天才と学者  1人の天才は、万人の学者の親である。学者がどのように考えようが、彼らは天才から生まれた子供に過ぎない。
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 『ヘタレの美学 123話』
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天才と学者
天才と学者の違いを明確に知るには知性とは何かを知らなければならない。
それが理解できなければ、1万人の学者が1人の天才に寄りかかっていることの
意味を理解することができない。

 
● 直覚的表象と抽象的表象

 我々、人間の脳の中には代表的な2つの表象が存在する。
 
直覚的表象抽象的表象である。

 直覚的表象とは、今、現に見ているこの世界である。
 抽象的表象とは、概念やあらゆる思考物が抽象的表象に属する。

 我々は学問において抽象的表象を利用して、学問を構築していく。
 なれどその学問の土台となるべき根拠は、全て直覚的表象の中に存在する。
 抽象的表象は、あくまでも直覚的表象の部分に過ぎない。

      
直覚的表象 > 抽象的表象

 抽象的表象の上で語られるべき様々な事の根拠は、全てにおいて
 直覚的表象の中にこそ存在する。

 直覚的表象から、一部を抜き出し組み合わせた物が抽象的表象である。
 それらをいくら組み合わせようが、抽象的表象で考えられる事は、
 全て直覚的表象内にあり、そこから越え出ることはまったくできない。

          動画           テキスト

 
* 上記の2つの表象以外にも、根拠をもてる表象は存在する。
    人間が根拠から判断できる表象は、実は4つ存在する。
    その内の2つの表象が直覚的表象と抽象的表象である。



 
● 真の学問とは

 抽象的表象の根拠はあくまでも直覚的表象の中にある。
 概念、思考あらゆるものが抽象的表象である。
 それらのものは、直覚的表象から選びとられ組み合わせされたものに過ぎない。
 抽象的表象に根拠を与えるのは、あくまでも直覚的表象である。

   感官(生の素材)  ⇒ 悟性(直感を得る) ⇒  直覚的表象 
                                  ↓ 捨象・抽出
   感官         ⇒        ×      抽象的表象

 抽象的表象は、直感に絡まない。
 あくまでも直覚的表象からの捨象・抽出に過ぎない。

 確かに学問を構築するとは、概念、思考を必要とする。
 抽象的表象を利用する必要がある。
 しかしそれらの思考によってもたらされた結果に根拠を与えるものは
 あくまで直覚的表象である。
 真の学問とは、直覚的表象に始まり、抽象的表象に帰結させるものである。

          動画           テキスト


 
● 天才と凡才の大きな差異

 天才と凡人の一番の差異はこの
直覚的表象の差といえる。
 直覚的表象上に描かれる映像の
鮮やかさがまるで違うのだ。

 凡人の脳が描く映像は、
白黒テレビのごとくである。
 天才の脳が描く映像は、
カラーテレビのごとくである。
 直覚的表象の鮮明さはそれぐらい異なる。

      
天才の直覚的表象は、誰よりも鮮やかであり輝きを伴っている。
       
            ゲーテ           ショーペンハウアー

 天才が有する直覚的表象は、鮮やかであり、地上の誰よりも輝いている。
 さらに言えば、こう言える。
 天才と学者の違いは、天才は色そのもの自体を生み出すと言える。
 それに対して、学者はいつでもその色を天才から借りて何とかカラー映像に
 しよう挑戦している者に過ぎない。
 仮に、この色の提供がされなければ味気ない駄作のデッサンに過ぎない。
 学者の論文は、何かしら過去の天才が述べた事に触れるのはこの為である。

          動画           テキスト

     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の天才へ
        『 稲穂黄金の未来の秀才へ
        『 稲穂黄金の未来の凡才へ



 
● 天才の作品

 天才を例えれば、天才とは
色そのものを生み出すと言える。
 その色が、対象物のどこにぴったり合うのかを把握している。

 眼前に、その答えが見えていると言える。
 自然に宿る木々や花が有する色を、把握して色を塗ることができる。
 天才は、色のそのもの、色の本質を知っている。

 天才が描く作品のごとくに、キャンバスに見事に色が配置され、もっとも
 美しく映える作品となるのである。
 これは芸術、哲学、文学にあらゆる分野において、天才によって生み出された
 作品は、何よりも調和し、本来からあったごとに展開される。

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● 天才と学者@

 天才と学者の違いを一言で言えば、見る人と聞く人の違いだと表現できる。
 
天才とは見る人である。  
 天才とはまさに、そのまま見えている。
 それが天才が天から与えられた才能である


 
学者とは聞く人である。
 それに引き換え、学者とはまるで見えない者達である。
 学者はこの世界の姿を見たという人々からその情報を聞いて手にいれて、
 それを話す人々と言える。

 学者が議論に用いる土台は、すべて天才が語った内にある。
 天才はこの世界の姿を実際に見ている者といえる。
 学者はこの世界の姿をまるで見ていない、実際に見えないのである。

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 ● 学者が行うこと、学者に出来ること

 この世界を見ることができない学者にとっては、この世界の真の姿を
 捉える天才こそが頼りであり、学者の情報源は、すべてそこにある。

 だからこそ、多くの学者は、過去の人々に思いっきり寄りかかるのである。
 寄りかからざる終えない面があるというのが正しい。

 学者は、この世界が見える者達が述べた内容をメモをして、そうやって
 たくさん現地情報を集めて記事にする新聞記者のようなものである。
 その記者も事件そのものにはまるで遭遇していない。
 それらの情報を、整理してなんとか1つの姿を模索しようとするのである。

 どれだけの情報を得ようが、そこで見ている人以上の正確な情報を得ること
 は決してできない。

 これが天才と学者の違いなのである。
 天才は常に見る人であり、見えている人である。
 これに対して学者は、常に聞く人であり、情報収集人である。

 この世界の情報を見たことがなく、聞いただけの学者が一万人集まろうが
  実際にこの世界をまじまじと捉える1人の天才にはまったく及ばない。

 学者がどれだけ面白く、おかしく表現しようが、実際の状況を見たことが
 ある人以上の情報など現すことはできない。
 まさに
百聞は一見に如かずである。

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 ● 学者の足場@

 学者は、天才が残したものの上に自らの足場を作る。
 学者は、学者自らが作り出した足場を持っていない

 天才こそが、この世界に真理を紹介する。
 その土台の上で、初めて学者がああでもない?こうでもない?と議論ができる。
 そういう議論は、いつの時代にも見られる風景だ。

 天才が残したものを色々くっつけて、ああでもない、こうでもないとやるのが
 学者の仕事になる。その活動範囲は天才の領域内である。
 その材料は、全て天才の残した物を利用しているのだ。


 学者が展開する情報の源泉は、天才の懐からもたらされた物に過ぎない。
 天才こそが学者にその立つべき足場を提供する。

        
天才が切り開いた領域(≒直覚的表象)
       
 その内部で学者がそれぞれに学問分野を開拓する。
          
        
学者の活動領域は、全て天才が切り開いた場所の中にある。

 学者が真に立ち上がる為には、天才の存在が必要である。
 天才達の土台がなければ、学者は立つことすらままならない。

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 ● 学者の足場A

 見る者と聞く者の差は大きい。
 学者に出来うる事は、天才がもたらした作品を、理解可能な範囲で理解
 する事に努める日々にある。

 なぜなら、天才がもたらした作品の中には、後に多くの学者が語るだろう幾百、
 幾千もの学説の元が含まれているからである。
 それだけ天才の洞察は、深く広い。  あらゆる面に影響を与えている。
 天才はもっとも大事な核心を与えはするが、そこから発生した細かい事度も
 に関わることはまずはない。それはまた、実際に天才の仕事ではない。
 それゆえ1人の天才は、万人の学者に仕事を与えるのである。

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● 種(たね)と土壌

 天才は、種(たね)そのものを提供すると言える。
 学者は、その種を育てる土壌と表現できる。

 天才の作品は、その種から最終的に実となる花々や野菜のごとく
 美しく、またおいしいものである。
 天才の作品は、真に素晴らしくあらゆる方面へと広がる。
 多数の方面で、学者が自分の土壌に種をまく。

 その種に、水をやり、肥料をまいて、おいしい野菜を提供できる学者もいれば
 貧相な野菜しか提供できないものもいる。
 途中で枯らしてしまうものも、これまた多い。
 どのようにでも育てることはできる。
 なれど、その種が生み出す作物の原型は、すべて天才に負っているのだ。
 天才の作品の上で展開されているに過ぎない。

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● 天才の直感

 天才の核心部分は、まさに天才特有の直感から生まれている。
 なぜなら、天才が天才たる理由は、過去に存在するいかなる学説や
 いかなる思考の上にもないからである。
 まさに、今まで無かったものを新しく発見するがゆえに天才なのである。。

 カントの純粋理性批判は、彼以外には、そのような発想すらあること
 に気付けない
 ゲーテの色彩論は、ゲーテ以外にはその発想すら思い浮かばない。
 ショーペンハウアーの根拠律の4つの根は、彼以外には誰も気付けない。
 天才の作品の根幹には、天才特有の直感がある。

 天才の作品とは、その天才以外に生み出すことができない。
 それは、自然界において多くの働き蜂に対して、1匹の女王蜂が卵をたくさん
 生む事と同様だ。どれだけの働き蜂が存在しようと女王蜂にしか卵は生めない。

    天才カントの登場により哲学のフィールドは数倍に広がった
    哲学において
カント以前、カント以後というのはとてつもなく重要である。
              
                
  イマヌエル・カント
 カントの意味を知るか、知らないかでは、まったく様相が異なる。
 残念ながら日本の大学哲学の教授のほとんどは、カントをまるで理解できていない。
 哲学学者には
哲学は難しすぎるのである。

 カントの作品は、カントが書かなければ1000年経っても誰も書くことは
 できない作品である。
 ゲーテの色彩論もゲーテ以外には不可能であるし、
 ショーペンハウアーの業績は、彼以外なしえるものはいないのだ。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の天才へ



  
● 天才のみが真に学問を進歩させる

 学問を真に進歩させるのは天才においてのみである。
 なぜなら天才のみが直覚的表象の領域を広げるからだ。

 今まで人類が掴んでいなかった直覚的表象に、新たな直覚的表象を加え
 領域を広げるのが天才の役目である。

            天才達が領域を拡大(直覚的表象
           
              天才こそが真に領域を広げる

 学問が真に進歩するのは、今までに足りない真理が、直覚的表象から
 もたらされる事による。
 学問の真の進歩は直覚的表象からの情報を追加である。
 これを真にできうるのは天才のみである。

          動画           テキスト


 
● 天才こそが領土を拡大できる

 天才の脳で生まれる直感こそが学問を拡張する。
 学問を真に発展させるのは直感である。
 といっても学者が思いつくような思い付きとはまるで違う。

 
天才の脳で生まれる直感のみが学問の領域を真に広げる
 大多数の学者が語る内容の全ては、天才が切り開いた中の領域にある。
 この領域の色々とネタを組み合わせるわけだ。

 どれだけの学者がいようと学問の領域を真に広げることには繋がらない。
 なぜなら学者のタネの全ては天才が切り開いた領域内にあるからだ。

  
      天才の登場によって学者の探究場所が広がる。
  

    
  1人の天才の登場が万人の学者に、新たに活躍できるフィールドを与える。

  学者が新しい学問の分野を作っても、例えば精神分析や心理学などを
 作ってあたらな分野を切り開いたように見えても、そこで語られる内容は
 天才達が見出したものに過ぎない。
 その根幹には天才達の言葉が横たわっているのだ。
 天才の脳で生まれる直感のみが学問の領域を真に広げるのである。

          動画           テキスト


 
● 天才こそが天才を理解する

 これに関連して、天才こそが天才を理解するのも、天才は他の天才が
 切り開いた領域の境界を誰よりも意識する為である。

 なぜなら、天才は、過去に存在した天才が切り開いていない領域を、
 新たに切り開くのが役目であるからである。
 その箇所を解き明かし、世に知らせるのが天才の大きな仕事である。
 その点に関して行うのが、天から才能を授かった者の運命である。

 天才が新たな領域を広げるからこそ、そこにいる学者達は自由にその
 活動を幅を広げることができると喜ぶのである。
 池が天才であるとすれば、その池で泳ぐ鯉こそが学者である。

 今の池よりも広い池への移動になった鯉たちは何があるのだろうと
 胸を膨らまして、新たな場所で泳ぐのである。

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● 天才の登場と周囲のざわめき

 世の中に
天才が現れると、人々はざわめき始める。
 真に優れた物が、この世界にもたらされる事をなんとはなしに感じ取る為だ。
 だが天才は、その人生において人々に理解されることは少ない。
 その時代において最初に天才に気付く者達の数は、極々少数である。

 これら少数の者達こそ、
時代的な探究者である。
 1人の天才の周りには、数人の時代的探究者がいるものである。

 その時代的探究者の解説に触発されるのが
一流学者である。
 世の中で、優れた書と絶賛される本が、だいたいこのレベルである。
 まあ、中身は至って平凡であり、学者が書いた本である事が直ぐに知れる。
 こういう本は、その分野の模範的な教科書本として取り上げられる。
 その一流学者の周りに群がるのが、大多数の
学者である。

 天才の作品を解説することで、時代的な探究者の名声は天高く上がる。
 
一時の間だけ、時代的探究者の名声は、天才よりも広がることがある。

 というのも、天才が中心に置かれた
だとしたら、時代的な探究者は
 炭の周りに置いてある、燃えやすい
木の枝と言えるからだ。

 炭に火がつく為には、小枝が燃える必要があるからだ。
 小枝は、一時、勢いよく燃える。
 もちろん、炭に一端、火がつけば、小枝は役目を終えて消滅する。
 炭は、長く長く火を保ち、人々を暖め続けることになる。

 ちなみに、一流学者とは、
まるめた新聞紙と言える。
 確かに一瞬間だけ、ぼわっと火が大きく燃えたように見える。
 木の枝に種火がつけば、紙はその役目をすぐに終えて消滅する。

 さらに、そうすると大多数の学者とは何であろうか?
 
である。火が燃えることには直接参加しないが、空気を送る風となって
 僅かに火を強めたりする。全体として、わずかばかりでも貢献しようと試みる。
 (たまに愚かな風になり、せっかくの種火を消したりする・・・・・)

 最初に紙が一瞬燃えて、木の枝に火が移る。紙は瞬時に燃え尽きる。
 木の枝が燃えて、それが炭に火が移る。木の枝もある程度で燃え尽きる。
 炭は、いつまでも長く火を保ち、温かさを長い時間、保つのである。
 
天才とはまさに、この炭のごとく、長く長く、その温かさを保つ
 (おっと忘れていた! 風の存在を・・・・・まあ、いいか)

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● 天才が引き起こす波

 このような広がりは、
のごとくである。
 鏡のような水面の上に落ちる一滴の雫が引き起こす波と言える。

             

 その一滴が落ちた場所を中心にして、水面の上に何十もの波が起こり、
 その波は静かであっても、対岸まで続くのである。
 1人の天才の起こした波は、そのように続くのである。

 輪の中心が
天才
 最初の小さい輪が
時代的探究者
 2番目に小さい輪が
一流学者
 3番目に小さい輪が優れた
優れた学者
 一番外側の大きな輪が
普通の学者

 1人の天才が現れると、その周りに少数の真の探究者が集まる。
 さらにその外側に一流学者が現れる。この数はだいぶ増える。
 さらに多くの優れた学者と続きく。
 一番外側には大多数の学者が並ぶのである。
 優れた学者という中には、世界的に著名な学者や名誉教授、教授、はたまた
 ノーベル賞学者の多くもこのレベルに多く存在する。
 そんの上の一流学者は限られる。
 時代的探究者となると、滅多に出会えない。

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● 学問とは何か

 学問とは、その根拠を直覚的表象の内にもち、抽象的表象を利用して
 論理の力によって展開するものである。

 抽象的表象の元にある根拠も、実は全て直覚的表象に含まれている。
 再度言おう。抽象的表象は、直覚的表象の部分に過ぎない。

       
直覚的表象 > 抽象的表象

 抽象的表象で、どれだけ複雑に思考が組み合わされようが、
 全て直覚的表象の領域内に収まるのである。
 学問は、決して、妄想や思い込み、都合の良い解釈などではない。
 真の学問とは、直覚的表象から始まり、抽象的表象に帰結させるものである。

 カントの以下の言葉は、これを端的に示している。
    『 
哲学は概念から成り立つ学問ではなく、
      
概念において成り立つ学問である。 』 

          動画           テキスト


 ● 再度、学者の足場

 学問が、直覚的表象からスタートして抽象的表象を利用して進むことは述べた。
 学問において何よりも大切なのが直覚的表象である。

 直覚的表象こそが真理に直結している。
 抽象的表象は、直覚的表象を土台にしている。

 直覚的表象から生まれた直感から、それが抽象的表象にて論理的な道に
 沿って進むのが学問の道なのである。

 そして、この直覚的表象が誰よりも鮮やかであるのが天才である。
 天才の直覚的表象にこそ、多くのヒントがあり真理が映し出されている。 
 天才の天才たる者の直覚的表象は、他の多くの人々と明らかに異なる。
 
 天才の脳の直覚的表象上に現れる映像こそが、あらゆる学者にとって
 根拠となるべきものが含まれているものである。

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 ● 天才のオコボレを題材にする、他の者達

 この天才以外の者達の、仕事といえば、極端に表現すれば、
 天才が残した物のオコボレを題材にして仕事をしているに過ぎない。

 どれだけ優れた者であろうが、天才の業績の部分を利用しているのだ。
 学者自身は、何も生み出さない。
 だから学ぶ者と書いて学者というのだ。

 もちろん中には、学者の中でも優れた仕事をする者はいる。
 そういう学者は、確かに多くの事を組み合わせて、あたらしい学問分野、
 新しいモデルを創作する。
  しかし良く見れば、そのパーツパーツは、全て他の人からの借り物であって
 根幹の部分には、天才の洞察が控えているものなのだ。

 学者の仕事の本質は、滅多に生まれない天才達がこの世に残した真理、業績
 を多方面から寄せ集め、比較して組み合わせるに過ぎない。
  こういう能力に秀でた学者は確かにいる。
 だが、その仕事をみればやはり学者の範囲に留まっている。

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 ● 抽象的表象に固執する学者

 学者は概ね抽象的表象を作ることに固執する。
 たくさんのやり方を模索して、工夫を凝らして考える。
 学者は真理を求めるのではなく、手法に凝りやすい。

 正確に言えば、学者は抽象的表象に凝らざる得ない。
 なぜなら、実際に見えないからだ。
 学者の直覚的表象は鈍くぼんやりしている。

 学者は、真に何かを生み出したことがない。
 実際に見たことがない。聞くことばかりである。

 学者は、なんとか理解しようと、たくさんの分類にわけては、なんとか
 その意味を知ろうと努力する。
 その為に、たくさんの言葉を生み出した学者もいる。

 しかし、それらの抽象的な表象から生み出された概念や思考、また言葉が
 どれほど多種多様に語られようと、直覚的表象を上回ることなど決してない。
 なぜなら何度でも言うが、抽象的表象は直覚的表象の部分に過ぎない。

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● 愚か者達の大合唱@

 学者が、抽象的表象に期待したい気持ちはわかる。
 なぜなら学者にはそれしかないからだ。
 
 だから学者は色々と思考して概念や言葉を生み出してきた。
 もちろん、それで何かの理解が深まることなどはない。

 天才の一言は、学者の千言に勝る。
 なぜなら天才は実際に見えているからだ。学者はそれを聞いたに過ぎない。
 学者が抽象的表象を使って、各自が事物の理解に努める事は別に構わない。

 だが抽象的表象を使って、直覚的表象を越えられるなどと考えることは
 愚か者が考えることである。 なれど、この愚かな考えは、いつの時代も
 浅はかな者達から熱狂をもって迎えられた。

          動画           テキスト

     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の浅はかなる者達



 ● 愚か者達の大合唱A

 こういうまったく至らない連中が熱狂したのは、抽象的表象で直覚的表象を
 越える手段があるのだという、冗談よりも劣る誤信に対してであった。

 いつの世も至らない連中は、努力もせずに、ひとっとびにゴールに辿りつけ
 ればな〜と考える。思考によって超越的な存在にたどり着けるという愚かな
 考えは、迷妄と愚鈍の輩の頭の思考にフィットした。

 まったく才能がない連中ほど熱狂した。
 なぜならば、これらの者ほど、そういうものの存在に憧れていたからだ。
 愚鈍で迷妄な輩ほど、自分が知的に劣っていることに気付くものである。

 それを嫌というほど知っていた彼らにとって、なんらかの思考の組み合わせで
 直覚的表象を越えれる!などと聞いた時のうれしさたるや想像に難くない。

 真に優れた者たちを、抽象的表象で、つまり思考の組み合わせによって
 越えていき、天才の領域まで進むことができる、などという夢物語は
 迷妄と愚鈍の輩にとっては、何よりも嬉しく、また狂喜乱舞した。
 そうして、これらの浅はかな者達の大合唱が始まった。

          動画           テキスト


  
● 愚か者達の歓喜

 これらの浅はかな連中がまず取り掛かったのは、言葉を作りだす事であった。
 つまり造語である。言葉同士をくっつければ何か新しいものでも生み出せると
 考えていたようだ。

 さらに抽象的表象に含まれる理性や精神を格上げすることである。
 つまり、抽象的表象こそが絶対であると宣伝し始めたのだ。
 いわく絶対精神!いわく絶対理性!の大合唱が愚か者達の口々から叫ばれた。
 この時代、
哲学は堕ちるに堕ちた

 これらの馬鹿者達の行動を拍手喝采で諸手を挙げて喜んだ者達がいた。
 キリスト教の指導者層の者達である。

 つまり、この世界には絶対的な知性が横たわり、その知性によってこの世界が
 計画されているという考えをキリスト教指導者層は、強調したかった、
 その当時のキリスト教指導者層にとってすれば、絶対精神や絶対理性などは、
 まことに都合が良かった。
 
 そうして真剣に学問を学ぶ場に、今日はあそこで、明日はここで、というように
 馬鹿者達が大声で叫ぶ始末であった。

 これらの他愛もない物語は、迷妄と愚鈍の輩を狂喜乱舞させた。
 大上段から、見下ろして、これはこうだ!と断定する輩が続出した。
 なんせ、彼らはこの世界を作ったという絶対者がついているのだから(笑)
 さぞや気持ちの良いものなのだろう(笑)

          動画           テキスト


 
 ● 真に救いがたい者達

 地道に、真剣に学問を努めようとする連中を、上から見下ろして断定口調で
 語ることこそ、才能がまるでない連中にとっては夢であり喜びであった。
 迷妄と愚鈍の輩は歓喜した。
 さらにキリスト教会からの賞賛が得られるに及んで、迷妄と愚鈍が群がった。
 この時代に、哲学は堕ちるに堕ちた。
 これらの輩にとっては学問は、思いつきと思い込みであった。

 この影響は現代でも残る。
 特に日本の大学哲学は酷い状態である。あまりに程度が低すぎる。
 大学教授の中には、いまだに、この世界には絶対精神や絶対理性があって
 世界は、その認識の発展過程にあるなどと、お遊びにもならないことを
 言っている輩がいるのである。それも決して少なくないのだ。
 真に救いがたいとはこの事である。

          動画           テキスト


 
● 探究者のレベルの一覧表

 話を戻そう。ここでは探究者のレベルをわかりやすく図で表現した。
 あまり、こういう学校の成績の偏差値表みたいなもので表現するのは、好きで
 はないが、将来、学問の道を目指す若者の為に、目安として書いてみた。
 あまり真に受けず、参考程度に軽く受け流して欲しい。

 どのくらいのレベルであるかを比較できる為に、現代においては、世に良く
 知られているノーベル賞学者のレベルと比較して書いてみた。

 探求者のレベルにも以下のような段階がある。
 学者として目指すべき最高峰のレベルは、時代的探究者である。
 しかし、そのレベルに到達する人は、限られている。

 --------------------------------------------------------------
 天才・最高の求道者|
時代的探究者 |  探究者  | 一流学者|学者 | 以下
 --------------------------------------------------------------
              |        ←  
ノーベル賞受賞者  →      
              |-------------------------------------------
              |   1%未満  |  10%  |  50% 30% |  10%
 --------------------------------------------------------------

 ここで述べるのは、ノーベル賞受賞者の業績ではなく、探究者として見た場合
 のおおまかなレベルについてである。

 ノーベル賞受賞者で時代的探求者に入れるのは1%未満。
 
時代的探究者に入る者だけが、その名を歴史に留める
 そのレベルに到達しない者、つまりノーベル賞受賞者の99%以上が
 歴史にその名を留めない。残念ながら時間による風化は厳しい。

 受賞者の1割程度が、探求者のレベルに到達する。
 大半の者が、一流学者から上の学者のレベルである。
 まるで平凡な者も3割程度、存在する。
 深遠さをまったく感じさせない者も1割程度いる。
 全体としてみれば、底の見える者が多数である。

          動画           テキスト

     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の求道者へ



 ● ノーベル賞受賞者の探究者としてのレベル@

 これらのノーベル賞受賞者に、世界とは?自然とは?宇宙とは?命とは?
 物質とは?時間とは?愛とは?などの質問をしても対した返答はない。
 大抵、それらの回答を聞くとガッカリさせられることが多い。
 至って平凡で、実際につまらない答えをする者が多い。

 もちろん、ここでは彼らの1つ1つの業績について論じているのではない。
 彼らの業績を否定しているのでも決してない。

 多くの者達は、その分野でそれなりの業績は残しているのだろう。
 その点についてはまったく否定しない。

 だが、あくまでも1人の探究者としてみた場合に
ほぉ〜!
 関心できるレベルの者を見つけ出すのは、非常に難しい。

 歴史に名前を残す者は、もちろん探究者としても一流である。
 なぜなら業績は充てにならないからだ。
 現代において例え優れた業績を上げたとしても、時代がその業績を包み隠して
 しまうのである。業績の多くはその時代にマッチしているのがほとんどである。

 時代が過ぎると、すぐにその業績が修正される。
 以前の学説や法則などは、それを包括する形で、新たなものがもたらされる
 からである。昔にもその時代にだけ利用された自然法則も多数ある。
 しかしそれらは時が過ぎれば、正しい法則の中に組み込まれていくのだ。

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 ● ノーベル賞受賞者の探究者としてのレベルA

 それに耐えうるには、時代的探究者のレベルに入っていなければならない。
 時代的探究者のレベルに到達する者は1世紀に数人程度である。

 まあ、それほど滅多に存在するものでもない。
 現代の科学者の中で、ニールス・ボーアに匹敵する科学者を見つけるのは
 容易いことではない。

 もちろん現代にも時代的探究者は存在する。
 科学の部門で時代的探究者のレベルに到達している者が1人いる。
 その名は
ロジャー・ペンローズ。量子脳理論の創始者である。

 
       彼の素晴らしさは、わからないことはわからないということである。
        つまり誤魔化さないということである。
        
知的正直さは高みに達する為には、欠かせないのだ。
 
         
                           
ロジャー・ペンローズ

 現在、生存する科学者の中で、彼は別格である。
 100年後の22世紀の人々が知っている21世紀の代表的な科学者の名は
 ロジャーペンローズであるのだ。

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● 学者の最高峰 = 時代的探究者@

  時代的探求者とは、学者として最高レベルに到達した者達である。
 その学問の分野の最高レベルを極めた人と言える。
 優れた直覚的表象を持ち合わせている。
 まさに学者の目指す最高峰であり、以下の者たちが属している。

 
心理学であれば、フロイトであり、ユングである。
 
社会学であれば、マックス・ヴェーバーである。
 
経済学であれば、マルクス(少し厳しい)である。
 
物理学であれば、アインシュタインであり、ニールス・ボーアである。
 
文学であれば、ニーチェであり、トルストイであり、ドストエフスキーである。

 もちろん
彼らは、決して天才ではない
 学者としては、その分野で最高レベルにあるが探究者の最高レベルではない。
 この上には、天才と最高の求道者がそびえている。

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 * 実際のところ、マルクスは、時代的探究者のレベルには少し厳しい。
   マルクスは、論理の展開があまり上手でないからだ。
   だがマルクスが、直感的に指摘した箇所は、現代においてもことごとく
   的中している。また彼は彼の頭脳としては、良くやった。
   その意味で、時代的探究者に含める。

     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の天才へ
        『 稲穂黄金の未来の求道者へ



 
● 学者の最高峰 = 時代的探究者A

 学者としては、最高峰のレベルにある。
 だが、これらの者達は決して天才というわけではない。
 天才に順ずる者達と言える。

 ここに属す人々は、時代的探求者にふさわしく、その名を歴史に留める。
 時代的探究者のレベル以上にならなければ、歴史に名を留める事はできない。

 それだけ時間の
風化の力はすさまじい。
 500年前に、その名を留めていた探究者は、数多くいるだろうが
 その時代の人々の名で、現在に知られる人の名は、数えるほどしかいない。

 1000年も経てば、さらにその数は少なくなる。
 古代ギリシャや古代ローマ時代など、また古代中国など、2000年以上経ても
 残る古典は、人類が生んだ宝である。

 古典を読めば、誰でも感じることであろうが、清涼感に包まれる。
 頭がリフレッシュされて、良い気が入ってくる感じに包まれる。
 1000年以上も生き残る作品には、まさにそういう性質を持ち合わせている。

 時代的探究者であっても、その中で500年以上も名を残すのはまれであり
 1000年以上も名を残すものは、ほんの一握りである。
 時代的探究者の遥か上空には、天才と最高の求道者がそびえている。

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● 最上位にそびえる者達@

 最上位にそびえる者達。
 それは天才であり、最高の求道者である。
 そしてそれら者達が多く見られる見られる分野は以下である。

     天才         芸術家・哲学者
     最高の求道者    宗教家・神霊家

 天才とは、芸術の分野でこそもっとも輝く。
 天才とは、生まれながらに天から才能を与えられたものである。
 努力云々でどうにかなるということではない。

 天才の顔には、必ずに天才の印である刻印がされている。
 天才の顔というのは、どこか光るものがあるのだ。
 天才にはその刻印があり、きらりとした美しさがあるので、人目につきやすい。

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● 最上位にそびえる者達A

   
天才(哲学) 古代ローマ人、古代ギリシャ人(もちろんプラトン)
             ゲーテ、カント、ショーペンハウアー

   
天才(芸術) 古代ローマ人、古代ギリシャ人、古代エジプト
             シェークスピア、 ミケランジェロ、モーツワルト
             レオナルド・ダヴィンチ、ピカソ、ゲーテ

  
最高の求道者  古代の偉大な人々(ヒンデュー、エジプト、中国、インド)
              釈尊、老子、孔子、イエス、空海、最澄
              出口王仁三郎、深見東州

 もちろん上記に述べた人以外にも、まだまだ存在する。
 (ゴッホやレンブラント、フェルメール、モネ、ルノワール、北斎、・・・・)
 (孟子、龍樹、釈尊の十代弟子、法然、親鸞、行基・・・・・・)
 だが上記に述べた人であれば、まちがいなく人類の最上位に属している。

 上記の人々の間にもレベルには、当然、差はある。
 なれど、このレベルにあるということがどれだけ、素晴らしいかは事か、それを
 理解できるのは、真に学問を進んでいる人だけであろう。

 釈尊などはとても同じ人間だとは思えない。
 仏のごとくで全ての悟りが開いているようにさえ思える。
 プラトンもとても同じ人間なのだと思えない。
 まさに神のごときプラトンである。

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● 天才と時代的探究者

 時代的探究者と天才の違いは何であろうか?
 それは
人智のレベルか?人智を越えたレベルか?ということである。

 アインシュタインの業績もニールス・ボーアの業績も大変立派である。
 でも彼らが仮に行わなかったとしても、時間は架かるだろうが、いずれ
 他の誰かが彼らの仕事をする人が出ただろう。

 マックス・ヴェーバーの仕事もニーチェの仕事も大変立派である。
 でも彼えらが仮に行わなかったとしても、時間はかかるだろうが、いずれ
 他の誰かが彼らの仕事をする人が出ただろう。

 これに反して、カントの純粋理性批判は、カント以外には不可能なのだ。
 どれだけ優れた人々が議論しても、カントの純粋理性批判は生み出せない。

 同様に、ゲーテの色彩論は、ゲーテ以外には書くことが不可能である。
 どれだけ優れた人々が議論しても、ゲーテの色彩論は生み出せない。

 天才の作品は、その天才以外、代わりがいないのである。
 天は、まさにそれゆえに、その者にその才を与えたのである。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の社会学者へ
        『 稲穂黄金の未来の物理学者へ



 
● 最高の求道者と天才@

 単純に、学問で優れた人と宗教で優れた人を比べることはできない。
 比べるべき土台は確かに異なる。
 学問は、根拠律をもつ表象を土台にして作られる学問である。
 宗教は、根拠律によらない信仰をベースにしている。

 哲学者や科学者がこの世界をもっとも理解していると多くの人は考える。
 なるほど、確かに学問は根拠律を土台にし、論理的に形成されていく。
 それゆえ、他の人々も後追いしやすく理解ができる。

 なれど、この世界の実相を知るという点において、真の宗教家は優れた科学者
 を遥かに凌駕する。それらと飛び越える。

 神なるものを問い、仏の教えを理解した求道者は、優れた学者を上回る。
 学問のように論理立てて説明できないことなど、この世界には無数にある。

 釈尊が1つの悟りを言葉に表すと、実際に万巻の書となったように。
 この世界で最上のことは、教えられて
知ることではなく、悟るものである。

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● 最高の求道者と天才A

 知性と信仰は、まったく異なる。
 本来であれば宗教と学問で優れた者たちのレベルを比べるなんて、できない。
 だがあえて上記のようにあげてみた。

 最高の求道者を、学者の最高峰である時代的探究者よりも上位に置くのは、
 この世界の実相を理解するという意味では、どれほど優れた科学者であっても
 これらの最高の求道者の先を行くことはできない。

 最高の求道者は、天才とはまた違う。
 天才的ではあるが決して天才ではない。
 天才とは、その才能を生かす以外の道はない。
 それ以外に生きる道はない。
 それが芸術家の道であり、音楽家の道でありそして哲学者の道である。
 鳥が飛ぶように、蝶が羽ばたくように、天才はその才能を行使する。
 最高の求道者は、まさにその天才と同列の位置に存在する。

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● 古代の人々の偉大さ@

 現代には名前が残っていないだけで、古代には、現代の我々ではまったく想像
 もできない程の深遠な者達が存在した。

 古代エジプト、古代ギリシャ、古代ローマのような偉大な文明の背後には
 それを支えうるだけの洞察力があり、知性が存在した。
 
 あれだけの文明が成り立っていたのだ。
 多数の優れた、そして名も無き人によって支えられていた。
 古代ギリシャや古代ローマの彫刻ひとつひとつ、それらを造った人々の名は
 伝わってきていないが、どれも素晴らしく飛びぬけている。
 
明るさに満ち満ちている

 かのゲーテが、ローマを訪れた時のゲーテの興奮はそれを物語る。

 『 ついに一切のラテン語の書も、一枚のイタリアの風景画さえも、
  もはや、これを眺めるに堪えなくなった。
  この国を見たいという欲望は、
成熟の度を越えていた』
 『 わが
青春の夢という夢がいま生き生きと目の前に広がっている 』
 『 ぼくがローマに足を踏み入れたその日から、僕の第二の誕生日、
   
真の再生が始まっているからだ 』

  
ローマを訪れたゲーテの喜びが、ひしひしと伝わってくる。
   
                            
ゲーテ

 
魂の再生を求めて、ローマに足を入れたゲーテ。
 ゲーテのその喜びをローマは裏切らなかった。
 ローマでの1年以上の日々は、まさにゲーテの魂を蘇らせ、天高く飛翔させた。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の歴史家へ
        『 稲穂黄金の古代人と現代人



 
● 古代の人々の偉大さA

 名は知らなくても、真に優れた者達が歴史上には存在しているのだ。
 古代ギリシャや古代ローマには、現代に名が知られていないだけで、
 本当に深遠な者達が多数いたのである。
 
 これをしっかり理解することが、偉大な歴史に対する礼儀である。
 そこに真に優れたる人々がいたこと。それらの名もなき、しかし優れた人々
 の業績が、人類全体の共通の宝である。

 もちろん、優れた人々の数十倍も愚かで迷妄な者達もいたことだろう。
 いつの時代も人間は変わらないからである。
 それらを含めて人間である。
 愚かさや迷妄を、遠ざけることは賢明であっても忌み嫌い憎むことではない。
 それらの愚かさは人間の本質に深く根ざしている。
 
それらを含めて人間である。

 
人間同士は決して敵ではない
 例え戦争がおき、殺しあうことがおきようが、決して敵ではない。
 古代においても、戦争は幾度も起きた。
 そんな戦いの中でさえ、古代の人々は、そこに人間の尊厳を見出した。

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● 時代のレベルの測りかた

 その時代がどれぐらい優れているかを測れる尺度がある。
 それは、その時代が生み出す文学、詩の高低によって判断できる。

 文学が優れた時代は、その時代の素晴らしさを表す。
 なぜなら、文学とは人間の生に対する積極的な態度を示すからだ。
 人間の生に対する発露こそが文学である。
 文学が出ることは、この地上で人間が輝きの量でもある。
 古代ギリシャ、古代ローマは、真に優れた文学が世にでた。

 ホメロス、アイスキュロス(以下3大悲劇詩人)、ソポクレース、エウリピデス
 ペトロニウス、ウェルギリウス、アンドロニクス、エンニウス、オウィディウス
 カエサル(ガリア戦記)、etc


 イギリスが勃興するときには、シェークスピアが出たし、
 18世紀のドイツには、ゲーテが出た。
 優れた文学、詩が生まれる時代とは、
偉大な時代の証である。

               
              
ウィリアム・シェークスピア
 シェークスピアの登場は、イギリス人がイギリス人として誇り、団結していた証拠である。
 その時代のエネルギーが彼に凝縮されたのである。
 
戦後日本の文学がますますヘナチョコになるのも、この反対の理由なのである。


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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の文学
        『 稲穂黄金の未来の文学者へ
        『 稲穂黄金の未来の小説家へ



 
● 貧弱な時代

 それに比べて、文学が弱い時代とは貧弱な時代を意味する。

 ゲーテやヴォルテールが活躍した偉大なる18世紀。
 19世紀にもニーチェ、トルストイ、ドストエフスキーが登場した。
 資本主義の流入により、街並みが変えられ、人々の価値感までもが急速に
 変化した19世紀の西欧諸国。
 その中にあってニーチェ、トルストイ、ドストエフスキーの優れた者たちが
 人間の本来ある姿を描いた。それは立派な作品である。
 だが18世紀に比べて19世紀は、文学の質がだいぶ落ちてきた。

 さらに20世紀になると、文学のレベルの低下は目に見えて激しくなった。
 坂道を下るようにその力を弱めた。
 現代は特に貧弱な時代である。文学の力の弱まりには著しい。

 ノーベル文学賞をとった者は、現在まで100人程度いるが、100年後の22世紀
 までに、その名を留めるのは2〜3人もいれば良いほうだ。
 確実にその名が22世紀にも残るのは、トーマスマン1人ぐらいである。

 これらの作家達とゲーテやシェークスピアを比べると天と地ほどの差がある。
 作家の持つ創造性、情熱も含めた
人間の力がまるで違うのだ。
 近代、現代は貧弱な時代である。

 特に戦後の日本の文学などは、情熱も欠け、知性も欠け、熱気もなく、
 美的世界もなく、すなわちヘナチョコ文学の様相の惨憺たる様である。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の古代人と現代人
        『 稲穂黄金の未来の文学者へ

        『 稲穂黄金の未来のゲーテ
        『 稲穂黄金の未来のシェークスピア
        『 稲穂黄金の未来の歴史家へ



 
● 戦後日本の著しい力の低下@

 特に戦後日本の力の低下は著しい。
 これが本当に空海を生んだ国なのかと思うほど、戦後日本の学問も
 文学も至らない。

 この国には、かつて真に優れて偉大な人々がいた。
 最澄、空海、法然、親鸞、道元、栄西、一遍、日蓮、行基、etc

 世界のどこに出してもまったく恥ずかしくない人々である。
 日本にこれだけの人々がいたのかと、世界中の人々が真に驚くだろう。
 皆、魂が輝ける人々であった。
 日本の思想の高さを示し、また日本の誇りである。

 これらの優れたる人々は、皆、神なるもの、仏なるものを行じていた。
 日本は古来より2000年以上神祭りを行ってきた。
 神なるもの、仏なるものこそ、日本人の英知が宿っている。
 真に優れたる人々は、ここにこそいる。

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● 戦後日本の著しい力の低下A

 それが戦後日本になると、日本人はこの神なるもの、仏なるものを軽視した。
 または無視した。その結果、日本が有していた本来の力をたちどころに失った。
 それはそうだ。
 真に偉大な人々は、皆、この
神なるもの仏なるものの側にいたのだから。

 戦後日本では、それに変わり戦後知識人と言われる者達が登場した。
 いかんせんレベルが低すぎた。まったく学問を修めていない連中であった。

 日本人は、その力の喪失を見ないかのように経済発展に目を向けてきた。
 明日は今日よりは豊かだ!の掛け声で日本人は突っ走った。
 なるほど現実を見ずにすんだ。そうして確かに経済的に豊かになった。

 そうして、周りを見渡したときに、あれ?何か大事な物を忘れてきたのでは?
 と思い始めて不安になった。
 預金通帳の残高は増えたが、それに比例するかのように空しさも増大した。

 神仏とのつながりもないから、人々のつながりも弱まった。
 日本とは何であり、日本が何でありつづけたのかさえ忘れてしまった人々。
 遠い昔にはあった何かが思い出せない。

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  ● 日本の選択

 日本人にとって、現代の日本はますます落ち着けない場所へと変貌した。
 そうこうしている内に、経済の成長も止まった。
 会社の規模は大きくなっても、給料は増えない時代がやってきた。
 これからどうなるのかと大きな不安が心をよぎり始めた。

 どれだけ文学、小説を読もうが、日本人のこの不安はいっこうに消えない。
 それはそうだ。戦後日本のヘナチョコ文学でどうこうなるものでは決してない。
 日本なるものが問われている。日本人なるものが問われている。

 現代の日本を生きる者達が、どのような生き方を選択しようが自由である。
 なれど、今を生きる日の本の民よ!
今しかないぞ!

 日本なるものを取り戻す機会は、今をおいて先にはないのだ!
 残念ながら、もうこの先にはその機会がないのだ!

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の日本
        『 稲穂黄金の未来の日本人へ
        『 稲穂黄金の未来の文学

        『 稲穂黄金の未来の文学者へ
        『 稲穂黄金の未来世界2







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