学者とは  学者を語るに学問とは何かを知る必要がある。学問は修養の為に行うべきものではない。
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 『ヘタレの美学 123話』
ヘタレもつ意味は広く深い。
漫画・アニメ界に居続ける数々のヘタレキャラ。彼らのふがいなさに憤慨しながらも決して憎めず、反対にいとおしく感じてしまうのはなぜだろうか?そんなヘタレ達に光をあてる
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学者とは
 学者とは何であるかの前に学問とはなんであるかを知らないといけない。
 学問とは、修養の為に行うものでは決してない。
 学問を通して、結果的に修養の効果が徐々に現れるということに過ぎない。

 
● 学問と修養@

 学問とは修養を収めることを第一の目的に行うものでは決してない。
 
学問とはそういう抹香くさいものでは決してない。

 学問を通して結果的に修養に相当するものが訪れることはあるが、
 その修養を求めるために学問があるのではない。
 結果的にもたらされた効果であってそれを得るために学問は行うものではない。

 我々1人1人に備わる
性格は不変である。
 生まれながらに備わった各人の性格はその人が死ぬまでも変化しないし、
 時代を越えて我々の子孫も受け継ぐものなのである。
 臆病な親の子供も、また臆病な子であることが多いように我々の生死を越えて
 受け継がれるべき不変のものでもある。

 どれほどの学問を身に付けようが 我々の生まれつきの性格は変化させること
 ができない。
 学問の力をもってしても、我々人間に備わる性格は変化させるこはできない。
 学問とは、決して修養を得るために行うべき何物かではないのだ。

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● 学問と修養A

 
人間の性格は生まれながらに不変である。
 サーカス団の猛獣が、ムチと飴でどれほど調教されていたとしても
 時に野生本来の獰猛さが表に表れることがある。
 
 人間とてどれ程、外見を変化させても、その人本来に備わる性格は変化しない。
 ただその振る舞いが変化するのである。
 
 誰もが、小さい頃から自分の性格が変わっていないことを確信している。
 幼い頃から臆病な者は、大人になっても内心は臆病なままである。
 もちろん臆病風に吹かれて行動するか、勇気を持って進むかの判断を
 下すのはあくまでも、その人次第である。

 生まれながらに意地悪なものは大人になっても意地悪である。
 数十年ぶりの同窓会で、顔、姿は変化していても、その人の性格は変わって
 いないことに誰もが気付く。

 学問は人間に生まれながらに備わる性格を変化させる為にあるのではない。
 何度でもいうが、人間が有する性格は不変である。

 もちろん学問は、その人の振る舞いには影響を与えるが、その根本に
 ある性格を変化させる為に行うのではない。

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● 学問とは

 学問が、修養を目的にするものでないとしたら何の為に学問はあるのか?
 それは以下にある。

 学問とは真理を求める
探究心
 真理に即さないことを遠ざけ、真理に即することを選択する
決断力
 慣れ親しんだ考えを、時に捨て去る
執着しない心

 それらを貫き通した時に純なる想いが養われる。

 その継続そこが、研ぎ澄まされた
直感を生み、次々と多くのことが理解
 できるのである。まるで悟りが開いたのごとくに。

 その刹那に訪れる
内面の明るさ息吹を全身で体感する。

 これは芸術にも通じる境地である。
 芸術はまさに内なる美、最上の美を表現しようする行為である。
 一流の芸術家も、そのような境地を何度も体感する。
 修養を求める為に芸術を行わないように、修養の為に学問を行うのではない。

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 ● 学問を続ける原動力

 学問によって、その高みに到達し、その高みを味わえる時間はほんの束の間
 のことである。瞬間の出来事である。
 なれどその瞬間、瞬間の刹那に、なんとも爽やかな感覚を我々に与える。
 思い出させるといった方が正確かも知れない。

 学問を真に行うとは、そのわずかな短い時間ではあるが、その感触を何度も
 体感することにある。
 その味わいを真に忘れない事が、まさに学問を続ける原動力となるのだ。

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● 真の学問に進むとき@

 学問は、修養の為に行うのではないというと誤解する人もいると思うので
 以下のことは述べておく。
 
学問が修養とが関連がない!などとは言っていないと。
 また修養が意味することは、重要であり軽視すべきなにがしかではない。

 学問をすることは結果的に修養に見られる類似した効果がもたらされる。
 しかしそれは結果的として、もたらされるであって、それを得る為に学問を
 行うのでは決してないということである。

 学問において真に発展的に進んで行く為には以下が必要である。

    
@ 自分の勝手な思い込み、安易な考えを捨てること
    A 慣れ親しんだ考えでも真理に反するなら執着しないこと
    B 真理に照らして迷妄や誤診の考えをしりぞけて進むこと

 上記を忘れずに継続することが、真に学問の道を進むということである。
 とても容易なことではない。
 これを守りながら進める人は、ほんの一握りの人だけなのだ。

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● 真の学問に進むときA

 真に学問の道を進むのは、容易ではない。

 勝手な思い込み、思いつきに終始するものは数多く存在する。
 例えば絶対精神や絶対理性など、絶対者に寄りかかり、つまりは自分は何も
 真剣に考えませんよ!宣言している輩は実に多い。
 勝手な思い込みで、この世界の何がしかを把握できていると勘違いしている輩
 もこれまた多い。

 学生時代に慣れ親しんだ考えから抜け出れない者も多くいる。
 こういう者達の特徴と言えば、真理を求めるよりも、真理を求めた人の学説を
 探究することを目的に生きる。ほとんどの学者は、これに該当している。

 スピノザを生涯の研究対象にしたり、マルクスを生涯の研究対象にしたり
 する学者もこれまた多い。
 このような学者の人生では、学問を通して修養を身に付けるどころか
 修養の意味すら理解できないだろう。

 修養の為に学問を行うという、そんな生易しい覚悟では学問の道は歩めない。
 少しオーバーな表現ではあるが、真の学問の道は
壮絶な戦いなのである。

 真の学問の道は、そんな
甘い覚悟ではとてもとても歩いていけない。

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 ● 人間に誤診はつきもの

 最後に誤診を退けることは非常に大変である。
 誤診は我々とはつかず離れずの関係にある。
 というのも、我々
人間の知性自体に弱点があり、欠点があるからだ。

 だからこそ、そこへ誤診が入り込んでくる。
 
人間に誤診はつきものである。
 誤診が入り込んでくるのは、探究を続ける上では認めることである。
 なぜならば、我々の脳はア・プリオリに知っていることは限定されており
 経験的に、つまりア・ポステリオリに確認することが必要となるからだ。
 
帰結から根拠を探ることが必要であるからこそ、そこに誤診が入る。


  
● 帰結と根拠

 学問の方法には大きく2つの進む方向がある。

 
根拠から帰結に進んでいく方向。
 
帰結から根拠に戻っていく方向。

 根拠から帰結へ進む代表的な学問が、
数学である。
 数学は、先天的な認識(ア・プリオリ)を土台にする。
 よって数学においては誤診はない。
 数学において確実に証明されたものは、後になってからひっくり返されるべき
 何ものかでは決してない。
 (証明に誤りが発見された事は、誤診ではなく失敗というべきものである)

 帰結から根拠に進む代表的な学問が、
物理学である。
 物理学は、経験的な認識(ア・ポステリオリ)を土台にする。
 物理学は、仮説を元に実験を行い、それが正しいことを確認する。

 実験の結果、その仮説が正しいと現段階で判断していても、その仮説に
 当てはまらない現象が起きた場合に、新たな仮説の再考が促される。
 それらを説明できる新たな仮説が求められる。

 誤診とは、帰結から根拠へ向かう場合のみ入り込む
 そうやって、そこに含まれていた間違いを修正しながら物理学は進む。
 帰結から根拠に進む場合に誤診が入り込む。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の科学者へ



  ● 誤診を退けることが大切

 誤診は、人間が考える上では離れがたく結びついている。
 
誤診が生まれること自体に罪ではない
 だが、
誤診を払わずに、いつまでも側に置いておく事は、賢明では
 ないし褒められたものではない。

 誤診をいつまでも潜り込ませておかないことが重要である。
 誤診は、検証して追い出すことができる。
 あらゆる角度から検証すれば、追い出すことが可能である。

 自然科学の代表である物理学は、仮説のもとに実験を行い、その実験結果を
 検証することで、そこに含まれている誤診を追い出していく。
 そうやって物理学は、修正されながら進んでいくのである。

 何度でもいうが誤診は人間には離れがたく結びついている。
 我々、人間の知性の形式には、欠点があり弱点がある。
 かつて、どのような偉大な探究者であっても、
間違えなかった者など一人
 も存在しない
のである。だから誤診を生み出す事自体に罪はない。

 そもそも誤診を生み出していけないなどと言ったら科学は、ここまで発展する事
 など決してなかったし、適わなかった。
 ただし、誤診を抱えたままで、遠ざけないことは賢明な事ではない。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の科学者へ
        『 稲穂黄金の究極の科学



 
● 物に至ること、そして修養へと繋がる

 修養の為に学問があるのではない。
 何かの知識が修養に関連するのではない。

 学問を通して、進む時のこの心がけ、そのひたむきさ、それが修養で述べられて
 いる徳目に通じているということである。

 ひたむきであり、それは飛躍しない。
 勝手に執着しない。思い込まない。
 愛着がある考えでも根拠がなければ捨て去る自由な思考。

 それらの事を学問を通して、ず〜と貫いているからこそ、結果として修養で
 語られる徳目を実践していることと同じ効用があると言える。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の孔子
        『 稲穂黄金の老子
        『 稲穂黄金の朱子



 
● 古代に存在した黄金時代

 真に物に至ることができた時代は、古代に存在する。
 例えば、古代中国が残した大学・中庸(四書五経)の一ページでも見れば、
 その言葉の数々が輝いているのに直ぐに気づくだろう。

 この時代の人々は、まさに物に至っていた。徹底的に知性を磨いていた。
 徹底的に真理とは何であるかを探究した日々がなければ、この本を書く事は
 できない。これらの本を見れば、古代の人々がいかに学問に真剣に取り組んで
 いたかが垣間見れる。

 修養を目的に為に学問を行ったのではなく、学問を通して修養の意味を理解し、
 実践した人々が活躍した時代が、間違いなく紀元前には世界中に存在した。

 特に紀元前4〜6世紀にかけて世界中に素晴らしい人々が登場した。
 インドでは釈尊とその十大弟子。
 中国では孔子・老子・孟子・荘子。
 ギリシャでは、ソクラテス・プラトン・アリストテレス・ヘロドトス
 この数世紀、世界各地において、人々は眠りから覚めていた時代であった。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金のプラトン
        『 稲穂黄金の釈尊
        『 稲穂黄金の老子

        『 稲穂黄金の孔子



 
● これができたものが真の学問へと至る

 迷妄や思い込みは捨てる必要がある。
 自分のお気に入りの思想に対する執着を捨てる必要がある。

 ただ真理を求めて、真理に向かって進むことである。
 そうでなければ、その高みには一向に近づくことはできない。

 学生時代に教わった考えに執着しないこと。
 愛着を持つことは良いとていも、それが真理となんらの関連もなければ
 捨て去る勇気を持つこと。
 例え何年かかって学んだものであっても、その考えが真理から外れて
 いるならば、その考えは捨て去ること。

 ほとんどの学者はこれができない。
 
だからこそ大半の学者は学者のレベルで留まっているのだ。

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● モヤモヤの日々に耐えること@

 真理に即したものだけを受け入れること。
 だからこそ、わからないことがあった時に、わからないままに内面に
 抱えておく決意が必要である。

 確かにわからないものを、わからないままに内面に留めておくことは
 すっきりしないことではある。
 なれど、それで良いのだ。そのモヤモヤに耐えることが必要なのである。
 そうやっていて学び続けている内に、そのモヤモヤが1つ1つと解消されていく。

 そうやって進んでいくたびに、新たなモヤモヤが再び出てくる。
 さらにわからないことが出てきて、そしてそのモヤを晴らしていく。
 その繰り返しである。そのモヤモヤした日々に耐えること。

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 ● モヤモヤの日々に耐えることA

 そのモヤモヤに耐えれない学者が、直ぐにわかろうとして都合の良い考えに
 染まっていくのである。 それが絶対者であり、絶対精神であり、絶対理性であり、
 つまりは神の意図である。

 この世界は、認識があり、その発展過程にあり、世界はその方向に進む云々と
 述べる愚かな連中はいつでも出てくる。
 人類の大部分は迷妄と愚鈍の内にあるからだ。

 こういう連中ときたら、いつでも言いたいのだ。
 この世界には神の知性が横たわり、その神の意図によって進んでいると。
 こうなると、もはや考えることはできなくなる。
 
 真剣な探究などなされなくなる。
 それは絶対者が決めたからといって全ては断定口調で話す輩が登場する。
 何の根拠もなく思いつきと思い込みの輩が大声で話す。

 こういう連中の頭脳は、わずかな容量しか収めることができない為に
 これらの安易な考えに飛びつくのだ。
 こういう連中ときたら、こういう考えでこの世界が把握できていると考える。

 モヤモヤした状態に耐えることができない非力な頭脳の持ち主達が
 我がもの顔で、今日はここで、明日はあそこで神の意図を大声で語るのだ。
 真に救いがたいとは、まさにこのことである。

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● 学問の道と風格

  思い込みを捨て、根拠に根ざさない退けて、慣れ親しんだ考えを放棄し
 検証によって、紛れ込んだ誤診を遠ざけていく地道な日々。
 その道を貫き通した者のみが、
風格を宿すのである。

 そうやって貫き通した決意こそが風格を宿すのである。
 いるだけでなんともいえない存在感がある。
 静かにしていても、その存在が際立ち、目立つのである。
 
 学問に励んだ日々が内面に影響を与え、それが外面にまで滲みに出てきて、
 それが行動に結び付いた時に、それが修養となるのである。

 修養を求める為に学問があるのではない。
 真の学問の道を歩き続ける道の上に、修養の徳目が眠っているのだ。

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● 修養然と真の修養@

 真の修養と、修養然とすることはまるで異なる。
 学問にて修養を語る者達の多くが、修養然となることばかりを要求している。
 本来、そのようなものは外から来るものではなく、内から至って外に滲み出て
 いくものなのである。

 修養の字のごとくに、まず学問を徹底的に修めることが必要である。
 それが出来てから、それを色々なものに適用、応用して養っていくことになる。
 修め養うのが修養があってこその、修養である。

 学問を徹底的に修めずに、中途半端な知識しか持たない多くの大学教授が
 修養を語るから修養が抹香臭いものになってしまうのである。

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 ● 修養然と真の修養A

 修養の話が表に出てくると、多く者達は、実際に学問を修めることをするより
 も修養然とした振る舞いをするようになる。
 それが楽であるからだ。

 真に学問の道に進むことは、
覚悟が必要であり、情熱が必要である。

 しかし多くの者はそれができない。
 程度の差こそあれ、途中で妥協するようになる。
 解決しないものを内面に抱えるのではなく、どういう説明でも良いから
 それなりの納得できる説明があれば、それで未解決問題は終了となる。
 
 その諦めが早いものほど、修養然とする。そのように見せかけるのだ。
 学問的基礎がないからこそ、知識の量があるように振舞うのだ。
 いつの時代にも
修養然とした連中が出てくる。
 地道に学ぶよりも、そうやって見せかけることの方が遥かにたやすいからだ。

 何度でもいうが、修養の意味する所は重要である。
 内面が外面まで適用され、それが姿となって振舞えるまでになる事は実に
 素晴らしい事であり、それでこそ至ったというべきものである。
 その体現があってこそ、真に内も外も身についたということである。

 なれど大多数の人々は、それよりもはるか以前の最初の物に至るのでさえ、
 まるでできていないのだという事である。

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 ● 素直な賞賛と尊敬

 その道を貫き通しているからこそ、真に優れた者を素直に賞賛できるし
 また心から尊敬できるのである。

 いつの時代も、真に優れた賢人、偉人は異なる時代の賢人の足跡を
 誰よりも賞賛し、それに自分も負けずに進もうと奮起するのである。
 古代の人々の残した本、古典を見れば、そこに生きた人々が真剣に学問に
 取り組んだ姿が垣間見れる。

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● 目上の人に接する態度@

 『目上の人は尊敬すること』みたいなことが巷から良く言われて聞こえてくるが、
 その人を、尊敬するかどうかなんて
人の勝手である。

 その人の人生の歩みが立派であれば、尊敬するな!と何度言われたとしても
 尊敬するだろう。反対に、その人の人生の歩みが至ってなければ、尊敬しろ!
 と何度言われたって、尊敬などできないし、しないものだ。

 そんなものは、人の勝手である。
 ただ目上の人に接する態度としては、どういう人であれ、若者よりも長く人生
 を歩んでいるその点に関してご苦労様という
配慮なのである。

 目上の人には、失礼のないように付き合うという程度で良い。
 その気持ちがあれば、目上の人を尊敬する、しないなんて別に気にする必要も
 ないのである。

 ましてやお年寄りになった時に、それまで生きてきた人生が至って平凡で、
 どちらかと言えば、まったく、しょうもない人生だった場合に、そんな時に若者に
 尊敬でもされたら、大抵の人は、居た堪れない気持ちになるのではないか?
 
 あなたの人生が尊敬に値するか、しないかは、あなたが誰よりも知っているに
 決まっているからだ。

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  ● 目上の人に接する態度A

 人間など怠ける生き物である。
 人類の大部分は尊敬される生き方などしていない。

 年上の人の大部分の生き方も、尊敬できるような何ものでもない。
 たいした人生ではないし、たいした生き方でもない。
 
大多数は、至って平凡な人生であり、平凡な人生で終わるのだ。
 この大地には、何も貫けてない人間の人生が、あちこちに溢れている。
 それが圧倒的なのである。

 もし、多くの人々の人生が平凡ではなく、尊敬できるような何ものかであった
 ならば、学問は現在とは比べものにならない程、発達しているはずだし、
 町並みはローマを越え、芸術が満開に花開いているだろう。

 しかし、現実は、そうはならない。
 人間は確かに、救いがたい面をもつ。

 もちろん人間の人生の大半が尊敬できない生き方などと、大声で言えば
 角がたつし、なんと言っても、言われたほうも嫌な気持ちになるだろう。
 そういう世の中は、また息苦しいものになるだろう。

 自分が年寄りになったときに、若者から、
 ”あなたの人生はまったく尊敬に値しない。” などと真正面から
 言われれば、だいぶへこむものだ。
 自分ではたいしたことのない平凡な人生とわかっていても、他人さまに、
 そんな事は、言われたくない思うものである。
 だから、まあ、そういうことは言わない方がきっと全体的に良いだろう。

 他人の欠点は、自分の中にあるし、自分の中の欠点も他人の中に多かれ
 少なかれあるものである。
 同じ人間なのだから当然である。

 目上の人は尊敬せよ!ということではなく、目上の人の至らなさを理解し
 自分の中にも、そういうものがあることを知り、共感することである。

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● この世界を生きること@

 この世界を生きることは誰にとっても楽ではない。
 人生が恵まれているように見える人には、恵まれている人の悩みがあり、
 人生が恵まれてない人には、恵まれていない悩みがある。
 会社の社長であっても社員であっても、スターでも売れない役者でも、
 皆それぞれに悩みを抱えているものであるし、またその悩みから逃げれる人
 はいないのだ。

 芸能人が、テレビで苦労話するが、この地上に生きる人間は誰もがそういう
 ものを背負って生きているのである。
 どんな人間だって、苦労話はあるし悲しい出来事はあるだろう。
 それなのに、苦労話や悲しい話を話して大粒の涙を流している芸能人を
 良く見かけるものである。
 テレビとは、そうやって芸能人が悲しい出来事を語ることで同じ体験をした
 視聴者と共感する意味合いもあり、それはそれで良いのだが、あまりに
 そういう話が続いて聞かされるとこういいたくなる。
 『 この世界において死なない人間など誰一人いない!』 と。

 もちろん、それを言い過ぎると、この世から共感がなくなり、涙がなくなり、
 情がなくなってしまい、冷酷に感じるので、敢えて強調はしないが・・・。

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● この世界を生きることA

 誰だって死別する。例外はない。親であれ夫婦であれ友達であれ、
 誰もが愛する人との別れがある。
 死なない人間などいないのだから。

 この世のいきとし生けるものが、生まれてはやがて死ぬのだ。
 だからこそ、その生き死にを越えた生き方、そこに皆が感動し惹き付けられる。

 この限られた人生の中で魂を燃やしながら生きた芸術家の作品と
 その生涯は、賞賛される。
 この地上で、人々を励まし続けた宗教家は賞賛される。
 そういう覚悟をもって進んだ人は、人々の心を打つものである。

 死んでから数年ならわかるのだが、20年、30年過ぎても、テレビ中継して
 芸能人の法要を大々的に行っているのを見ると、それらのスターや歌手が
 そんなに心を打つ生き方をしたのか?とつい言いたくなる時がある。

 もちろん、そんな事を、ひとたび口に出していえば、テレビを見ている家族から
 集中砲火を受けて、非難されるのは必至なので、ぐっとこらえる(笑)

 各々が過去に活躍した今は亡きスターの思い出に、自分達の若き日の思い出
 を重ねて、淡い青春時代を思い返しているのだろう。

 話がだいぶ、脱線してきてしまった。
 話を元に戻すと、つまりは誰もがこの地上を生きるのは楽ではないこと。
 誰もが1人1人、人間としてこの地上を生きるのを問われているという事である。

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● 真剣さと軽快さ

 学問を真剣に取り組む人間ほど、ヒョウヒョウと生きているものである。
 なぜならば、真剣に学問に取り組めば取り組むほど、そうでない時には
 反動として軽快さが伴うのである。
 冗談やジョーク、言葉の調べを楽しむのである。

 老子をひとたび読めば、まさに知の限界を超えて訪れた神仙の世界に至った
 ごとくに、ふわふわと浮かぶかのように歩いている。
 そんな軽快さが伝わってくる。

           
まさに軽快な老子。中国が生んだ天才。
            
神仙の世界に入ったと言える。

            
    
若い頃の徹底的な学問。その日々を続けていたある時、学問の壁を突き抜けた。
     それは
(タオ)となり、誰も近づけない程の高みへと彼は飛翔した。


 ここまで辿りつく為にどれだけの求道心をもって道を突き進んだことだろうか。
 どれだけの壁を越えて辿り付いた境地であろうか。

 老子が語る言葉の一つ一つを背後から支える学問の厚みと重さ。
 その重さを感じさせない軽快さが天才老子の真骨頂である。
 
 孔子が述べた、まさに以下の境地である。
 
 60にして耳従い、
   70にして心の欲するところに従っても矩(のり)をこえず 


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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の老子
        『 稲穂黄金の未来の孔子



  
● 真剣でない者の糞真面目さ

 それに対して、大多数の学者は迷妄と愚鈍の内にあり、真剣に学問を
 しないから、いつまで経っても語る内容が、無味乾燥したような糞真面目さ
 しかなのである。硬直していると言ってよい。

 世の中の大学教授が書く本の大部分がまるで生気の抜けた抜け殻なのも
 つまりは、その者が真剣に学問に取り組まないからである。
 真剣に取り組まないから、いつまでも糞真面目に語るのである。

 真剣に取り組めば、発狂するごとくになる。
 それを抑えてさらに進めば、ヘトヘトになる。重みに潰されそうになる。
 それらを乗り越えれば光が差してくる。
 そうして、いずれは軽妙な世界へ到達するのである。

 世の中の多くの学者は、真剣に学問に取り組まないから、真剣にものを
 考えないから、いつまでも糞真面目で、無味乾燥な文章しか述べれないのだ。

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● 大学・中庸の世界に見られる古代の高み

  四書五経のうちの大学・中庸を1ページでも読めば、まるで文字が黄金に
 ピカピカ輝いていることに気付く。

      
魂がこもっている書物。一文字一文字が黄金に輝いて見える。
                 
『 大学・中庸 』
      
      
古代の人々の中に、こういう文章が書ける人がいること自体
      
古代の人々の学問の高さが伺い知れる。まさに名著であり古典である。

 真の学問の道を志し、ある一定のレベルを超えた人々の、ある一定数以上の
 人々が存在した時代の雰囲気、躍動感が伝わってくる本である。
 古代の一時期にこのような偉大な時代が存在していたことは、人間の可能性
 を伝えるものである。

 大学・中庸で述べられている言葉のしらべは、真に学問を行い、何ものかに
 到達した人でなければ、書けないものである。
 その時代に、真剣に学問をするという土台がなければ、この本は生まれない。
 人々のレベルが少しでも落ちるとまるで意味が伝わらなくなるのだ。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の麗しき黄金時代
        『 稲穂黄金の孔子



 
● 意味が伝わらない時代

 真剣に学問をすることから少しでも遠ざかり始めると、とたんにこの大学・中庸
 の真の意味が伝わらなくなった。

 朱子は、
大学章句の中でこう述べている。

 『 孔子の正統が絶えてからは、世俗の儒者がつとめる文章を暗誦とか
   美文の修辞とかいった学習は、むかしの小学校の勉学よりも
   
倍も力をいれながら実は実際の役に立たなくなった。』

 学問・中庸の重要さをわきまえた人がいなくなると、いくらそれを学校で学んだ
 としても、その肝心な中身はまるで伝わらなくなったのだ。
 その真の意味が伝わらなければ、どれほど暗誦しても無力なのだ。

 さらに朱子はこう書いている。
 『 権謀術数をめぐらして、ひたすら
実利名声を求める学説や小手先
   技術を説く諸子百家の流派などが雑然と入り乱れるようになった。
   学に志す人々は、聖人の大道の要点を聞くことができず、
   庶民は
最高の統治の恩恵を受けることができなくなった。
   その結果、世の中は真っ暗になってふさがり、上下はひっくりかえり
   死病にとりつかれ、こうして世の乱れはついに頂点に達した。 』


 これは現代にも当てはまる。
 修養の為に学問を行い、その修養によって社会的な名声や、経済的な実利を
 得られる小手先の考えも、現代にも多く見られるのだ。

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● 修養と経済的利益を安易に結びつける人々

 いつの時代も、学問や修養を、経済的利益や社会的な名声につながるように
 結びつけて考えようとする人々がいるものである。

 本来、学問や修養と、経済的な利益とはなんらのつながりもない。
 もちろん学問が至り、あらゆる道に通じれば、彼の行いの多くのことが
 理に適い、模範となり、社会のリーダーに選ばれることもあるだろうが、
 そのようなことを目的に学問を行うのでは決してないのだ。

 会社の経営者が学問の意義を語るのは良いとしても、経営者に
修養然
 としたものが入ってくるととたんにおかしいものとなる。

 経営者の中には、その経営に成功したことが、若い頃の学問をこれだけ積んで、
 修養を修めたことで、会社のトップに立ち、経済的利益をこれだけ獲得して
 成功したのだと結びつけ始めるからである。
  つまり学問をし修養を積んだから成功したのだと主張しているようである。

 だが、経営で成功することと学問をすることには特別な因果関係はない。
 そもそも学問と経済的成功は結びつくような何かではない。

 特に経済が伸び盛りのバブル時代以前は、常に会社の売り上げがあがりつづけ
 たので、そのように社長が修養然としても、そのことについて誰もが否定しがたい
 面があった。修養然とする会社の社長も多かったのである。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の成功哲学
        『 稲穂黄金の未来の資本主義



 
● 修養然と成功哲学、

 学問をまるで修めずに、修養然とする人は、多かったが、また成功哲学と
 呼ばれる物を学んで、修養のごとくに感じた人々もこれまた多かった。

 成功哲学が修養のごとくに見られるようなことが起こり、人々の間では
 自己啓発や能力開発、潜在意識、云々が流行った。
 もちろん、これらことを頭から否定するつもりはないが、こういうものと修養とは
 まったく質が異なる。
 バブル以前は、修養然とした人が多かったが、バブルがはじけてからは
 自己開発、能力開発、脳内の革命や潜在意識の活用が人々の間で流行った。

 あの時代に、成功哲学を読んだ多くの人々は、現在はどうなって
 いるのだろうか?

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● 成功哲学の特徴@

 ここで近代に出てきた成功哲学について一言語っておこう。
 成功哲学には以下の3つの特徴を存在する。

   @ 資本主義下で生まれた
   A 
資本主義下での成功を、成功と暗に定めている
   B 
自力に頼る傾向が見られる


 まず、なんといっても近代に生まれた成功哲学は資本主義下で産声を上げた。
 成功哲学といえば最初に出てくるナポレオン・ヒルは、資本主義下で経済的に
 成功した人々、金持ちの人々のインタビューによって、その中心は、経済的な
 成功者、社会的に名声がある人々の共通点を探った。

 ナポレオン・ヒルは、資本主義の中で翻弄されたアンドリューカーネギーの
 依頼でこれを調べ始めた。
 これもまた、資本主義下でいかに人々が翻弄されずに生きる為にはと言う事
 を真剣に考えてからであった。
 カーネギー自身が資本主義下で翻弄された1人であった。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の成功哲学



   
● 成功哲学の特徴A

 ここでは成功哲学を批判することではなく、その特徴を述べているに過ぎない。
 まず成功哲学の成功とは、資本主義下で成功とみなされていることである。

 つまり経済的な富を得ること。
 社会での名声、地位を得ること。
 人々の信頼を得ること。 

 これが達成されてこそ成功哲学は完結するのである。
 最終的には、こういう状態になることが結果として求められている。

 それらの目的地に行く為の過程に多くの手段を利用する。
 例えば願望、情熱、熱意、信念、決断、忍耐、冷静さ、などである。

 それらを利用して、最終的な結果を得るのが、経済的な富であり社会的な名声
 や地位であり、人々の信頼であるということだ。

 成功哲学は、この点に必ず帰結されている。
 情熱や信念をもって取り組んだが、最終的には貧乏でしたなんて話はない。
 最終的に日の目を見なかったという話は、これらの本にはない。

 これらの成功哲学が語る成功とは、あくまで資本主義下で活動する人々が
 成功とみなしているものであるということである。

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● 成功哲学の欠点@

 成功哲学の一番の欠点は、あらゆる事が自分の力によってなされた事だと
 思いこんでしまうことにある。
 成功哲学を熱心に読めば、多くの人は、大抵
自力を重視する事に傾く。
 なぜならば、そこで語られていることの多くが、つまりはその始点が全ては
 自分になっているからだ。

 自分の深層心理を利用したり、想念を良いものに変化したり、さらには
 自己意識を利用したり、願望を想念によって現実化する話ばかりがが
 無数に出てくる。

 もちろん、これらの事の全てを否定しない。効果がないなどとも言わない。
 なれどこれは、つまりは自分の内面(原因)を変えれば、世界が変わると
 主張している事になる。

 そのような成功の裏には、あなたが知らないだけで様々な人々の無私の支え
 があることを忘れてさせてしまう。
 反対に、そういう他の人々の素直な善意ですら、自分の良い想念がなんらか
 の経由で影響して、その人を動かした!などと思い込むようになる。

 自分中心の能力開発(脳内革命、人間革命、想念法、イメージ、etc)
 固執しており、全ての良い結果は、自分のその表れであるなどと思っている人
 には、
本当の感謝の心は起きまい


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● 成功哲学の欠点A

 成功哲学ばかり読んでいると、この世界が、多くの人々の無私の善意に
 よって成し遂げられていることを理解しないようになるだろう。

 全ての要因は、自分の元から発せられたと考えるようになり、つまりは、
 
自力一辺倒になるのだ。

 この世界は決して自力だけではない。自力と他力の世界である。
 ミツバチは、その蜜を集めたのを自分の力だと思わない。
 なぜなら花々がそれを提供してくれるのを知っているからだ。
 だから蜂はお返しとして、花々の前で、宙を舞い華麗なダンスを踊る。

 また花々も、自分達がミツバチに養っているなどとは考えない。
 なぜならミツバチによって、自分達の花粉が、遠く離れた場所へと運ばれ、
 新たな命をつむいでくれるのを知っているからだ。
 これと同様に、人間もこの天地に生かされている。

 こういう自力と他力の考えから離れて語られているものは、その時において
 どれだけ効果的であったとしても、それゆえにこそ、いずれ自分に良い結果を
 与えた分だけ、悪い結果がまとめて、もたらされるのではないか!?

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● 成功哲学の本質@

 世に様々な成功哲学があるが、成功哲学の本質は以下である。

 
人間の性格は決して変わらない
 だからこそ、その人間の性格に手渡す情報を変化させる。
 つまり、ある起こった出来事を、心に手渡す時に意味を変えて、
 都合の良い動機をその人から引き出すのである。
 情報の意味を変える事で
受け取り方を変化させる

  
× 人間の性格を変える
  
 人間の性格は変わらない → 性格に渡す情報を変化させる

 そうして後は、その動機に沿って、その人の性格は、必然的に行動を始める。
 そして、その結果を見て納得する。
 こういう事をすれば、こういう結果になるのだと経験を積み、確信を深める。
 そういう体験を、体に馴染ませて、それを習慣のレベルまで持っていく。

    
× ある出来事  → 悲しい結果
    ------------------------------------------
    
 ある出来事  → 明るい兆し、チャンス、成功できる
           ↑          ↓
          納得   ←  良いことが起こった。


 近代に生まれた成功哲学の本質は全てここにある。
 様々にあるように見えて、人間の性格は変わらないことを土台にしている。
 だからこそ、手渡す情報を変化させることに力を入れる。

 成功哲学が様々にあるのは、この手渡す情報をどのように変化させるという
 手法と、後はさらにどれだけ強く納得強化させるかにかかっている。

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 ● 成功哲学の本質A

 人間の性格は変わらない。だからこそその性格に届ける情報を操作する。
 これこそが成功哲学の本質にある。

 後はそれを
どのような手段で行うか?が問われるだけである。

 例えば、ある出来事を全て良いことに強引にでも結びつけて考える。
 つまりこれは
想念によって現実化するということを信じさせる方法である。

 例えば、達成したい出来事を常にイメージし続けるというのも手段となる。
 何かの出来事が起きても、そのイメージを達成する為の何かの過程なので
 あると意識させることにある。
 つまり
イメージトレーニングの活用である。

 ある出来事が起きた場合、それが結果的にプラスに繋がることであれば
 それに繋がる快楽を創造し、それが結果的にマイナスになることは痛みを
 想像することによって、行動を規定しようとする方法。
 
痛みを避けて快楽を得るという手法。

 このように様々な成功哲学が存在して、それなりに効果もあげてはいる。
 ここでは別に成功哲学を批判しているのではない。
 ただ、このような成功、それらを含めて、宗教が述べている成功とはまるで
 違うことは理解することは重要である。

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● 宗教と成功哲学との大きな差@

 宗教と成功哲学には大きな差がある。
 それは、この世界における
成功の意味が、まったく異なるのである。
 それは、宗教においては経済的な成功や社会的な名声、それらについては
 本質ではないということである。

 もちろん経済的な成功が悪いなどといっているのもでなく
 社会的な名声が悪いなどというのでもない。

 さらに成功哲学が良く述べている想念や深層心理に近いものであれば
 良い言葉を発することや、良い想念をもつことは、どの宗教にも以前から
 あったことである。

 ただし宗教では、その意味はそれ以上でも以下でもないということである。
 特に強調することはなかった。

 それに比べて、成功哲学はその点を特に強調する。
 イメージトレーニングをして未来に成功する。
 良い想念を頭に描き、それを現実化する。etc

   
近代ではナポレオン・ヒルの成功哲学を先達に様々な種類の成功哲学存在する。
       
   これらの成功哲学で言われている成功とは、資本主義下の成功を意味する。
   成功哲学の成功の意味と、
宗教が掲げる成功の意味は、まったく異なる


 これらは成功哲学の中では重要な部分を占めている。

 なれど宗教においては、それらは、とりわけ重要ではない。
 世界中の優れた宗教は以下のことを教えている。
 あなたが日々に勤め、健やかに暮らし、神との交流を保ち続けた日々は
 何よりも価値があるものだと。

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● 宗教と成功哲学との大きな差A

 あなたが日々に勤め、その結果、大きな富を得たり、社会的な名声を得られた
 ならばそれはそれで素晴らしい。
 なれど、それらの富が得られなくても、素晴らしい。

 信仰に生きる人々の根底には、そのような価値観が流れている。
 神や仏を信じる人で、経済的な成功を得られないなどといって悲しむ人などは
 いないのである。もちろんそれにより経済的な苦労をすることになるかも
 しれないが、それは彼らには、本質的な事ではないのだ。

 
出口日出麿が20代の頃にこう述べた。

 『 自分の努力が報いられないからとか、自分の技能が認められないから
   といって大抵の人が、じきに泣き言を並べる。
   これは要するに、最初から
報いられることを目的として努力し、また
   最初から
俗世に認められることを念願として技能を磨いていたのが、
   後になっても、いっこうに、その願望が達せられないので、
   腹をたてたまでである。 』


 これほどまでに宗教と成功哲学は異なる。
 そもそも成功とみなしていることの対象が、まるで異なる。

 
若き日に、日出麿が書いた本は、みずみずしい。
 彼の
内面の温かさ求道の道を貫いていることがヒシヒシと伝わる。
   
                                       
出口日出麿

 成功哲学を述べる人の中には、成功哲学に宗教的な面を加えたいと
 願う人がいるものだが、そもそも成功そのものの意味が違うのである。

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● 信仰に生きる人々

 宗教は、経済的に豊かになることを否定しているのでは決してない。
 経済的には貧しいよりは豊かな方が良いだろう。
 悪い理由はどこにもない。
 だが信仰に生きる人々とって、社会的な名声を得られる得られないなどとは
 本来、本質的なことではない。
 だからこんなことで一喜一憂するものではない。

 信仰に生きる人々にとって、経済的に豊かになるとかならないとかは
 本質的な事では決してない。それは目的でもなく、本質でもない。

 
何かのおかげを求めて神や仏を祭るのではない
 おかげを求める人々は、おかげがある内は、神仏を尊ぶまねをするが
 おかげがなくなれば途端に冷たくなる。
 そのようなものが信仰ではない。

 大本(教)の
出口王仁三郎は、この世界に人間が生まれた理由をこう述べる。

 『人間は、
御魂を磨く為にこの世界に生まれたのだ』

 良い結果や悪い結果に一喜一憂するのではなく、それらの事、すべてが御魂を
 育て太らせることになるのだと王仁三郎は述べた。

          
           
日本が生んだ世界第一等の神霊家出口王仁三郎

          動画           テキスト

     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金のイエス
        『 稲穂黄金の出口王仁三郎
        『 稲穂黄金の深見東州



 
● 人類にはやはり宗教が必要である

 人類にとっては、真の宗教は必要である。
 世界各地で、人々を惹きつけた釈尊もイエスも、多くの苦難のある人生で
 あったが、その中にあっても屈せずに、前向きに力強く進んでいった。
 彼らは何かの見返りを求めて進んだのでは決してない。

 
宗教と成功哲学はこれほどまでに異なっている。
 成功哲学の成功を得ることが宗教においては、決して本質ではない。

 もちろん、ここでは功哲学のことを否定しているのではない。
 成功哲学のとりまとめを進めたアンドリュー・カーネギーも、心から多くの人々
 が経済的な失敗で苦悩しない為には、どうしたらよいか真剣に取り組んだ。
 彼自身、資本主義下で会社が倒産もし揺さぶられてきた。
 カーネギーには、確かに人々を想う愛があった。
 他の成功哲学を書いている者達もそうである。
 多くの人々に幸せになって欲しいと願ってペンをとっているのだ。
 だからこそ、成功哲学のことを真正面から否定はしない。

 経済的な成功もないよりはあった方が良いだろう。
 社会的な名声もないよりはあったほうが良いだろう。
 なれど、この世の中には成功哲学程度では、決して解決できない事がある。
 そうして、それはこの地上を生きている多くの人が気づいてもいる。

 もし成功哲学のいう成功が何よりも成功なのだとしたらイエスの生涯は
 失敗そのものである。
 成功哲学が述べる成功が最上の成功ならば、釈尊は釈迦族の王子として
 経済を盛り立て、人々の生活を楽して、政治に励んだことだろう。
 なれど釈尊の歩んだ道は、それとはまったく異なるものであった。

 何度もいうが、ここでは別に成功哲学の意義を否定しているわけではない。
 それはそれで良いものである。

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● 全てを取り込み利用する資本主義@

 資本主義とは、資本を拡大することを何よりの目的している。
 資本を拡大する為なら、ありとあらゆる方法を利用するのである。
 資本主義の力の強さは舐めてはいけない。
 それだけ資本主義は、何でも取り込みそれを手段として利用する。

 
成功哲学も資本主義の一つの道具である。

 つまり資本主義のルールに沿って生きれば、資本主義はその果実を与えると
 いうことを述べている。
 成功哲学が資本主義下で生まれたのは、偶然ではない。

 成功哲学で想定される理想像は、それは資本主義的精神をもつ実業家の
 それである。成功哲学はなるほど、資本主義下で成功した人々の性質を抽出
 して作られている。

 成功哲学の目的は、そのような資本主義に合致する精神を増やす事にある。
 なるほど、資本主義下で成功した多くの人々は、成功哲学を学んでもいる。
 資本主義は、資本の拡大に貢献するならば、どんなものでもその懐に入れる。
 成功哲学の中には、資本家が好きそうな徳目が並ぶ。

 修養を身に付けた結果、社会的成功を収めたという都合の良い誤解であって
 もそれによって、資本主義が加速するならば、いくらでも取り込むのだ。
 成功哲学は、資本主義の道具の一部でもある。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の資本主義
        『 稲穂黄金の未来の経済学



 ● 全てを取り込み利用する資本主義A

 資本主義が生まれてから数百年。
 社会のあらゆる所に資本主義から生まれた価値観が当然のごとくに見られる。

 例えば、新聞や雑誌、マスメディアの広告のほとんど全て資本主義から
 生まれた価値観で占められている。人々はそれに気づかない。

 しかし経済誌などを見れば、資本を増加に貢献するだろう事がウジャウジャと
 掲載されている。

  ”
人の3倍、効率的な仕事をする方法
  ”
短時間で、数倍の効果を生む方法
  ”
30秒で人の心を掴む方法
  ”
3分で商品を売る方法
  ”
速読!人の10倍の速さで理解する方法

 つまり、ある一定時間内に、最大の効果を発揮することを求めることばかり
 が求められている。
 ゆっくり時間をかけても良いから本物を作れ!とか、長い時間を経なければ
 真に優れたものは生まれない!などというものはないのだ。

 短時間で、どれだけの物を効率的に生み出せるかという話ばかりである。
 これこそ、何よりも資本の姿であり、資本が望んでいることである。
 まさに資本主義は ”
Time is money” (時は金なり)である。

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● 偉大な者達の共通点@

 いつの時代でも、偉大な時代には、以下の認識がある。
 それは、自然界にある力も、人間の内にある力も、本質においては同じ力で
 あるということだ。

 石ころが重力の力によって坂を転がっていき動くように、人間がある言葉を
 知ったことにより、目的を達成しようと考えたことと同様である。

 物体が外からの力によって動いたことも、我々人間が内なる声、動機に
 よって動いたのも内と外と違いがあるだけで、同じ力であるということだ。

 人間の行動の力も、この自然界に存在する力と同じであるという認識を
 もつことは哲学の道を進むものには必須である。
 この認識があるかないかで本物かどうかの判断ができるのである。

  カントの言葉はこれを端的に示している。
  
「 我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、
    我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない
 」


 そのような意味と同様に、国家も君主と民衆が共にひとつとなって、与えられた
 役割を発揮することが黄金時代なのだと述べていることである。

          動画           テキスト

     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の哲学者
        『 稲穂黄金のカント



 
● 古代の教育と近代の教育の違い

 古代の教育と近代の教育は大きく異なる。

 古代の教育は、徹底的に物に至ることを大切にしている。
 そして世の道理に気づき、1人1人が与えられた役割を果たし、国家としては
 人類として1つの全体としてまとまることを最善にしている。

 それに対して、近代の教育では、1人1人が物に至る意味は教わらず
 だからこそ、物に至る1人1人が集まり1つにまとまることも教えられていない。

   
古代の教育    物に至る事。結集し全体として1つになる。
   
近代の教育    他よりも優れる事。個々人でバラバラである。

 四書五経は以下のように述べられている。
 『 父と母のごとく君主がいて、民衆はその愛すべき子でもであり、
  君主は、父と母のごとく子を思い、最善をつくすこと。
  子は親を思い忠実に、その与えられた任務を全うするということ。
  その
一体感こそが、理想の姿である。』

 これに対して近代の教育は、主体はあくまでも、いかに他よりも優れているか
 が問われており、かつ主体は自分自身となっている。

 近代が生んだ成功哲学になると、さらにそれが行き過ぎて、想念であったり
 深層心理であったり、表に出始め、自己の開発能力を磨く事が中心となる。

 脳内の変革などの本が売れたり、願望、情熱、信念などを利用して、いかに
 能力を引き出すかの話がもてはやされる。

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 ● 古代の教育と古代ローマ@

 古代人では、多くの人々が物にいたり、この世の姿を理解して、各個人が
 与えられた役割を果たし、全体として1つとなる意義が教えられた。
 人類の力を結集して、
1つにまとまる意義、その大切さが教えられる。

 それにより圧倒的な高みに到達したのが古代ローマである。
 古代ローマ人は、ローマを愛した。その地に住むローマ人を愛した。
 彼らは、真に優れ、また真に力を合わせて1つになるかの重要性を知っていた。
 もちろん、様々な意見の違いはあるが、美しいものが何か、優れたものが
 何かを誰よりも知っていた。それに向けて、皆が力を合わせた。
 だからこそ、人類における最高峰に位置する古代ローマが生まれのた。

 これとは反対に、近代の教育では、いかに人よりも優れた能力を発揮する事
 が言われ、物に至ることは教えられていない。
 さらに物に至らないからこそ、何が真に美しくて、何が真に素晴らしいかさえ
 理解できていない。
  だからそれらを実現する為の力もなければ、情熱も有していない。
 だからこそ、それを生み出す為の協調性すらなく、バラバラである。

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 ● 古代の教育と古代ローマA

 自分1人で能力を発揮して、仕事をこなせると考えるのが現代人である。
 その仕事とは、なんてことはない日常のこまごました仕事に過ぎない。

 本当の大仕事。人類の大仕事。それに携わる意味が理解できないのだ。
 その大仕事に携わる勇気と気概さえ持ち合わせていない。

 だから近代、現代は、古代にまるで及ばないのである。
 どれほど科学が発達しようが、その意識がないから、あのローマのような
 美しい都市、街、彫刻、芸術を作りあげることが出来ないのだ。

 人類の大仕事にかける古代の人々の意気込み。
 古代の人々のその気持ちの意味が理解できなければ、何ゆえに古代エジプト
 の人々がピラミッドを作ったのかさえ理解できない。
 古代エジプトの人々が、どれだけ強い熱意であのピラミッドを作ったのかを
 現代の人々は、どこまで感じ取っているのだろうか?

 偉大な時代とは、人間の1人1人の力が強く、かつそれらの人々の結集する力
 が半端ではなかった事を物語る。

  遠い先まで見通す澄んだ目と、最上のものを生み出す熱意とが入り混じり
 偉大な時代には必ず、なんともいえない人々の熱気が存在する。
 
『 ローマは一日にしてならず 』 とは、まさにその通りである。

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● プラトンと民主主義@

 プラトンは、人間の可能性を夢見ていた。
 プラトンは、民主主義ではなく、それを越えたものを人間に求めていた。

 あらゆる国家の形態で、民主主義が最高だと信じている者達は、プラトンが
 述べていた真意を理解できない。
     
           
プラトンの著著『国家』
          
           現代の日本、日本人に、多くの事を教える。
  
民主主義資本主義で、国が立派になるなどと考える学者は大きな誤解をしている。
  それだけでは決して国家は偉大さを見せない。さらにそれは多分、本質ではない。


 民主主義を掲げる者達は、アリの社会で表現すれば、働きアリでも希望し
 能力があれば誰もが兵隊アリになれる自由があると主張している。
 さらに望むならば女王アリにもなれるといっている。

 これに対して、プラトンの思想は、働きアリはその役割に徹し、兵隊アリは
 その役割に徹し、女王アリはその役割に徹するということである。
 自然界のアリもその点を良く心得ていて、誰もが働きアリより兵隊アリの方
 がランクが上で、やりがいのある仕事などとは思っていないのだ。

 どのアリであっても、その役割に応じて、全体として1つの事、つまり次の世代
 を育ている為に全力を挙げているという点である。
 そのアリ社会で働きアリが以下のように宣言したらどうなるろう?

    ” 
僕は兵隊アリになりたいんだ!
     
働きアリはやりがいもない。
     
兵隊アリの仕事よりも価値が劣る!

 そんな発言をすれば、他のアリ達はこいつは何をいっているんだ?と
 首をかしげることだろう。アリの社会でそういうアリが多かったら、間違いなく
 あの広大なアリの巣を作り上げることはできないだろう。

          動画           テキスト

     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金のプラトン
        『 稲穂黄金の麗しき黄金時代



 
● プラトンと民主主義A

 偉大な文明というのは、この国民全体のある程度の共通意識がある。
 それは、皆、各人、役割も能力も異なり、それに適した仕事も異なり、
 その代価も異なるが、その貢献については同じであるという意識である。

 
社会主義、共産主義が至らないのは、役割の結果に対して受け取る代価
 も同じにしようとした点である。
 
皆で兵隊アリになったというわけだ。(笑)
 これではアリ社会は、確かにうまく回らないわけだ。
 そういうアリの国家では、実際にアリの巣ができあがら。

 もちろん
資本主義も、うまくいっているわけではない。
 資本主義は、働きアリよりも兵隊アリの方が貢献していると宣言しているようだ。
 アリの巣を作った功績は、自分達、兵隊アリだとさえ考えている。
 それでは、働きアリは
不満を抱えるだろう。
 確かに、アリの巣はできあがったが、不満が充満している。

 どのような政治体制であり、上記の共通意識がない国家は力が弱い。
 これがない国は、偉大さを発揮する事などできない。

 民主主義であれ、共和制であれ、帝政であれ、君主制であれ、どの政治体制
 であれ例外ではない。どのような政治体制であれ、これが出来ている国家は
 力を発揮し、偉大になりうる。

 貢献に対する平等の意識があるからこそ、1人1人が役目を全力を果たせる。
 その力が結集して全体として莫大な力となる。
 その思いが熱気を生み、予想だにしない力を生み出す。
 それが原動力になり、そうして偉大な文明を生み出す。

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● 偉大な国家になりうる条件

 プラトンはその著書
国家の中で、理想的な国家を語る上で、少し極端な形
 で自論を推し進めて書いてはいるが、その言わんとする意味は良くわかる。

 国民が、その適材適所が役割を分担し、色々議論はしても国民が、国民の理想
 の方向へ皆が、力を合わせ、その点において、王も貴族も農民も奴隷でさえも
 国家に対する貢献は、平等であるという信念を持ちえた国は、人類に忘れえぬ
 偉大な国家と認識される。

 現代の学者の中には、民主主義さえあれば国家が偉大になれると思って
 いる者達がいるが、それは勘違いである。
 どのような主義を掲げようとも、国家として何を最上の美学にするか!
 何をもってその国家を、国家たらしめるか! その点についての国民の理解
 がなければ、偉大な国家などにはなりえない。
 国内の人心がバラバラな状態で、偉大な国になりえた国家は、歴史上に
 1つも存在しないのだ。

 現代の日本が抱えている問題の多くもこの点にある。
 日本は、●●主義や▲▲主義がないから低迷しているのではない。

 国家としての全体像、理想像を失った事がその原因である。
 その姿が国民が意識し、漠然とでも良いから1つに統一されていない為である。

 民主主義や資本主義などをいくら掲げても、その点がなければ、それらに
 向かって国民が1つになって協力することがなければ、経済が発展しようが
 生活が豊かになろうが、人心はバラバラのままである。
 そうして芸術は衰退し、学問は衰退し、つまりは国家自体が、その内から
 崩壊していくのである。

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 ● 日本の衰退、そして復活@

 2000年以上、神なるもの大事にして、その文明の高みを維持してきた日本。
 日本国民もそのことを理解してきた。
 神なるものが栄えれば仏なるものの意味も理解できる。
 日本でもっとも優れたる人々が、神なるもの仏なるものの側にいた。

 しかし、
戦後の日本は、その神なるもの仏なるものを自ら放棄した
 それゆえ日本は、その有していた力を失うことになった。
 それに変わり戦後知識人と呼ばれる者達が登場したが、いかんせんレベルが
 低すぎた。学問をまるで修めていない連中であった。
 これらの者達で代わりを果たすことなど到底、不可能な話であった。

 日本において、飛びっきり優れた人々が2000年以上の時間をかけて
 積み上げた
英知(神なるもの、仏なるもの)が存在する。

 それを無視したことが、どれほど日本から力を奪い、弱めることになるのか
 ぐらいは見当がつきそうなものであった。

 日本国民自身が、神なるもの、仏なるものを放棄したのだ。
 目の前の経済的成長のみに心が奪われたからだ。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の日本
        『 稲穂黄金の未来の日本人へ
        『 稲穂黄金の未来の国家戦略



 ● 日本の衰退、そして復活A

 確かに国土は戦争で焼かれ、子供達もお腹をすかせていた。
 経済の復旧は急務であり、最優先事項であった。
 経済の復旧を誰よりも日本人が望んだのは、正しかった。

 そうして日本人は、経済、経済と経済まっしぐらに進んだ。
 その裏では神なるもの、仏なるものが喪失していったが、経済的成長に期待を
 かけることで、その場をなんとか繕って、神仏の喪失を見ないようにしてきた。
 確かに、日本は経済的に豊かにはなった。

 だが日本人は、その心の奥で孤独を感じている。
 これが自分たちが望んでいた国なのかと思っている。
 現代の日本は、人心が離れ、国民は各自バラバラの状態である。
 このバラバラさが民主主義であるとさえ思っている者達もいる。

 日本にこそ、プラトンが掲げる国家の意味を知る事が必要である。
 国家全体として理想とする方向へ向かい、国民がその点では、協力して進み、
 どのような職業に属しようが、仕事に対する報酬が異なろうが、国家に対する
 貢献においては、誰も同じである。
  よって国家の受けるサービスは誰もが同じであると。

 誰もが国家を真に思い、誰もが自由に議論する。
 この自由な議論が保証される事が民主主義の役割である。

 国家に対する貢献においては、どのような地道な仕事にあっても同じである。
 国民全体のその意識が、偉大な国家には必要不可欠である。

 もちろん、これは簡単なことなのでは決してない。
 多くの優れた洞察が必要である。
 国民全体で愚かな方向へまっしぐらに落ちていくことだってある。

 なれど、これを成し遂げないで偉大な国になった例は、歴史上に1つもない。
 ローマは、まさにそれができたから偉大になった。
 まさに『
ローマは1日にしてならず』である。

 民主主義や資本主義などの経済体制や社会制度で国が立派になると考える学者は、
 ローマから何も学び取っていない。人間の
叡智情熱勇気、さらに国民の共通の意識
 が必要なのである。日本国民は自らの共通意識である神話(日本神話)を自ら捨て去った。
 これでは偉大な国を作ろうにも、土台無理である。

 

  ローマ人のがあらゆる分野、場所へと波及した。    『(本)週刊世界遺産ユネスコ

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● 古代ローマ人の確信

 古代ローマは、共和制ではあったが、それでも指導者は、それに適した
 優れた者がなれば良いという当然の意識が国民の間にあった。
 各自が役割を持ち、どの役割であっても、それがローマを支えていると
 いう確信を、古代ローマ人達は共通に保有していた。
 だからこそ、色々あったが、ローマ人同士、非常に仲が良かった。

  
       偉大なるローマ。人間の叡智情熱勇気によって成し遂げられた。

 皆がローマを愛し、皆がローマを支えた。
 その役割においては異なっていたが、その気持ちにおいて同じであった。
 偉大な時代には、様々な意見を競わせはするが、共通の意識を持っていた。
 1人1人の貢献には、上下はないのだという一体感があった。
 1つの大きな家族、そこにはローマという大家族があったのだ。

 こういう点を軽視すると、民主主義とか共産主義とか、色々言ってみても
 その国家は全体として力を発揮しないのだ。

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● 現代の日本

 
日本がどういう主義を掲げても良いと思うが、現在の日本の国民のバラバラ
 な意識は一体なんなのであろうか? 
 資本主義者は、彼自身の多大な対価は能力の結果であり当然だと考え、
 貧しい者は能力を発揮しないからだと考える。
 
 共産主義者は、仕事の受け取る対価に違いがあるのは差別であると言って
 能力差による経済的対価の相違に不満をもらす。
 
 これらの人々に、経済的価値を越えて、国家に対しては誰もが同じ貢献を
 しているという意識を持たせることは難しいだろう。
  
 このような国では、偉大な国家などまるで近づけない。
 戦後の日本は、まるで至らない。とてつもない低みにある。

 国民の共通の意識が不在である。
 戦前の日本は、戦後の日本より経済的には、はるかに貧乏であった。
 確かに経済的な格差は大きかった。
 だが日本人としてのまとまりがあり安心感があった。
 日本人が意識する
日本なる姿も明瞭であった。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の日本
        『 稲穂黄金の未来の日本人へ



 
● 国民の共通意識 = 神話

 
国民の共通意識を醸造するのは、その国の神話である。
 古代ギリシャ人も古代エジプト人も古代ローマ人も、各自、壮大な神話を
 有していた。古代人は、神話がその国の人々の共通の意識を育み、方向性
 をつくり、大きな力を発揮することを何よりも理解していた。
 だからこそ、老若男女、神話に親しみ、神話を愛した。
 偉大な国家は、神話を大切にする。
 またその意味を理解することが教養人の第一歩である。

 
古代ローマ人は、何よりも彼らの神話を愛した。それがローマ人の共通意識となり、
 美意識と連帯感をいっそう強めた。ローマに生きる者達はローマを愛する者達として誇りと
 安心、連帯感を醸造したのだ。現代の日本はこれと
反対な事をし続けている。実に愚かだ。


      
古代ローマの街並み                (本)週刊世界遺産ユネスコ

 日本にも真に優れた日本神話が存在する。
 なれど戦後の日本人は、経済にかまけて、まず始めの基礎である神話を
 学ぶことをやめたのだ。自国の神話を知らない人を無教養な人というのだ。

 そういう無教養人は日本に多い。
 日本には、学歴を積み重ねた人は多いが、日本神話を知らない無教養人な
 人々が実に多い。自国の神話を知らない事は恥ずかしい事である。
 その意識すらない人々が結構いるのだ。

 特に戦後日本において、迷妄と愚鈍の共産主義や社会主義を信じる人々
 において、日本神話を故意に、遠ざけようとする活動が存在した。
 彼らはその意味するところについて、まるで理解できていなかった。
 そういう人々に支持されるような体制だから、社会主義、共産主義国家は
 あられもない姿をさらし倒れたのである。

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* 21世紀の現在、歴史ブームが到来している。
   非常に良いことだと思うが、そうであれば日本神話をしっかりと理解すること
   をお勧めする。なぜなら、戦前以前の日本人は、どの時代の人であれ
   日本神話を信じていたからである。特に当時の知識人と言われる人々は
   誰もが常識として理解していた。それが基盤にあって行動しているのだ。
   日本神話の知識があるとないとでは、歴史の深みがまるで異なる。
   日本神話の知識がなければ、何ゆえ、桶狭間の合戦前に、織田信長が
   熱田神宮に立ち寄ったのかさえ理解できないだろう。



 
● 現代日本の熱気のなさ@

 現代の日本がシュンとなって元気がないのも、つまりは物に至っていない
 からである。率直にいえば本物がほとんど見当たらないということである。

 こうなった背景としては、日本が戦後になって、
神なるもの仏なるもの
 軽視または無視した事が最大の要因である。
 なぜならば、日本でもっとも優れたる人々が、まさにその神なるもの、
 仏なるものに、密接に関わっていたからだ。
 2000年以上の積み重ねがそこにはあり、英知が宿っている。

 それを軽視して、日本は戦後、民主主義とか資本主義とかを大声で叫んでも
 力は停滞するばかりであった。
 さらに戦後知識人と呼ばれた人々のレベルは、いかんせん低すぎた。
 戦後の知識人と呼ばれた者達のレベルは、まるでお遊びであった。
 真に学問を修めているものもいなかった。

 日本が真に元気を取り戻し、熱気を帯びるようになる為には、せめて
 戦前の日本のレベルにまで駆け上がることである。

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 ● 現代日本の熱気のなさA

 戦後の日本は、戦前まで日本がつむいできて多くの良さを自ら破壊した。
 そうして現在、苦しんでいるのである。

 元気がないのである。
 熱気がないのである。
 様々な事が議論されても結局それがないから力を発揮できない。
 日本人の多くも、なんとういうか空しさを、連帯感のなさを、バラバラで孤立して
 いることを肌で感じているのだ。

 現代の日本人が、戦後日本の至らなさを真に理解し、戦前の優れた部分を
 再認識し、それらの良い点を吸収することが、まず最初に行うべき事である。
 もちろんそれだけで充分ではないが、まずそれをしない限り、この日本は
 力を取り戻すことはない。

 その上で、さらに真に偉大な文明へと近づきたいと日本国民が、真剣に
 欲するならば、国民1人1人が覚醒し、力を1つに結集する事が必要となる。

 もちろん、それが容易にできるなどとは言わない。
 だが多かれ少なかれその事に対処することが迫られる。
 なぜなら、すぐそこまで大きな嵐が近づいて、下手をすればこの日本は
 沈没する可能性もあるからである。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の日本
        『 稲穂黄金の未来の日本人へ
        『 稲穂黄金の未来の国家戦略

        『 稲穂黄金の未来世界2
        『 稲穂黄金の未来世界3



 ● 人間の内から発せられる問題

 この地上には、多くの問題があるがその大部分は、人間自身が自分達で
 引き起こしている問題である。
 
 もちろん、人間の力ではどうにもならないこともある。
 転変地変などはそうである。自然災害により人の命が奪われることがある。

 農作物を一生懸命育てても、川が氾濫して収穫がパアになる時代も存在する。
 日照不足により作物が育たないこともあれば、雨がまったく降らずに植物が
 枯れる自体にもなった。
   確かにこの世界には、人間の手ではおえない問題がある。

 なれど、この地上に起こる問題の多くは、人間自身が引き起こしているものが
 圧倒的に多数である。

  様々な欲求がぶつかり合い争いとなる。悪意、嫉妬、羨望、名誉によって
 この大地に多くの裏切りや騙し合い、蔑みや差別、非寛容さこの大地に
 溢れ支配した時代も存在した。
 確かに人間は救いがたい。


 ● 真の学問こそが重要である@

 真に学問の道を通ったもののみが、真に優れたものを見分け、賞賛し
 優れていないものを遠ざけることが可能となる。

 真に物に至れば、この世界の多くのことが手に取るように見えるようになる。
 真に学問をすることは、それだけの力がある。

 真理を探究する日々
 慣れしたしんだ考えを捨て去る潔さ。
 常に真理に照らし、誤診を遠ざける日々。
 それらの継続が、人間の心に神妙なる霊知を与える。

 中国が生んだ天才・孔子はこう述べている。
 『 
仁愛を好んでも学問を好まないと、
                 その害として愚かになる。
   
知識を好んでも学問を好まないと、
                 その害としてとりとめがなくなる。
   
信義を好んでも学問を好まないと、
                 その害として頑なになり人を損なう。
   
まっすぐなのを好んでも学問を好まないと、
                 その害として窮屈になる。
   
勇気を好んでも学問を好まないと、
                 その害として乱暴になる。
   
剛強を好んでも学問を好まないと、
                 その害として自分勝手な出鱈目になる。』


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 ● 真の学問こそが重要であるA

 真の学問を継続することが容易でないからこそ、真に優れた者には尊敬の意を
 示すことができる。そこには国境はなく、出身もなく、身分の差もない。

 自らその道を歩き続けたものだけがわかる境地がそこにはある。
 もちろん、それでその道は終わりではない。その先が延々に続く。
 その内で掴んだものを、体の中から外へと展開することにある。
 
 それでも、これは難しい。
 我々人間は1人1人、肉体を持ち、生まれながらの性格を宿すからである。
 生まれながらに欠点を宿す性格だっていくらでもある。
 人間は確かに救いがたい。

 なれどそれらを越えて、内から滲み出る何ものかが表現され始める。
 それらの実践は、これまた難しい。
 難しいことがわかるからこそ、自分が至らないことが真にわかるからこそ
 過去の偉大な賢人、偉人を素直に賞賛することができる。

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● 再度、物に至ること@

 真に物に至り、その神妙なる感じを、外へ広げようと欲すること。
 そこにたどり着き、それらの自らで体現しようという体験、それらを経ること
 によって、真に過去の偉大な賢人に心から感謝ができるのである。
 よくぞ、この道を切り開いてくれたのだと。
  
 そして今度は、自分が切り開く番であると。
 その道を貫くことが難しいことを知っているからこそ、そこに風格が生まれる。

 学問の正道を通ること。
 その大変さに、ひたむきさに挑戦し続けるからこそ気づかない内に圧倒的な
 力量が授かるのである。

 歩みは例え遅くとも、その一歩一歩が亀のごとく遅くとも、最後に勝つのは
 ウサギではなく亀である。 その正道を一歩一歩、歩き続ければ、いつかし
 ゴールがすぐ側まで来るのである。
 これこそが、学問を通して修養が備わることなのである。

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 ● 再度、物に至ることA

 朱子はこう述べている。

 『 自分自身の知識を充分に押し極めたいと思うなら、世界の事物に
  ついて、それぞれに
内在する理を極めつくすべきである。
  思うに、人の心は
霊妙なもので、どんな場合でも知識が働くものであり、
  また世界の事物には、
どんな場合でも理が備わっている。』

 『 従って霊妙な認識作用で物事の理を洞察するには、何の困難もない
   はずであるが、ただ事物に内在する
個別的な理について、まだ充分
   には明らかに尽くしてない点がある為に、その知識にも充分でない
   ところがある。 』


 朱子がここで述べている内容は、これから500百年後に、世に出る天才カント
 の思想を漠然としてではあるが捉えている。

 人間の脳の認識のありようを詳細に述べたカント。
 この世界には、人間の脳に先天的に備わるア・プリオリな認識があり、
 経験的に知りえるア・ポステリオリな認識がある。
 ア・ポステリオリな認識は、実験と検証によりより確実なものとなる。

 朱子は発言した内容で、理が備わっているというのがア・プリオリであり、
 個別的な理といっているのがア・ポステリオリに、まあ該当するだろう。

 ア・プリオリな認識、ア・ポステリオリな認識とは天才カントによって初めて
 世の人々に明確に示されたものである。
 この明確な認識はカントに負っている。

 なれど、それよりも遥か以前に存在した真に優れた者達の多くは、決して明確な
 意識ではないのだが、うっすらと、そのようなものに気付いてはいるものなのだ。
 色々な言葉でそれが表現されているものである。

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 * もちろんうっすらとした意識と明確な意識には天と地との差がある。
   カントによって切り開かれた道は、カント以外には見出すことは不可能な
   道なのである。天才の業績は、天才のみにおいて可能である。

     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
          『 稲穂黄金のカント
          『 稲穂黄金の孔子
          『 稲穂黄金の朱子



 ● 誠意と格物致知

 朱子の代表的な
格物致知
 物に至り、この世界にあるルールを知悉できること。
 朱子は始め、
誠意(己自身を治めること)を第一に掲げていた。

 なれど最終的には、優先の順序を逆にした。
 
格物致知(物に至る)を第一に掲げ、第二に誠意を掲げた

 物に至らなければ、意を誠にすることもできないことが、多くの人々を見て
 朱子は、つくづく思い知らされたのであろう。
 真の学問の道を進まない連中の多くが修養然として振舞ったに違いない。

 そういう連中では真に、この世界の道理に気付くこともなく、結局自分自身を
 最終的にまるで修めていることも出来ないことを朱子は悟った。

 それゆえ、朱子はまず何よりも真の学問の道、格物致知こそが、人々が
 進むべき第一であると確信したのである。

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 ● 再度、学問とは@

 真理に沿っていないならば、愛着がある考えでも捨てさる必要がある。
 自分勝手な思い込みが、学問などでは決してない。

 こうなのか?これで良いのか? 何度も心の中で問いながら進む道である。
 土台である根拠から出発して、論理的な思考に裏打ちされて真理に向かって
 進む行為こそに、学問を続ける価値がある。

 贅肉を落とせば、その下から筋肉が現れ出てくるように、迷妄と誤診を振り払い
 遠ざけることで、その下から真理がわずかばかり顔を出す。

 真理を探求することに関しての誠実な姿勢、そうやって真理に誠実に向かった
 姿勢こそが、結果的に修養によりもたらされる事と同様の効果を生む。
 修養の為に学問を行うものではない。

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● 再度、学問とはA
 
 学問に対する謙虚さとは上記に述べたように真理に対する謙虚さである。
 我々に与えられた知性に対する謙虚さである。

 ”あの人は謙虚な人だ”と世間一般に使われる謙虚という言葉とは明らかに
 違う意味がそこにはある。 学問における謙虚さとは、真理にどこまでも忠実に
 あろうとする
覚悟である。

 現代の大学教授や学者にはその覚悟の程が見えない。
 本を数ページも読めば、すぐにそれが手に取るようにわかる。
 どれだけ求道の道に進んでいるか、どれだけ学問ができているかなどは
 本を数ページ読めば、わかるものである。

 その覚悟がない者には、そういうことができない。
 まるで至らないからだ。
 なれど真に学問の道に進み、その道に至ったものは、本を開けば瞬時に
 その著者のレベルと、今までの学問を積み重ねた、その背景がうっすらと
 見えるくるものなのだ。

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 * もちろん趣味の為の学問であっても良い。
   誰もが覚悟をもって学問に取り組めるけではないのは確かである。
  そうそう才能ある人間もいるものではない。 
  さらにあまりに学問を真剣さを求めすぎると窮屈な世の中にもなるだろう。
  それでも、真に学問をするとは、まさに一生をかけた挑戦なのであり、
  歴史上の賢人は、その道を歩んだということは理解出来た方が良い。


 
● 孔子の歩んだ日々@

 孔子は真剣に学んで学んで、何が真理なのかを求め続けた。
 孔子は決して修養、修養と意識していたのではない。
 孔子の有名な言葉はそれを物語る。

  
15歳で学問の道に進むことを決心した。

  
30歳で学問において真に学ぶべきことがわかった。
  道がはっきりと見えた。

  
40歳でその学問を確立した。
  自分の進んできた道を確立した。

  
50歳で天命を悟った。
  自分が進んで確立した、その道の公への役割を真に悟った。

  
60歳で何を聞いても動じることもなくなった。
  あるがままの境地、学問を真に楽しむレベルに到達。

  
70歳で赴くままに行動しても道理に違うことがなくなった。
  自由気ままに行う事が、全てツボに、はまったごとく世界と調和した。

            
彼は修養然などは、していなかった。
           
真に学び続けた結果、その域へと到達したのだ

            
            
中国が生んだ天才孔子

 そんな日々を送って70年。特に修養などと意識しなくても、その頃になると
 自由に振舞い、なすことやること、すべて道理に適っていた。
 そうやって学問の日々を過ごして、その境地に至ったというべきである。

          動画           テキスト

     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の孔子
        『 稲穂黄金の麗しき黄金時代



 ● 孔子の歩んだ日々A

 孔子が70年かけて辿り付いた時に醸し出した雰囲気。
 その雰囲気だけを真似しようという輩が、修養、修養という者達なのである。
 孔子が歩いた70年を、真似するのなら実に素晴らしいのであるが、
 そうではなく、その70年の歩みによってもたらされた、その風格を安易に
 真似する連中が出てくるのである。
 本当に困った事であるが、こういう連中は実に多いのである。

 常に探究心をもって専門の領域にとらわれず、広い心で全ての分野に
 ついて探究し、真理に近づこうと勉めること。
  探究心を全開にして進む人は、日々の生活を規則正しく過ごそうと努める。
 静かな心を保持して、学問に取り組もうとするのだ。

 そういう規則的な生活と、日々の探究の維持があって、長い年月をかけて
 鍾乳洞の石柱が大きくなるがごとく、ゆっくりと修養が身についていくのだ。

 探求した後では、小休止を入れて脳の緊張を緩める。
 そして大らかに弟子と語り合う。そして休養したらすぐに、また学問の道へと
 入っていく。その繰り返しである。孔子は、たくさんの仕事もせざるおえない
 立場にあったから、その間に仕事もこなした。
   なれど真に学問の道を進み続けた。
 その腹を括った生き方が、結果的に修養をもたらす。
 修養を求めて学ぶのではないのだ。

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● 真の学問の道とは@

 物事を本当に知るとは、我を捨てる必要がある。
 偏った考えで真理の奥底へとたどり着けることはない。

 自分の考えに固執する人や、はたまた自分の考えはなく、他人の考えばかり
 に頼る人が真理に到達することもない。

  中途半端にしか学ばない者は、過去の賢人が唱えた説にとらわれすぎる。
 大切なのは真理であって人ではない!
 偉大な賢者が述べた事について、じっくりと耳を傾けることは確かに重要では
 あるが、それは盲信することではない。

 学者は、自分の専門分野にこだわりすぎる。
 専門分野にこだわるから、専門分野でさえ、極められないままで終わるのだ。

 偉大な賢者、偉大な探求者が残した書物を読むことは、そこに優れた者達
 の思考と問いの足跡を見るからだ。

 自分の思いに偏ることなく、何が真実であるのか、何が本当なのかを、必死に
 求めたこと、それを誰にでもわかるように、真摯にわかりやすく書こうと努力
 したこと。それらを見つけるのである。

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● 真の学問の道とはA

 その1行の文章を書く為に、何十、何十回と推敲を重ねたことだろう。
 何度も何度も考えぬいて知りえた事を、誰にとっても、わかりやすい言葉で
 届けようとする思い。
 それがもたらされたまでの、作者の魂の練磨を感じさせる。

 もちろん、最上級の作品には、そのような泥臭さは微塵もない。
 世にいう古典などは、まさに澄み切っているのだ。
 一級品になればなるほど、どこまでも澄み切った香りを放つ日本酒のように。
 真に最上の作品はその過程の労苦さえまるで感じさせない。

 日本酒をつくる杜氏が丁寧にかつ慎重に、何度も何度も手間隙をかけて
 もたらされた日本酒のごとくに、ゲーテやシェークスピアの作品もその場面
 で
最適な言葉を選んで表現している。

 両作品とも
苦労や泥臭さを感じさせない作品になるまで洗練されている。
 そのレベルに近づく為には、どれほどの推敲が必要であるか、どれほどの思考、
 直感が必要だったことだろう。

         両名とも紛れもなく天才である。天才の中の天才と言える。
         
         
シェークスピア              ゲーテ

 真に学問の道を進むものは、過去の偉大な人々の作品の背景に、
 それを生み出す為に、どれほどの境地、どれほどの日常があったかを
 自分の日常と見比べて理解するのである。
 だからこそ、また作品を心から楽しめるのだ。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金のゲーテ
        『 稲穂黄金のシェークスピア



 
● 真理は逃げも隠れもしない

 学問の学問たるは、修養などという言葉を忘れて、探求することにある。
 学問の謙虚さとは、何が真なのかをどこまでも追い求めていく事にある。

 それができない人は、学生時代に習った事を後生大事に盲信する。
 学生時代にならった先人の考えが正しいのだと頑なに信じる。
 こういう中途半端な連中が、やたらと●●派などの学説仲間を集いたがる。

 大切なことは真理を追究することである。
 
真理は逃げも隠れもしない
 それを求めることをやめ、他人の思考のうちに留まるものは、学問的に
 まったく謙虚なのではなく、怠惰な人間であると言える。

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● 商人に国を任せる国家はない

 歴史上のあらゆる国家は、軍人(戦士)、哲学者、神官、貴族(文化人)などの
 中からその指導者を選び出し、国家の舵取りを任せた。

        
ローマ五賢帝の1人マルクス・アウレリウス
         
        彼は、偉大な政治家であり、かつ、優れた哲学者でもあった。

 歴史上に様々な国家が存在しては消えたが、偉大な国家はもちろん、
 ある程度以上の国家で、その運営を
商人に任せた国を、私は知らない。
 小さな国家であれ、商人に国を任せる国家は、ないだろう。

 もちろんこれは経済を軽視するということではない。
 経済は、いつの世でも人々の生活には欠かせず重要なものであった。
 だから、偉大な国家の指導者も経済には精通した。
 経済を軽視したりなどは、もちろんしなかった。

 だが彼らは決して
商人ではなかった
 古代ギリシャの王、古代ローマ皇帝、古代ペルシャの王、モンゴル帝国、
 古代中国の始皇帝、偉大な国家で商人に国を任せたことはない。

 例え生まれた身分が高くなくても、それらの者は商人ではなかった。
 豊臣秀吉は、農民の子ではあったが、彼を商人とは言わない。
 彼は天下をとり、経済の力を利用し、商人を大切にしたが、それでも彼は
 商人ではない。
 国家の運営は、損得勘定を越えたものが常に、絡むからである。

 漢の劉邦も小役人であって飲兵衛ではあったが、彼が商人かといえば
 中国人は、誰もがそうではないというだろう。

 確かに経済は重要ではある。いつの時代に大きな影響を与えている。
 なれどいつの時代の人々であれ、それが一番重要でない事は理解している。

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* もちろん上記で述べているのは、決して商人の地位は低いとか
   商人は政治家になってはいけないなどと言っているのではない。
   世の中の多くの人々にとっても経済は非常に重要である。
   だが、世の中には、それ以上に大事な物があるということだ。


 
● 黄金時代は確かに存在した

  学問の道を歩めば、先人達の探求の格闘を知ることができる。
 人間はどこまで知りうることが可能か、それを真摯に探求を続けてけた人々
 の息吹に接することが出来る。

 学問の道は、修養を身に着けようなどという、そんな甘い覚悟では、
 近づくことさえできないものである。

 学問とはまさに人間の持つ真剣な問いである。
 生半可な気持ちでは決して届かない。

 偉大な宗教家は、命を懸けてただひたすら進んだ。
 偉大な科学者は、何千回も考えに考えた。
 偉大な哲学者は、人間の知性をあらん限りを尽くして探求した。

 どの学問の分野でも良い。
 そうやって学問を通して突き抜けたならば、人間として真に自由な境地に至る。
 世の規則にたがわず、その心は、鳥のごとくに飛び回り蝶のように羽ばたく。
 その時に至った状態は、周囲の人々が見れば境地と言える。
 遊んでいるかのように軽やかにまさしく、そう見えるのだ。

 確かに古代の時代に、そのような時代があった。
 確かに黄金時代は存在したのだ。人間のその可能性を忘れないことである。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の麗しき黄金時代
        『 稲穂黄金の古代人と現代人







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