に矛盾を抱えている。
その奥にユダヤの教えと仏教の教えの2つが混在するからだ。
旧約聖書は、ユダヤ的な教えであり、新約聖書は仏教的な教えである。
この2つは、様相がまったく異なる。
それゆえに、常にこの2つがぶつかり合い、内部に多くの不整合がでてきた。
キリスト教は、時にユダヤ的になり時に仏教的となる。
キリスト教において、カトリックとプロテスタントがあれほど憎しみあいぶつかり
あったのも旧約聖書のユダヤ的世界観と、新約聖書の仏教的な世界観とが
ぶつかりあったからである。
キリスト教からいくつもの宗教団体が分派していった。
それらはキリスト教をベースにしているが、ユダヤ的な色彩をもつか仏教的な
色彩を持つかに大凡わけられる。
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(*) 詳細は以下のサイトを参照。
『 稲穂黄金のイエス・キリスト 』
● 神と仏と人間と
自然崇拝は、自然のその奥に存在する諸力に対する畏怖から始まる。
それに対して、仏の教えは、自然が対処したその理(ことわり)にある。
仏教は、自然そのものに関心があるのではない。
自然がそのように振舞い、対処したあり方を注視する。
自然そのものではなく、この世界についての関心である。
この世界の変化に対して自然は対処する。
これは眼前に見える様々な自然法則だけでなく、人間の内面までにも及ぶ。
内面の1つ1つの対処を知ることが悟りである。
これらを悟りを多く開いていくことが仏に近づく道である。
人間が悟りへと近づくことを導いてくださるのが仏である。
悟りを開けない多くの衆生に慈悲を光を照らし救ってくださるのも仏である。
人間が神なるものを求めて進む時、人間はそこに苦悩を背負う。
だからこそ人間は己の奥の奥に仏を見出す。
己の中の至らなさや迷いを発見した時にこそ仏が宿る。
仏はその大慈悲をもってあらゆるものを救済する。
仏にすがり、その愛を知る時、人は再び、神なるものへ勇敢に進めるのだ。
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