学者の欠点 学び続けるレベルでは真に学問に至らない。その先を進めてこそ初めて学ぶのが身についたということだ。
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学者の欠点

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 『ヘタレの美学 123話』
ヘタレもつ意味は広く深い。
漫画・アニメ界に居続ける数々のヘタレキャラ。彼らのふがいなさに憤慨しながらも決して憎めず、反対にいとおしく感じてしまうのはなぜだろうか?そんなヘタレ達に光をあてる
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学者の欠点
学者には多くの欠点が存在する。学び続けるだけで、真に学問に至らない為だ。
見えないのだ。真の学問に裏打ちされたその光がまるで見えていない。
だから彼らの進む道は暗く、一歩を踏み出すことさえ慎重にならざる終えない。

 ● 学者の欠点@

 学者には概ね以下の欠点をもちやすい。

  @ 抽象的思考に期待をかけ、時に夢を見る
  A 
真理に向かわずに人へ向かう
  B 
この世界に目的があると妄想する(=目的論者
  C 
人の業績を盗用する


 学者の多くは、抽象的思考に期待をかけすぎる。
 概念や言葉を多数、生み出せば何かが生まれると誤解する。
 色々と思考を組み合わせれば、何か予想もしないことが生まれるのでは
 ないかと期待するのだ。
 
 学者がこうなるのもわからないではない。
 なぜなら、彼らの世界を捉える直覚的表象は使い物にならないからだ。
 彼らの直覚的表象は、不鮮明で、濁っていて使い物にならない。
 一番肝心なものが役に立たない。
 そういう学者程、抽象的表象にすがるのにも理由がある。

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 ● 学者の欠点A

 この抽象的表象は、あくまでも直覚的表象の部分に過ぎないのである。
 直覚的表象から一部分切り取って、部分を組み合わせて構築したものが
 抽象的表象に過ぎない。

    
直覚的表象 > 抽象的表象

 部分に過ぎないものをいくら組み合わせても全体を越えることはない。
 この直覚的表象の鮮やかさこそ、その人の才能の土台になる。

 直覚的表象が曇りに曇り、才能の欠片も感じなさせない者達が存在する。
 そういう連中にとって、抽象的表象は何よりも彼らの支えである。

 彼らの直覚的表象は、彼らに力をまるで与えない。
 彼らもそれを知っている。
 だからこういう者達が学問の道に進むと、どこそこの誰それがこう述べている、
 こういう言葉を述べている! という事、意外何もいえないのだ。
 彼らの中に、確たる源泉がないのだ。

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  ● 学者で留まる者達

 学者で留まる者達は、真に考える事の意味を知らずに生涯を終える。
 彼らは、この世界には、どれだけ優れた人々がいるかを実感できない。
 鮮やかな直覚的表象を持つ者達が、日頃、どのような世界を捉えているかが
 実感できないのだ。

 こういう連中は、直ぐにお気に入りの話に縛られる。それが落ち着くのだ。
 何も考えず思いつきと思い込みのまま生涯を終える。
 彼らにとっては、経済的に豊かな生活が重要であり、また社会でなにがしかの
 地位を得られることこそが重要なのである。
 こういうレベルだから、学者のレベルで留まるのだ。

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 ● 仕事の流れ

 学問は、直覚的表象から始まり抽象的表象を経て形成される。
 学問の根拠は、直覚的表象の中にこそ存在する。

 学問の領域を真に広げうる者は天才のみである。
 その天才が広げた領域の中で、一番乗りして縦横無尽に活躍するのが
 天才に順ずる直覚的表象を有する時代的探究者である。
 
         
天才       あたらな領域を広げる
          ↓
        
時代的探究者  天才が広げた領域内の重要部分に関係する
          ↓      
       
一流学者     時代的探究者が形づくった学問を肉付けを行う。
          ↓
        
上の学者    一流学者の仕事を理解する者

 さらにその後には、一流学者が続き、時代的探究者が切り開いた学問分野
 に必要な内容を肉付けする。
 その後には、一流学者の仕事の内容を理解する学者が続く。

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 ● ガクラクを生産する者達@

 一流学者の仕事をまるで理解できない者達も存在する。
 学者にもなれない学者である。
 これらの者達の基礎にあるのは、思いつきと思い込みである。

 これらの者達でプライドが高いものは、なんとか他の人に認められたい!
 なんとか業績を出したい!と欲する。
 そうして
言葉や概念をひねくり回し始める。

          
学者    一流学者の仕事が理解できない者
           ↓
           ↓       人に認められたい気持ちだけが、先行する。
           ↓       言葉や概念をひねくり回す。
           ↓
        
ガラクタの生産

 そうやって生み出せれたガラクタが大量生産されるのだ。
 彼らは、何かを生み出せたのではないか?と胸をトキメカせる。
 だがそれは勘違いであったと彼らの内の多くの者もうっすら気付く。
 もちろんなんとはなしに気付いても気付かないフリをするものもいる。
 まったく気付かずに人生を終える者もいる。
 (それはそれで、そういう者達は幸せなのだろう(^^))

 彼らが書く論文や本は、
思いつき思い込みのオンパレードである。
 本屋にいけば、そういう無数のガラクタ本が存在する。

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 ● ガクラクを生産する者達A

 才能がない者達が何がしかの成果を出したい! 人々に認められたい!
 と強く望むと、大抵、言葉や概念をひねくり回すことになる。
 また色々とへんちくりんな思考をする。
 そうやって色々とひねくり回すことで、何かが生まれたと錯覚するのだ。

 彼らは自分達の直覚的表象が優れていないことを誰よりも知っている。
 彼らにやれることは、優れた者たちが残した中の素材を利用して、
 ひねくり回し、くっつけ貼り合わせたりする。

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 ● 抽象的表象に偏る学者

 なぜ、いつの時代も迷妄で愚鈍な輩ほど理性に無茶な要求をするかと言えば
 迷妄と愚鈍の連中にとっては、思考だけが唯一、天才達と競う事が可能な
 フィールドであるからだ。

 そもそも直覚的表象で競うことはできない。
 既に勝負は目に見えている。天才は、既に直覚的表象で明確に捉えている。
 本来、これは競う、競わないではなく、生まれながらに備わっている部分が
 大きなウェイトを占める。

 これに対して思考の領域ならば、凡人も天才と同じフィールドに一応のぼれる。
 その競争の舞台にあがれるだけはあがれるのだ。
 もちろん、思考においても、天才が平凡な人々を圧倒する。

 迷妄と愚鈍の連中は、何とかこの思考の中に、直覚的表象を超えるものが
 あって欲しいと願い、またあるように見せかけるのに懸命になる。
 思考の果てに超越的なアプローチが存在するように見せかけるのだ。

 それが絶対理性であったり、絶対精神などの愚劣な思想が、迷妄と愚鈍の輩
 から何度も出される理由なのである。
 
 学者で才能がなくても罪はない。(もちろん誇れるものではないが・・・・)
 しかし、勝手な妄想で、神や絶対者を学問に持ち込む輩は、真に救いがたい。
 こういう者達は、愚か者達の末路を歩んでいる事にまるで気付かない。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の浅はかなる者達



 
● 愚か者達の末路@

 愚かな者達は、いつの世にも出てくる。
 抽象的表象に過大な役目を要求する輩である。
 抽象的表象の思考と概念に、たよらざるおえない至らない連中にとって
 思考や概念によって、何かを生み出せれば良いのと過度の期待を欠ける。

 抽象的表象は、ひたすら、こう訴える。
 
俺(抽象的表象)は直覚的表象から生まれた子供である!”
 
俺が使用する全材料は、すべて直覚的表象からの借り物なのだ!

 抽象的表象が、そのように必死に学者を諭しても、学者はガンとして認めない。
 
いやいや、お前は直覚的表象を越えて、新世界にたどり着ける!
 
お前は、私達(学者)の為にたどり着かなくはいけない!頼む!
 と学者達は、必死の形相で、抽象的表象に言い募ってくる。

 愚かな者達は、さらに語気を強める。そして興奮して夢想する。
 
そうだ!お前は神へと通じる。お前は超越的な存在へ到達する!
 
お前こそは絶対精神となり、その世界まで到達できるのだ!
 
偉大なる思考よ、お前こそ絶対者である!

 こうなると、愚かな者達には何をいっても聞こえない。
 才能もなく、それゆえ学問を切り開いていく力がない者達にとっては
 思考や概念、言葉だけが頼りだ。

 それらの論理を駆使してあらゆる者を超えていけるという妄想ほど、
 迷妄と愚鈍の彼らを胸躍らせることはなかった。

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● 愚か者達の末路A

 彼らは自分がいかに知的に劣った人間かを、誰よりも意識していた。
 そんな彼らにとって、絶対者、絶対精神、絶対理性を語ることは、彼らが
 唯一、他の者達を上から眺める機会を作った。

 宇宙創造の絶対者を語ることは、愚か者達にとっては、優れた者達を大上段
 から見下ろせることができる唯一の手段であり、快感であった。
 勝手に理性や精神に期待しては、当の理性や精神も落ち着けぬだろう。

 いくら才能がないからといって理性や精神に超越的な世界を期待して、
 どうするというのだ。真に才能がない連中である。

 直覚的表象から情報を捨象・抽出しているに過ぎない抽象的表象。
 その抽象的表象にすれば、過大な期待をかけられる事は、いい迷惑である。

 いつの時代も愚か者達は、神の意図を語ってきた。
 神から始まる物語を語ることは、さぞや気持ちが良いことだろう・・・。

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 ● 誠実と不誠実@

 学問を志す者には、誠実な者がいる反面、その大多数は不誠実である。
 真剣に考えて考えて進む者は非常に少ない。
 しっかりと学問を実に付けようという気構えもない。
 才能もなければ覚悟が無い者が圧倒的、多数である。

 優れた数学者は、圧倒的な脳の練磨によって数学を前進させてきた。
 物理学者を先頭に科学者は、仮定し、それを実験によって検証して何度も何度
 も修正しながら真剣に進んできた。
  多くの間違いを何個も含んではいるが、それでも皆、懸命に進んでいる。

 それに引き換え、日本の大学哲学など本当にひどい状態である。
 自然科学の知識を学ぼうとする者などほとんどみられない。
 専門外だと思いこんでいるものが多数である。
 文科系の者達が、思い込みと思いつきでこの世界の真理とやらを語る。
 何も考えず、検証せず、研鑽せずに語ることはなんとも楽なものである。

           動画           テキスト

     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の哲学者へ



 ● 誠実と不誠実A

 神の意図を語る連中は、いつも大上段に構えて上から目線でのたまう。
 断定口調によってすべてを語り、それでこの世界が把握できていると考える。

 知的に劣ることは誇れることではないが、恥ではない。
 人間には生まれながらに備わるものには、確かに差がある。
 才能にもある程度の差がある。

 もちろん才能がないからといって学問をしてはいけないなどという事はない。
 どんな人間でも、ゆっくりとでも良いから学問を続けることに価値がある。

 恥ずべきことは、その道をあきらめて、勝手な妄想で済ますことである。
 いつの時代も、これらの愚か者達は多数存在する。

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 ● 超越的な世界に直ぐに期待する者達

 根拠律の適用を受けた4つの表象、その2番目の表象である抽象的表象に
 よって超越的な世界にアクセスできる術などはない。
 これらの表象は、時間、空間、根拠律の適用を受けている。

 
浅はかな者達は、思考によって超越的な世界に入れる事を夢見る
 抽象的表象に期待して、直覚的表象をも乗り越えたい望むのだ。
 最終的に、超越的な世界へと辿り付けるのはないかと期待する。
 学問的な努力をしない者ほど、そのような楽な方法を待ち望む。

 待ち望むだけなら、罪にはならぬが、これらの者達は、妄想をエスカレート
 させて、自分達の物語を宣伝し始めた。
 思いによって学問を変化させようとする輩の登場である。

 いわく絶対者、いわく絶対精神、いわく絶対理性。
 抽象的表象に属する理性や精神の言葉の前に、絶対という言葉をつければ、
 彼らの夢にまで見た絶対者の楽園にたどり着けると考え始める。
 思考によって、超越的な世界へとたどり着けることを夢見る彼ら。
 妄想は止まらなくなる。

 こうなると、地道にコツコツと進むことなどできなくなる。
 真剣に考える事はなくなり、真剣に考えるという意味すら彼らは理解できない。
 彼らは、救いがたい者達となるのだ。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来のユダヤへ
        『 稲穂黄金のユダヤVS賢者



 
● 似非者とキリスト教@

 
神の意図を学問に潜り込ませようとする輩は、いつの世も絶えない。
 それで語れば、この世が理解できると思っているのだ。

 今から200年以上前にも、似非者達が多数、世に現れた。
 いつの世も愚かな者達は現れる。

 200年以上前の西洋において、科学の発達は、目を見張るものがあり、
 絶対者の意図を語るキリスト教会の土台は揺さぶられていた。

 天才カントの登場によって、神を感じることがア・プリオリ(先天的な認識)でない
 ことが明白となると、いよいよ土台は揺さぶられた。

 この世は絶対者によって創造された世界だと信じていたヨーロッパ人は
 実は、生まれながらにそう考えるようになったのは自分達ヨーロッパ人だけ
 ではないかという事に気付き始めた。
 後から教育によって、悪く言えば洗脳によって、そう考えるようになったことを
 意識し始めたのだ。
 
カントの登場によって、西洋社会は大きく動揺した

 その不安を払拭する為に、キリスト教指導者層は学者を
買収する事にした。
 キリスト教の教義に合致する者を賞賛し、大学のポストを与え、給料を与えた。
 キリスト教指導者層は、神の意図を語る学者に賞賛と拍手を惜しまなかった。

         動画           テキスト

 
*  ここではキリスト教を批判しているのでは決してない。
    聖書は霊的であり、その内容も確かに高度である。
    真のキリスト教は仏教的である。
    なれど、そのキリスト教が、時にユダヤ的世界観に飲み込まれる時がある。
    その時に、多くの迷妄と愚鈍の輩にキリスト教は力を与える。

     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金のイエス



 
● 似非者とキリスト教A

 ここに雨後の筍のごとくに、キリスト教に媚を売る者達が登場した。
 その時代の哲学学者が雪崩を打って宗教に流れ込んだ。
 ある者は絶対精神を語り、ある者は絶対理性を掲げ、またある者はこの世界
 には計画があると主張した。

 ある愚か者達は、大声でこう叫ぶ。
 ”この世界の意識は発展途上にあり、その意識は発展進歩している”。

 実に愚かであり、救いようがないのだ。
 これらの連中は、言いたくてしょうがなかったのだ!。
 この世界には、神の意図があると。

 今日はあそこで、明日はここで思いつきと思い込みの話が聞こえてくる。
 これらの連中にとっては、思いつきと思い込みが哲学なのである。

 キリスト教指導者層も、これらの学者の意見には多いに満足した。
 教会からの要請は、神の意図は必然ということだった。
 これに合致したものは、教会側から盛大な拍手をもらえた。
 フィヒテやシェリング、ヘーゲルなどの二束三文にもならない馬鹿者達が
 大学で教鞭を取るやいなや、その弟子達もこれに続いた。

 大学の哲学はこういう輩が跳梁跋扈したのだ。
 
哲学は堕ちるに堕ちた

 この時代から、
哲学と科学は別れ始めた
 科学者は、独力で真理に立ち向かい始めた。

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● 真理に向かわずに人に向かう学者@

 至らない学者の特徴は
真理に向かわないという点に尽きる。
 真理には向かわずに
人物に向かっているのだ。

 マルクス研究者は、マルクスが考えたこと、述べたことばかりを題材にして、
 自分では考えない。マルクスの延長線上でしか話をしない。

 トルストイの研究者は、トルストイが考えたこと、述べたことばかりを題材にして
 自分では考えない。トルストイの延長線上でしか話をしない。
 彼らは、後追いばかりなのだ。こういう学者は、実に多く存在する。
 座右の銘などに、必ずお気に入りの人物の言葉を書いていたりする。

 その主張は、その人物の主張なのであって、あなたの主張ではないということ
 がわかっていないのだ。
 こういう人々の特徴は、その先にある真理は追わずに人を追っている。

 トルストイやニーチェなど優れた者たちは、
真理そのものを追ったのだ。
 人物を追ったのでは決してない。それに対して、いつの時代も、ほとんど多くの
 学者は人物を追っている。過去に真理を追った人物を追いかけているのだ。

 歴史上の名だたる賢人達と比べれば、マルクスは頭が良くなかったが
 それでもマルクスは、マルクスなりにその頭脳を使って懸命に考えた。
 そうやって生み出されたのがマルクスの資本論である。

 
マルクスは確かに頭は良くなかったが、彼は誰よりも真剣だった。彼のその真剣さを
 愛する人
も多くいるだろう。 彼は終生、ユダヤ的世界観から逃れる事はできなかった。

 
                   
    カール・マルクス
 ユダヤ的世界観は、彼が幼少の頃よりずっと慣れしんできた考えであった。彼から派生して
 もたらされた社会主義、共産主義は
ユダヤ的的世界観から生まれた子供であった。
 だが彼は、彼なりに
本当に良くやった。彼の頭脳としては良くやり遂げた。その点で立派だ。


 マルクスは、ユダヤ的世界観から抜け出ることなど、まるでできなかったが
 それを書き上げたことは、立派である。

 歴史上の人々もそれぞれに色々なレベルがあるが、それでも皆、真理に
 迫らんと、力強く進んだ人生としては、共通しているのだ。

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● 真理に向かわずに人に向かう学者A

 これをもっとわかりやすい表現をすれば以下のようになる。
 過去においしいピザを作った名人のそのピザを再現させようする職人と
 世界でもっともおいしいピザを作ろうと奮闘する職人との違いであると言える。

 前者の職人は、ある1つのピザの原型を追うだけである。
 これに対して後者の職人はあらゆるピザの中から最高においしいピザを
 作り出そうと挑戦している。もちろんその中には、あのピザ名人の作ったピザ
 も含まれている。

 前者の職人と後者の職人がもたらす差は、明らかであろう。
 名人のピザばかり追った職人よりも、世界でもっともおいしいピザを作ろうと
 奮闘した職人の方がピザの種類も味も数段、上となる。
 なぜなら過去に存在したピザ名人もきっと後者の職人であったろうからだ。

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 ● 人ではなく真理に向かうこと@

 偉大なカントからを学ぶのは、カントを通して、その先に進む為である。
 カントの学説を利用して、その奥に潜む真理の姿を明らかにするべく学ぶのだ。

 それに対して、多くの学者は、カント自体を学ぶことを目的にしている。
 学者の関心は真理ではなく、人に向いている。
 それが本当に正しいかどうかの関心が薄いのだ。
 それについて、カントが、どう言っているかだけに関心がある。

 これではいけない。
 何度も言うが、人に向かうのではなく真理に向かうことが大切である。

   
×   学者   →   カント     →  カント
    
   学者   →   カント     →  真理

 この違いは、とても大きな差を生み出す。
 カントが正しいのではなく真理が正しいのである。
 真理に向かって進むのが正しいのである。

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 ● 人ではなく真理に向かうことA

 どれほど偉大な人物であっても、時に間違いもする。
 真理に向かわず、カントに向かう者は、カントが間違った箇所でさえ無条件に
 受け入れてしまう。
 人間の知性の形式には、多くの欠点があり弱点がある。

 だから、カントを通して真理に近づくというならばわかるのだが、カントを学び
 続けることが目的ではない。
 どれだけ優れた人であってもその人に向かって進むのではない。

 だが、いつの世も多くの学者は真理に向かわずに、人に向かう。
 学者自身が自分には、真理に向かうだけの力がない事を認識している。
 確かに真理を獲得するなんてことは並大抵のことではない。
 自然は、あっけらかんと真理を表現しているが、人間はそれに気づかない。

 いつの時代でも、真理の姿を見る者は、真理に向かって進む者だけである。
 人に向かうような精神では、真理の姿を一瞬たりとも垣間見ることも適わない。

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 ● ○○学派に属しやすい学者@

 あなたが真に学問の道を歩もうと考えるならば、人に向かうのではなく
 あくまでも真理に向かって進むことである。

 人から学ぶ必要がない! などとは決して言っていない。
 多くの優れた人から学ぶ事が必要である。

 しかし、学ぶにしても、常に真理に照らしながら学ぶことが必要である。
 優れた先人においてさえ、間違えることは多々ある。

 真理に向かわず、人に向かうから1つの学問の中で、見解の違いから
 ○○学派などの集団が何個も出来上がるのである。
 その集団内部の考え方に固執して、そのメガネをかけて、物の見方が
 硬直して話を展開する。

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 ● ○○学派に属しやすい学者A


 学問に、もともと、そのような区切りなどはない。
 真に学問に向かうものは、優れた人々から分け隔てなく学ぶ者である。
 そういうのができないから○○学派や▲▲主義などに片寄るのだ。

 例えば、共産主義へとつながったマルクスだって、優れた面もあれば
 そうでない面も多分にある。
  資本主義者だから共産主義者の話をまるごと否定するのではなく、
 共産主義者だから資本主義者の話をまるごと否定するものではない。
 それは愚かな有り方である。

 人に向かうから、全ては、おかしくなる。
 経済学で、マルクス一辺倒だったり、ケインズ一辺倒だったりするから
 おかしいことになるのだ。
 そんな覚悟で学問している学者が多いから、あらゆる場所に
 不寛容さが現れ出てくる。

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● 厳しい道だからこそ共感が生まれる@

 真理に向かう厳しさを知るからこそ共感が生まれる。

 例えば、確かに共産主義には多くの誤りがある。
 安易な思い込み、計画で世の中をうまくいかせると考えている。
 共産主義には、人間に対する洞察がまるで欠けている。

 人間の救いは人間の内側でこそ発見できるものなのに、外的な環境に
 救いを求めている事自体、確かに救いがたい。

 だがその事と共産主義を全否定することはまるで異なる。
 特に資本主義が、この世界に何をもたらすかを真剣に考えたマルクスの
 業績を全否定することとは異なる。
 世の中が資本主義のとめどもない力によって、資本主義が暴れだせば、
 資本主義は人々をボロ雑巾のごとく働かせる事になるやも知れぬ。
 確かに資本主義は、資本を拡大させる為なら、あらゆる手を尽くす。
 人間すら利用し、その道具のごとくに使い切る面もある。


 ● 厳しい道だからこそ共感が生まれるA

 マルクスはその点を、真剣に考えた。
 そうしてマルクスは自分の核心部分を、経済学の土台に添えて彼の経済学を
 作り上げた。マルクスが述べたことは資本主義の一面を的確に捉えてもいた。
 彼は確かに頭は良くなかったが、それでもまだ見えぬ資本主義の正体を
 突き止めるべく真剣に考えた。
 その作業は確かに
厳しい道であった。
 
 真剣に学問を行うものは、この厳しさを通ることにより共感する。
 もちろん、何度もいうようにマルクスの資本論の仕事にも欠点があるし
 その代わりに、浮上してきた共産主義も、あまりに洞察が欠け、また本質が
 欠けたガラクタであった。
 共産主義者の頭の中にはユダヤ的世界観が宿り、それゆえ多くの人々が
 本当に苦しみ、辛酸を舐めた。
 秘密警察に連れられ二度と戻ってこない者達も多くいた。
 確かに多くの血が流れた。人間のもっとも醜い面が助長された。

 当時の多くの人々は、資本主義のあまりの力の強さに不安を感じた。
 そういう不安を抱いた人の多くが、当時、資本主義に対抗していると思われた
 共産主義に傾いた人もいるのだろう。
 そういう人々が、資本主義に不安を抱いて、それに変わる主義、それは当時、
 共産主義というガラクタであったが、それに傾いていったことを理解する事、
 また共感する事は必要であろう。

 主義主張によって、人間同士が反目し罵りあい憎しみ合うことは馬鹿げている。
 
人間同士は、敵ではなかろうに!

         動画           テキスト

     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の資本主義
        『 稲穂黄金の未来の経済学者へ



  ● 目的論者になりやすい@

 自分の中に鮮やかな直覚的表象がない者が、概念や理性ばかりの抽象的表象
 に浸っているとどういう事が起こりやすいか?
 これは簡単に想像がつく。

 そういう連中は自分の今いる場所を知りたくなるのだ。
 進む方向を知りたくなるといっても良い。

 概念や思考ばかりに頼っている連中は、方位磁石1つと他人の冒険日記を
 手がかりに、壮大な森の中を進んでいるごとくである。
 さらに悪いことには、その方位磁石の質が悪く、あべこべの方角を差すのだ。
 彼らも自分が持っている方位磁石の信頼性がないことは分かるらしく、頼りは
 手にもつ冒険日記となる。
 彼らには自分がどこを歩いているかはまったくわからない。
 地面を張ってあるくごとく、この世界の有り様などはまるで見えない。

 これに引き換え直覚的表象が優れた者達は、大空から大地を眺める鳥のごとく
 である。先の先まで見渡せる。彼らが頼りにするのは遠くまで見渡せる彼らの目
 と大空高く舞い上がる強力な翼である。

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   ● 目的論者になりやすいA

 進むべき方向がわからない連中にとって方向を示されることは何よりも助かる。
 そしてその方向そのものに意味があるとさえ考え始める。
 ここに目的論が彼らの頭にフィットし始める。

 そういう連中はこの世界にも目的があると考えるようになる。
 そう考えると彼らの質の悪い頭脳が安心するためなのだ。

 さらにその目的も以下のようなことを思い描くのだ。
 人類は、完成された社会体系や経済システムを求める為にあるとか。
 さらにはこの世界はある絶対者の認識にそって進んでいるとか。

 本当に馬鹿は考えない。思い込みこそがすべてである。
 そして目的論を掲げたものがほとんど陥るのが最終論である。
 つまり完成された何かの形を想像するのだ。

      
目的論  ⇒  最終論(最終的な形=完成系)

 目的があるならばその目的を達する最終的な形があるはずだとなる。
 まったく考えない連中の十中八九がこの最終目的論に走る。

 この世界は完全なる理性が横たわっていてこの世界もその理性の方向へ
 進むと述べる完全理性論。
 この理性と同様に絶対精神論なども展開される。
 または、社会制度や経済制度の完成を得るために人類があるかのように考える
 者達もいる。この最終論は宗教信者では終末論とも言える。

          動画           テキスト

 * 近年も『歴史の終わり』という本を書いた学者もいた。
  資本主義と民主主義をもって経済体制、社会体制の変革はどうも終わりだと
  述べたいようだ。この学者はまるで人類が第一に、なによりも良い社会体制や
  経済体制を得たいが為に生きているのだ主張したいようだ。 古代の人々
 (特に古代ローマ人)がこの話を聞けば、皆、腹を抱えて笑うだろう。


     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来のユダヤへ
        『 稲穂黄金のユダヤVS賢者



 
● 学者と盗用@

 学問の世界では、この
盗用という行為が、実に多いのである。
 他人の業績なのに、他人が語る説を、他人の名前をださずに、まるで
 自分が生み出した、オリジナリティーのごとくにいう連中が多いのである。

 それというのも、それらの者達は、その内面に何がしかを生み出す力を
 有していないからである。

 もちろん、何かを生み出す力がない者ならば、必ず人の物を盗用するなど
 とは決して言わない。誠実に学問を続けている学者も、それは多くいる。

 だが、それでもこの問題は指摘しておく必要がある。
 それだけ歴史上を見ても多く存在するからである。

 優れている者達の中にも、盗用は良く見られる。
 ニュートンの万有引力の着想は、フックに負っている。 ニュートンは、フックから
 その意味を教わった。もちろん、ニュートンは、その着想を数式として表現した。
 しかし、その着想はフックに帰する。
 ニュートンは、後年、フックの名前、フックの業績が、世に残らないように
 様々な活動したという。
 さらに『 木からリンゴが落ちるを見て万有引力を思いついた』というニュートンに
 関する話が世間一般に伝わっているぐらいだから、ニュートンの白々しい態度が
 目に浮かばないわけにはいかない。
 ニュートンであっても、学者の悪い癖が出たようだ。

 万有引力の着想は、フックであると公言しても、ニュートンの物理学に対する
 貢献の大きさは、何一つ目減りするわけではないのに・・・・。

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 ● 学者と盗用A

 学問の世界に盗用は実に多い。
 他人の知恵なのに、まるで自分の知恵のごとくに語る者は多くいる。
 こういう連中ときたらば、腹の中でこう考えている。

 ”他人の知恵をうまく流用して、いかにも自分が最初に考えたように見せよう”
 ”誰かに指摘されても、たまたま同時期に一緒の考えを持ったと言おう”

 もちろん、他人が述べた説であるという所在を、明らかにして語るならば、
 まったく問題はない。

 本を書くときにも、他人の学説を参照して自説を語るならば、その学説の
 所在をはっきりと記載することが必要である。
 そのことにまったく言及しないことは恥ずべきことである。

 それができない者達は、自分自身で、以下の事を認めているに等しい。
 ” 私には新しい事を切り開く力はない!”

 学者の中には、他人の説を盗用するものは枚挙にいとまない。
 地道に努力するよりも他人の知恵を、我が物にするのが楽であるからだ。
 その言葉が盗用かどうかは、その人が語る内容をじっと聴いていれば
 自ずからはっきりしてくる。

 なぜなら、それを最初に見つけた人は、見つけるだけの理由があり
 それゆえオリジナリティーがあるので、その言葉の意味について他の誰より
 も把握しているものなのだ。
 それに引き換え、人様の業績を盗用する連中ときたら、浅い理解しか
 ないので、幅広い展開などまったく期待できないのだ。

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● 一言述べるのは礼儀である

 もちろん、本に書いた部分の、これがあの人から、あれはあの人からと
 細かく正確には書けないし、書く必要もないが、それでも自説を語る核心
 部分が、どの人の意見を参考にしているのか、どの人の影響でそう書いて
 いるかを記載する事は、最低限すべきである。

 そのようなことをしない不誠実な人間では、決して本物の高みに到達する事
 などできない。盗用をする連中ときたら、その高みに達することは、自分では
 できないと、誰よりもわかっているからこそ盗用するのだ。
 そして永遠の低みの中でまどろむのである。

 ニーチェのような
知的正直さこそが求められる。
 偉大なるショーペンハウアーから、教えを受けた者達は実に多い。
 彼の名をまったく口にしなかった者達も多くいた。多くの学問分野に存在した。
 
 もちろん優れた者達の多くは、ショーペンハウアーのその名を口にした。
 しかし、彼らはそれ以上を多く語ろうとしなかった。
 彼らは、核心部分の多くを、ショーペンハウアーから教わっているのだ。
 なにより、ニーチェのごとく知的正直さが必要である。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金のショーペンハウアー



 
● 日本の学問の低迷

 近代から現代までの日本において、これほど学問がパッとせず弱いのも、
 そもそも学問の中心であるべき
哲学がこの日本では特に弱いからである。
 最弱といっても良いほどだ。

 
哲学はあらゆる学問の父にして、最初の問いを発する者である。
 日本において、その哲学が問いを発することできないことが、他のあらゆる
 学問が発展できない理由なのである。

 この国には、真剣に学問に取り組む者の存在が必要である。
 特に、真剣に哲学の道を志す者が必要である。
 現代の日本の大学の哲学科の教授の中で、哲学学者として、なんとか大目に
 見て合格点をあげれる者はどれくらいいるだろうか?
 残念ながら1%もいないのである。

 自然科学を修めていない者も多数いる。
 思い込みと思い付きをベラベラと話す輩も多い。
 それが哲学だと思い込んでいる大学教授も実に多い。

 いまだにこの世界には、絶対精神があってなどと話すアホの輩も多くいる。
 何に根拠があって、どのように進めていくかがまるで理解できていない。
 偉大なカントが登場しても、これらの者達にとっては存在しなかったのである。

 何かを証明するには、数学のような、脳の練磨と証明が伴い、また物理学者
 のように、仮説を実験によって検証する作業を何回も繰り返して、仮説を地道
 に修正することが必要となる。

 哲学の道を進む者に、数学や物理を専門家レベルまで理解しろとは言わない。
 しかし、その基礎ぐらいは身に付けなければ、論理的思考力を必要とする哲学
 の道は歩いていくことはできない。
 自然科学の基礎を理解しようという気構えは必要である。

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● 日本の大学哲学

 明治以来、140年。
 この国の哲学で真に優れたものなど1つでもあっただろうか?
 真に優れた科学者に、なんらかのヒントを与え、ヒラメキの手助けをできうる、
 そういう哲学が、この日本に、過去に1つでもあっただろうか? 

 
皆無である

 ニールス・ボーアがその思索において、日本の大学哲学に影響を受けたと
 いう話はついぞ聞かない。日本の大学哲学のだれそれの本からヒントを
 得たなどという話は聞いたことがない。

 21世紀の現代において、もっとも優れた科学者のロジャーペンローズが
 日本の誰かしの大学哲学によって、物理学上で助けてもらったなどという事
 はまったく聞こえてこない。

 真に優れた科学者に助力するだけ哲学学者が、明治以来、この日本に
 1人でも存在しただろうか?残念ながら皆無である。
 日本の大学哲学が、優れた科学者をサポートすることなどなかった。 

 現代においてもそれは変わらない。
 日本の大学哲学の主張は、優れた科学者の心にまるで響かない。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の哲学者へ
        『 稲穂黄金の哲学学者の為の哲学



 
● 真の哲学とは

 本来、哲学とは、あらゆる分野の探究を意味する。
 哲学の範囲は、人間が知りうる全ての範囲に対してである。
 
あらゆる分野に論的な光をあてる。
 人間の知性で掴める範囲の境界線ギリギリまでを理解しようと進んでいく。

 現代において、もっとも深遠な探究を行っている物理学者などの科学者である。
 それらの科学者に影響を与えられない哲学は、本物では決してない。

 その言葉が、優れた科学者などの探究者に興味をもたれず、単に文科系の
 人々の間でしか理解されないならば、それは真理でもなんでもなく、
 単なる業界用語と知るべきである。

 現在、科学も深遠なレベルまで進んでいる。
 これらの優れた科学者は、まさに真理を追っている。

 なれど21世紀の
科学の前に立ちはだかる壁は高い
 現代の優れた科学者の多くは、それをヒシヒシと感じている。

 これらの科学者を支え、真に有益な情報を提供出来るようでなくても
 とてもとても哲学の道を歩んでいるなどと人に言えるものではない。

 真の哲学は、文科系はもちろん理科系の者達に影響を与える。
 天才カントの登場によって、数学は、群論、ヒルベルト、数学基礎論(メタ数学)
 までにつながったのである。
 最高の天才ショーペンハウアーによって、数学、物理学、生物学、精神分析学
 など、あらゆる学問が影響を受けたのだ。

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● 本来の日本

 確かに、現在、この国の明治以来の大学哲学のレベルは貧弱であり
 地上すれすれを歩いている程度のレベルに過ぎない。
 実際に、救いがたいほどのレベルの低さである。

 なれど、本来、この日本が有する思想が低いレベルかと言えば、決して
 そんなことはない。
 反対に、日本が有する思想、正確には有していた思想は、世界のどこと
 見比べても見劣りしないものではない。
 反対に、その高さが際立っている。
 本来の日本が育んできた思想は、
世界トップクラスである。

 かつてこの日本には、真に優れた思想家、求道者がたくさん存在した。
 最澄や空海、法然や親鸞、道元や日蓮、一遍や栄西、さらに行基などの
 仏僧が残した学識、足跡は、いずれも輝いている。

 これらの者達は、真に優れて偉大である。
 世界のどこに出しても、
まったく恥ずかしくない人々である。

 この日本の中で、真に素晴らしい人々は、神なるもの仏なるものの側にいる。
 神なるもの、仏なるものを行じた者達である。

 この国は、仏僧以外にも優れた人々を排出している。
 歴代の天皇様、聖徳太子や菅原道真、平安貴族、さらに武家においても
 学問において優れた者たちも存在する。
 江戸時代の神道家にも優れた者たちが多くでた。

 近代では、
出口王仁三郎である。
 彼は近代の日本が誇る世界第一等の神霊家である。
 現代においては、なんといっても、
深見東州さんがいる。

 深見東州さんは、現代の日本の宗教家の中では別格の存在である。
 これらの人々は、まさに日本の思想を代表する者達である。

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 * これらの偉大な人々に比べて、現代の大学教授や名誉教授が書いて
   いる本の内容は、なんとつまらなく、かつ精気を感じない本であろうか。
   その著者が、まったく学問をしていない事が、行間から瞬時に感じ取れる。 
   もちろん、優れて学問を続けている人もいるにはいるが、その数は残念
   ながらいたって少ない。日本は、学問を復興する必要がある。


     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の日本
        『 稲穂黄金の未来の日本人へ
        『 稲穂黄金の未来の国家戦略

        『 稲穂黄金の未来世界2
        『 稲穂黄金の未来世界3



 
● 直覚的表象と顔の美しさ@

 明瞭な直覚的表象を描ける者は、たとえ顔が不細工であったとしても
 どこかにキラリと光る、美しさを称えているものだ。
 明瞭な直覚的表象を宿す者の顔は、他の人々を惹きつける。
 世の中では、知的な顔という表現がなされる。

 なぜ顔がキラリと光るかといえば、常日頃から内面で鮮やかで美しい景色を
 見ているからである。どんな人間だって、美しい景色を見れば目が輝く。

 同じ人であっても、美しい世界で暮らした一生と、醜聞の世界で暮らした一生
 では大きく異なる。顔つきが変わる程、異なるだろう。

 そうして実際にこの世界でも、顔つきが異なるのである。
 直覚的表象とは、人間が物心つく以前から毎日、付き合うものだ。
 この直覚的表象の鮮やかさが、顔に影響を与えるのだ。

 いつも目に見える景色が、キラリと光る美しさを作るのである。
 いつも見ている景色の美しさが、顔に反映されるのだ。

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● 直覚的表象と顔の美しさA

 明瞭な直覚的表象を持つ者は、社会のあらゆる場所から現れる。

 男であれ女であれ性別は問わない。
 大人であれ子供であれ年齢を問わない。
 豊かであろうが、貧しくあろうが、経済な豊かさは問わない。
 名家で生まれようが、名も無き家で生まれようが出身は問わない。
 貴族の子として生まれようが、農民の子として生まれようが身分は問わない。
 大学教授であろうが、肉体労働者であろうが職業は問わない。
 大学院卒であろうが、小学校中退であろうが学歴は問わない。

 あらゆる分野に、鮮やかな直覚的表象をもつ者がいる。
 どういう無学の者であっても、その者の顔は、知的な輝きを放っている。

 反対に、これと同様に、社会のあらゆる場所に迷妄と愚鈍の者も潜む。
 直覚的表象がまったく鮮明ではない者達である。
 直覚的表象の明瞭さは、顔に知的な刻印を押すのであるが、また不鮮明さも
 その顔に、愚鈍さと迷妄さの刻印を押すのだ。

 愚鈍と迷妄な者達の数は、いつの世も圧倒的多数であり、学歴がある者達、
 知識人と呼ばれている中にも多く、存在する。
 あらゆる場所で知的な顔もあれば、愚鈍な顔も目にするのだ。

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● 学歴や階層、出身に関係しない

 直覚的表象の鮮やかさと不鮮明さが、顔に表れるのは、国や出身も関係なく
 ましてや学歴や階層、職業にも関係がない。

 あらゆる階級で、あらゆる場所で、その違いは明らかなのである。
 子供の顔を見ても、賢そうな子か鈍そうな子かは顔を見れば
 皆が感じ取るのである。

 大人になると、余計にはっきりする。
 学者においても、直覚的表象が鈍いものの顔は直ぐにわかる。
 テレビで出てくる多くの評論家の中にも多種多様な顔があり、直覚的表象が
 が不鮮明な評論家も良く見られる。

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● 顔が捻じ曲がる者達

 直覚的表象が明瞭でない者は、本来は知的作業にはまったく合わない。
 なぜなら学問において、才能と呼ばれる物は、この直覚的表象にこそ
 存在するからである。

 直覚的表象がぼやけている者が学問に進む自由はあって良いのだが
 学問的な才能がない連中が、学問に懲りすぎりると、その無理が顔に
 現れ始める。顔が歪むのだ。
 
 直覚的表象の不明瞭さが、正直にその顔を表現しているのだが、思考に
 よってそれを乗り越えようと懸命になることで、大きなズレが生じてくる。

 自分の直覚的表象にまったく頼れない学者。
 やれることは、色々と考えを、優れた人々の考えをくっつけたりはっつけたり
 するのであるが、そうやって捻じ曲げてつけたりしていると、それが顔にも
 現れてくるのだ。どんどん酷い顔になっていく。

 直覚的表象が不明瞭な者でも、容姿端麗なら救われる。
 だが顔が不細工の上に、直覚的表象が不明慮な者は、どうしたものだろう。
 まあ、誰にも生まれながらに備わったものであるから、それを言っちゃ〜
 おしまいだから、面と向かって人にいうべきではない。
 
 だが直覚的表象が不明慮で、顔が不細工な上に、学問の力によって乗り越え
 ようとするもの、思考をグチャグチャにつなぎ合わせる者の顔は、内面の
 無茶が加わって、顔はなんとも酷いことになっている。
 まさに
顔は口ほどに物を言う

 テレビの評論家や、物書きの中で時たま、こういう人間がいる。
 こういう者達が、あらゆる分野に手を出して、知識を収集し、浅い内容を
 展開していると、大抵、見られた顔ではなくなるのだ。


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● 釈尊の美しさ

 神は人間の美醜によって判断はせぬが、神は美を好む。
 だから真に偉大な者達は、大抵、顔が美しいものである。

 例えば釈尊は、間違いなく美男子であった。
 というのも釈尊を似せて作った石像は、どれもこれも最高に美しい顔をしている。

 釈尊は、この地上の誰よりも優れていた。
 彼の知性は、数万キロまでも広がり、数千年先を見通していた。

 釈尊から見れば、他の人間など、まったく至らない馬鹿者達に映るだろう。
 釈尊と比べれば、地上に存在する、ほとんどすべての人がまるで至らない。
 なれど釈尊は、それらの人々を決して遠ざけなかった。
 人々の至らない面を愛し、そうして知恵を授けた。
 それらの人々にこそ慈悲を向けた。溢れんばかりの慈悲の心で接した。

 もちろん、時に人々を叱咤激励した。
 それ良いと判断した場合にはそのようにした。
 釈尊がどのように振舞おうと、それらの背後には、慈悲の光があった。
 釈尊は、すべての人間を受け入れたのだ。
 地上を生きる同じ人間を、同士として受け入れたのだ。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金の未来の釈尊



 
● 偉大な者達の顔

 真に優れた者たちの顔には、知性の刻印が押されている。
 かのゲーテの顔を見た王様がこう述べたそうだ。
 
まさしく、これこそが人間の顔である!と。

 
愛すべき天才。彼の顔に、誰もが大人になると無くす子供の輝きが残り続けている。
   
 
天才ゲーテ    年老いても、なおその顔には知的な光が輝いている。

 老年になっても知的さがありありと表れていることからゲーテの天才ぶりが
 推し量られる。その美しさを保つものが天才なのである。

 現代にもその見本がいる。深見東州さんである。
 21世紀を代表する探究者であり、世界第一等の宗教家である。
 彼の顔も実に美しく、また神々しい。
 この人は21世紀を代表して他の世紀の偉人、賢人と切磋琢磨している。

   21世紀の世紀代表して、他の世紀の偉人、賢人と切磋琢磨する深見東州さん
    
   本当に神々しい顔をしている。実に美しい。
   神なる者に向かって、学問、芸術、芸事など、どれだけ切磋琢磨、練磨の日々を
   維持し続けているかが、その顔からうかがい知れる。

 
もちろんすべての偉大な者達が、美男子か言えばそうとも限らない。
 顔が美しいことで、女にもてて道を踏み外すこともあろう者には、
 神は、不細工な顔を与えることもあるだろう。例外はいつでもあるものだ。

 だが、宗教でも学問でも何であれ、語られている内容がわからない場合、
 語っている人の顔が光り輝いて見えるなら、つまり美しく見えるなら、
 そちらの人の方が神なる物を語っているだろう。
 もちろん例外はあるが、例外はあくまでも少数である。

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     (*) 詳細は以下のサイトを参照。
        『 稲穂黄金のゲーテ
        『 稲穂黄金の深見東州



 
● 学者のレベル

 ほとんどの学者の頭にあるのは、思いつきであり思い込みである。
 それがほとんど全てだという学者も多数存在する。

 学生時代に習った考え、今まで見聞きしてきた考え、それらによって頭の中が
 縛られている。実際にはその縛りは自ら要求したものである。
 というのも、自分自身で真に考えることができないから、それを要請した。
 彼らには立って拠るべきその土台がないのだ。
 その為、他人の考えを土台にして、どうにか考え始めることができる。
 そうして何とか、一歩を踏み出そうとしてするのだ。
 学問とは思い込みなどではない。
 勝手な妄想から始まるものでもない。

 
人間ならば必ず間違う
 人間の知性などはたかが知れている。
 過去の優れた探求者でさえその考えには、多くの誤信が含んでいるものだ。
 誤信が含まれることは罪ではない。人間なら誰もが間違う。
 
 なれど、優れた者達は注意を払い、その誤診を切り分け、振り払う努力をする。
 真理に沿って進もうと心がける。
 それらの者達には、その覚悟と実践がある。

 間違うこと自体が罪なのではない。誰でも間違う。
 問題は自分勝手な意図によって安易に進む時である。
 その時、知性はその輝きを失う。 そこに多くの誤信と迷妄を引き込み、
 さらには多くの誤診を世に広める事となるのだ。

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● 真理の川に沿って上流へと進む@

 歴史上の賢人の意見はあくまで参考にである。
 まず第一に真理を追うことが大切なのである。
 その上での賢人の解釈、意見である。

 そうやって学ばず、ユングばかり追うからユングの真の姿が見えない。
 マルクスばかり追うからマルクスの真の姿が見えない。
 トルストイばかり追うからトルストイの真の姿が見えない。

 彼らもまた、先人の意見に耳を傾けながら真理の探求に向かったのである。
 彼らが耳を傾けた者達の解釈、意見も知る必要がある。

 確かにある一定の量を越えて学ぶことは必須である。
 でなければ、ある賢人が何ゆえこういう考えを持つに至ったか理解しにくい
 からである。

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 ● 真理の川に沿って上流へと進むA

  だからといって闇雲に、物知りみたいに多くの人々の解釈を知る必要もない。
 つまり真に沿って進んでいきさえすれば、常にその側には真の探求者、真の
 賢人達が控えているものなのだ。

 どれほど遅い歩みであっても、真理の道に向かっていきさえすれば、
 一歩、また一歩と真理に近づけ、さらには歴史上の賢人達と肉薄する所まで
 上がっていけるのだ。

 そのような道を通らず、歩く辞典見たいに知識ばかりを積み重ねているものや
 考えずに色んな意見を調合して本を書いているような者達などを、あっという間
 に追い越すことができる。
 彼らが、その足元にすら近づけない程の高みに到達することが可能なのだ。

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● 一歩一歩と進み続けること

 その歩みは、亀のごとく遅くとも、
一歩一歩進み続ける者は、いつしか
 ウサギでも追いつけないところまで進む。
 確かに山登りは大変だ。一歩一歩、進むごとに息が乱れる。
 登るのを諦めるものも多い。
 登った気になってそれで終わる者も多い。最初から登らない者達も実に多い。

 しかし、休みながらでも進み続ける者は、いつしかその高みへと到達する。
 上から見る景色は、素晴らしい。雄大であり、かつ鮮やかである。
 あらゆる方面を見渡せ、その全体像をはっきりと捉えることができる。

 最初の一滴が大河をもたらすように、その一歩一歩が君を高みへ導く。
 学問を志す未来の若者よ。その一歩の価値を忘れずに、さあ!歩もう!

 
歩くのは、明るい内に限る

 今、君達の頭上には、確かに昇り行く
太陽がある。
 なれど日はあっという間に傾き、いずれ闇が訪れる。
 闇が訪れれば、もはや歩くことはできない。

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